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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第1ページ 普通になれない朝

【前書き】


「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」


誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。

人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。

ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。


そんな“生きづらさ”を、

「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。


この物語は、

“普通”になれなかった人たちの物語です。


誰にも言えない孤独。

理解されない苦しさ。

消えたいわけじゃないのに、

この世界にうまく馴染めない感覚。


主人公・朝比奈凛は、

そんな痛みを抱えながら生きています。


けれど、

生きづらさには、理由があります。


そして、

名前のつかない痛みにも、

いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。


この物語が、

今苦しんでいる誰かの心に、

小さな灯りとして残りますように。


 朝比奈凛は、物心ついた頃から、自分の中にだけ音の合わない楽器があるような気がしていた。


 教室で誰かが笑えば、みんなと同じタイミングで笑わなければならない。先生が「好きな人同士で班を作って」と言えば、慌てない顔をして、でも誰にも選ばれなかったときの痛みに備えなければならない。友達が「なんでもないよ」と言えば、本当はなんでもなくないことを察して、それでも踏み込みすぎない距離を探さなければならない。


 凛にとって、毎日は答えのないテストだった。


 正解がどこにも書かれていないのに、間違えた瞬間だけ、周りの空気が冷たくなる。


「凛、そういうところだよ」


 小学生の頃、同じ班の女子に言われたその言葉を、凛はいまだに覚えている。


 そういうところ。


 どこなのか、何がいけなかったのか、最後まで誰も教えてくれなかった。ただ、その日から凛は、自分の言葉を口に出す前に何度も飲み込むようになった。


 家に帰ると、母の美咲が台所に立っていた。味噌汁の匂いと、まな板を叩く包丁の音。凛はランドセルを下ろしながら、今日の出来事を話そうか迷った。


 けれど、母はいつも忙しそうだった。


「ただいま」


「おかえり。手、洗ってきなさい」


 凛は洗面所へ行き、蛇口から流れる水を見つめた。冷たい水が指に当たるたび、胸の奥にたまった言葉まで流れていけばいいのにと思った。


 夕食のとき、母は何気なく聞いた。


「学校、どうだった?」


 凛は箸を握ったまま、少しだけ黙った。


「……普通」


 その言葉を選ぶと、母は安心したように頷いた。


「そう。普通が一番よ」


 普通が一番。


 母は悪気なく言ったのだと思う。凛を傷つけようとしていたわけではない。むしろ、娘が苦労しないように、目立たず、外れず、平穏に生きられるように願っていたのだと思う。


 けれど凛には、その言葉が呪文のように聞こえた。


 普通でいなさい。


 普通に笑いなさい。


 普通に友達を作りなさい。


 普通に学校へ行き、普通に恋をして、普通に働き、普通に幸せになりなさい。


 できないなら、それはあなたが弱いから。


 凛はそう受け取ってしまった。


 高校生になる頃には、凛は笑うのが少し上手くなっていた。誰かの話に相づちを打つことも、驚いたふりをすることも、楽しそうな写真を撮ることもできるようになった。けれど、そのぶん家に帰ると、ひどく疲れた。


 制服を脱いだあと、ベッドに倒れ込む。スマートフォンを開くと、画面の中には同級生たちの眩しい日常が並んでいた。


 友達とカフェに行った写真。


 恋人との記念日。


 進路への前向きな言葉。


 そこには、誰も苦しそうな顔をしていなかった。


 凛は何度も思った。


 どうしてみんな、そんなに自然に生きられるのだろう。


 どうして私は、朝起きて学校へ行くだけで、こんなにも息が切れてしまうのだろう。


 誰にも言えなかった。


 言えば、きっと困らせる。


 言えば、きっと重いと思われる。


 言えば、きっと母は悲しそうな顔をして、「考えすぎよ」と言う。


 だから凛は、何も言わなかった。


 そして十九歳の春、凛は大学進学を機に上京することになった。


 合格通知が届いた日、美咲は涙ぐんで喜んだ。


「よかったじゃない。東京の大学なんて、すごいわよ」


 凛は曖昧に笑った。


 本当は、嬉しさよりも不安の方が大きかった。知らない街。知らない人間関係。新しい生活。新しい自分を求められる場所。


 けれど同時に、少しだけ期待もしていた。


 東京へ行けば、変われるかもしれない。


 誰も凛の過去を知らない場所なら、今度こそ普通になれるかもしれない。


 母の望む娘に。


 同級生たちのような明るい女の子に。


 SNSに載せても恥ずかしくない人生に。


 引っ越し前夜、凛の部屋には段ボールが積み上がっていた。机の上には、大学から届いた資料と、新生活に必要な書類が広げられている。窓の外では、春の夜風がカーテンを揺らしていた。


 美咲が部屋の入口に立った。


「忘れ物、ない?」


「たぶん、大丈夫」


「東京に行ったら、ちゃんと人付き合いしなさいね。大学は人脈も大事なんだから」


「うん」


「あと、暗い顔ばかりしないこと。第一印象って大事よ」


「……うん」


 凛は返事をしながら、胸の奥が少しずつ硬くなっていくのを感じた。


 母の言葉は、どれも間違っていない。正しい。社会で生きていくためには必要なことなのだろう。だからこそ、凛は反論できなかった。


 正しい言葉で追い詰められると、人は逃げ場をなくす。


 美咲は部屋に入り、凛の畳んだ服を見て、少しだけ笑った。


「凛は昔から真面目ね」


「そうかな」


「真面目なのはいいことよ。でも、もう少し愛想よくしなさい。せっかく可愛いんだから」


 せっかく。


 その言葉が、凛の中に小さく刺さった。


 せっかく可愛いのに。


 せっかく大学に受かったのに。


 せっかく普通に生きられる環境があるのに。


 どうしてあなたは、そんなに苦しそうなの。


 そう言われている気がした。


 美咲が部屋を出ていったあと、凛は段ボールの隙間に座り込んだ。膝を抱え、スマートフォンを開く。何気なくSNSを眺めると、同じ大学に進学するらしい人たちが、すでに繋がり始めていた。


『春からよろしくお願いします!』


『同じ学部の人、仲良くしてください!』


『友達できるか不安だけど楽しみ!』


 凛は投稿画面を開いた。


 何か書かなければ。


 自分も、ちゃんと輪の中に入らなければ。


 指先が画面の上で止まった。


『春から東京です。よろしくお願いします』


 そこまで打って、消した。


 よろしくお願いします、の中に、自分の震えが滲んでしまいそうだった。


 結局、凛は何も投稿しなかった。


 スマートフォンを伏せると、部屋は急に静かになった。静けさの中で、自分の呼吸だけが大きく聞こえる。


 凛は思った。


 私は、どうしてこんなに生きるのが下手なんだろう。


 誰かに殴られたわけでもない。明日食べるものに困っているわけでもない。大学にも行ける。母もいる。家もある。恵まれているはずだった。


 それなのに苦しいと言うのは、わがままなのだろうか。


 消えたいほどではない。


 でも、明日が来るのが怖い。


 死にたいわけじゃない。


 でも、このままの自分で生き続けることを考えると、胸が詰まる。


 その気持ちに、凛はまだ名前を知らなかった。


 寂しさなのか、不安なのか、甘えなのか、弱さなのか。


 どれもしっくりこなかった。


 ただ、心の中にずっと暗い水たまりがあって、そこに足を取られながら歩いているような感覚だけがあった。


 翌朝、駅のホームで、美咲は何度も凛の荷物を確認した。


「着いたら連絡してね」


「うん」


「無理しすぎないでね」


 その言葉に、凛は一瞬だけ母を見た。


 無理しすぎないで。


 母がそう言うのは珍しかった。


 けれど次の瞬間、美咲はいつもの調子で続けた。


「でも、最初が肝心だから。ちゃんと笑顔でね」


 凛は小さく頷いた。


 電車が来る。扉が開く。凛はスーツケースを引いて乗り込んだ。


 発車のベルが鳴り、美咲がホームで手を振る。凛も笑って手を振り返した。


 その笑顔が、ちゃんと普通に見えているかどうかだけを考えながら。


 電車が動き出す。


 窓の向こうで、母の姿が少しずつ遠ざかっていく。


 凛は座席に座り、膝の上で両手を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。痛みがあると、少しだけ現実に繋ぎ止められる気がした。


 東京へ行く。


 新しい生活が始まる。


 今度こそ、うまくやらなければ。


 今度こそ、普通にならなければ。


 そう思った瞬間、凛の胸の奥で、何かが小さく悲鳴を上げた。


 けれどその声を、凛は聞こえないふりをした。


 窓の外では、見慣れた街が春の光に溶けていく。


 凛はその景色を見つめながら、まだ知らなかった。


 これから出会う人たちが、自分の痛みに名前を与えてくれることを。


 普通になれない自分を、責めなくてもいい日が来ることを。


 そしていつか、誰かに向かってこう言えるようになることを。


 ――生きづらさは、私の欠陥じゃなかった。


 ただその朝の凛は、まだ何も知らないまま、東京へ向かう電車の中で、誰にも見えないように浅く息をした。

【後書き】


『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。


この作品は、

「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。


世の中には、

頑張っても周囲に馴染めなかったり、

人より敏感に傷ついてしまったり、

誰かの期待に応えようとして、

自分を見失ってしまう人がいます。


けれど、

それは決して“弱さ”ではありません。


誰にも見えない場所で、

必死に息をして、

壊れそうになりながら今日を生きている。


それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。


凛が少しずつ、

自分の痛みに向き合い、

「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、

この物語が、

誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。


あなたの苦しさには、

ちゃんと理由があります。


そして、

その痛みを抱えたままでも、

人は誰かと出会い、

少しずつ生きていけるのだと、

この作品を通して伝えられていたら幸いです。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

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