第3ページ 息を合わせること
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
大学生活が始まって一週間が過ぎた頃、凛はすでに「疲れないふり」が上手くなっていた。
朝、鏡の前で笑顔を作る。
大学へ行く。
周囲の空気に合わせる。
相手の反応を見ながら言葉を選ぶ。
帰宅する。
ベッドに倒れ込む。
その繰り返し。
高校時代より自由になったはずなのに、凛の息苦しさはむしろ増していた。
大学には「こうしなければならない」が多すぎた。
友達を作らなければ。
サークルに入らなければ。
充実した学生生活を送らなければ。
青春を楽しまなければ。
恋愛もしなければ。
SNSに載せられる毎日を生きなければ。
誰も直接そんなことは言っていない。
けれど、キャンパスを歩いているだけで、その空気が伝わってくる。
楽しそうでいること。
明るくいること。
人に好かれること。
それが「正しい大学生」のように見えた。
凛は講義が終わったあと、七海と学内のベンチに座っていた。
「ねえ凛ちゃん、サークル見学行った?」
「まだ……」
「えー、一緒に行こうよ! テニスサークルめっちゃ雰囲気よかった!」
七海はスマートフォンを見せながら笑う。
そこには大人数で撮った写真が並んでいた。桜の下で笑う大学生たち。全員が眩しく見える。
「こういうの、大学生って感じしない?」
「……うん」
凛は曖昧に笑った。
本当は、その写真を見ているだけで少し苦しくなっていた。
輪の中に入れる気がしない。
みんな自然に笑っているのに、自分だけが「ちゃんと笑えているか」を考えてしまう。
「凛ちゃんってさ」
七海が缶ジュースを揺らしながら言った。
「すごいちゃんとしてるよね」
「え?」
「話聞くの上手だし、優しいし。男子にも絶対モテるタイプ」
凛は戸惑った。
そんなふうに言われることに慣れていない。
「そんなことないよ」
「あるってー!」
七海は笑った。
その笑顔は明るくて、周囲の空気に自然に溶け込んでいる。
凛は羨ましいと思った。
七海みたいになれたら、生きるのはもっと楽なのだろうか。
けれどその瞬間、七海がふっと真顔になった。
「……でもさ」
「?」
「私、結構嫌われるの怖いんだよね」
凛は驚いて顔を上げた。
七海は少し笑っていたけれど、その目はどこか疲れていた。
「高校のとき、一回グループ外されたことあってさ。それ以来、空気悪くなるの無理になった」
「……」
「だから、めっちゃ喋るの。沈黙あると怖いから」
七海は冗談っぽく笑った。
けれど凛には、その笑顔が少し痛々しく見えた。
明るい人は、最初から明るいわけじゃない。
その笑顔の裏で、何かを必死に隠しているのかもしれない。
凛は初めてそう思った。
「凛ちゃんは?」
「え?」
「なんか、いつも考え込んでる感じする」
凛は言葉に詰まった。
どう答えればいいかわからない。
「……昔から、人の顔色見る癖があって」
それだけ言うと、七海は静かに頷いた。
「わかる」
その一言が、凛の胸に小さく落ちた。
わかる。
誰かにそう言われるだけで、少しだけ呼吸がしやすくなることを、凛は知らなかった。
その日の帰り道、凛は駅前を一人で歩いていた。
七海はサークル見学へ行った。
凛も誘われたけれど、「今日は用事あるから」と断った。
本当は、あの大人数の空間に入る勇気がなかっただけだった。
駅前は夕方の人混みで溢れていた。
スーツ姿の会社員。
笑いながら歩く高校生。
カップル。
誰もが自分の居場所を持っているように見える。
凛だけが、この街のどこにも馴染めていない気がした。
ふと、小さなカフェが目に入った。
駅から少し離れた路地裏。
木製の看板。
柔らかな灯り。
『cafe 月灯り』
そう書かれていた。
なぜか足が止まる。
騒がしい街の中で、その店だけ時間の流れが違うように見えた。
凛は少し迷ってから、扉を開けた。
カラン、と小さなベルが鳴る。
店内には静かな音楽が流れていた。席数は少なく、落ち着いた空気が広がっている。
「いらっしゃいませ」
低く穏やかな声。
顔を上げると、カウンターの奥に一人の青年がいた。
黒髪。
白いシャツ。
淡々としているのに、どこか柔らかい雰囲気。
その人が、凛を見る。
凛は反射的に笑顔を作った。
「あ……一人です」
「どうぞ。好きな席、座ってください」
声は静かだった。
必要以上に明るくない。
なのに冷たくもない。
凛は窓際の席に座った。
メニューを開く。
けれど何を頼めばいいのかわからなくなる。
高すぎないか。
変な注文じゃないか。
考えているうちに、また緊張してくる。
「決まったら呼んでくださいね」
青年はそう言って、無理に急かさなかった。
凛は少しだけ肩の力を抜く。
やがてカフェラテを注文すると、青年は静かに頷いた。
その仕草が妙に丁寧だった。
店内には他に客が二人しかいない。
静かだった。
誰も大声で笑わない。
無理に盛り上がらない。
その空気が、凛には心地よかった。
しばらくして、カフェラテが運ばれてくる。
「熱いので気をつけて」
「あ、ありがとうございます」
凛が顔を上げると、青年と一瞬目が合った。
その瞳は不思議なくらい穏やかだった。
人の感情に敏感な凛は、普段、相手の目を見るのが怖い。
怒っていないか。
嫌われていないか。
その情報が流れ込んでくる気がするから。
けれど、この人の目は違った。
押しつけてこない。
探ってこない。
ただそこにあるだけだった。
「……大学帰り?」
青年が何気なく聞いた。
「え」
「学生証、見えたから」
「あ……はい」
「新一年?」
「そうです」
凛は少し緊張しながら答える。
「慣れた?」
その質問に、凛は言葉を失った。
慣れたか。
わからない。
笑うことには慣れてきた。
でも、それは「大学に慣れた」ということなのだろうか。
「……たぶん」
そう答えると、青年は少しだけ笑った。
「“たぶん”って答える人、無理してること多いよね」
凛の心臓が跳ねた。
一瞬、自分の中を見透かされた気がした。
「え……」
「違ったらごめん」
青年はそれ以上踏み込まなかった。
ただ静かにカウンターへ戻っていく。
凛はカフェラテを見つめた。
胸の奥が少しざわついていた。
無理してる。
その言葉を、凛はずっと隠してきた。
気づかれないように。
ちゃんと普通に見えるように。
なのに、この人はほんの数分で、それを口にした。
怖い、とは少し違った。
むしろ。
見つけてもらったような感覚だった。
凛は窓の外を見た。
夕暮れの街を、人々が足早に通り過ぎていく。
みんな、自分の居場所へ帰っていく。
その中で凛だけが、まだどこにも辿り着けていない気がした。
けれど、その小さなカフェの中だけは、不思議と呼吸がしやすかった。
まるで、「ちゃんとしていない自分」を、一瞬だけ許される場所みたいに。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




