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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第19ページ  逃げてもいいと言われた夜


「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」


誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。

人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。

ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。


そんな“生きづらさ”を、

「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。


この物語は、

“普通”になれなかった人たちの物語です。


誰にも言えない孤独。

理解されない苦しさ。

消えたいわけじゃないのに、

この世界にうまく馴染めない感覚。


主人公・朝比奈凛は、

そんな痛みを抱えながら生きています。


けれど、

生きづらさには、理由があります。


そして、

名前のつかない痛みにも、

いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。


この物語が、

今苦しんでいる誰かの心に、

小さな灯りとして残りますように。


 九月が近づいていた。


 けれど暑さはまだ夏のままだった。


 街には夏休みの空気が残っていて、駅前では学生たちが笑いながら歩いている。コンビニの前ではアイスを食べる高校生たちが騒いでいて、その声が夜の湿った空気に溶けていた。


 凛は、その横を静かに通り過ぎる。


 最近、自分の疲れが身体の奥に沈殿していく感覚があった。


 一日休んでも消えない疲労。


 眠っても取れない重さ。


 呼吸をするだけで消耗していくような感覚。


 それでも、動かなければならない。


 バイトもある。

 大学も始まる。

 未来も考えなければいけない。


 “普通の人”は、みんなそうして生きている。


 凛は何度も自分にそう言い聞かせた。


 その日のバイト中、凛は小さなミスを繰り返していた。


 レジの操作を間違える。


 注文を聞き返す。


 ぼんやりして返事が遅れる。


 周囲は大きく責めたりしない。


 でも、その小さな空気の変化を、凛は全部感じ取ってしまう。


「朝比奈さん、疲れてる?」


 同じアルバイトの女性スタッフが心配そうに聞いた。


「……大丈夫です」


 反射的に答える。


 でも本当は、大丈夫じゃなかった。


 その時、後ろから三崎の声が飛ぶ。


「朝比奈さん、こっちお願い」


「はい!」


 凛は慌てて動く。


 その瞬間、足元が少しふらついた。


 視界が揺れる。


 頭の奥がぼんやりする。


「……っ」


 呼吸が浅くなる。


 周囲の音が急に遠くなった。


 店内のざわめき。

 コーヒーマシンの音。

 笑い声。

 全部が重なって頭の中へ流れ込んでくる。


「朝比奈さん?」


 三崎が眉を寄せる。


「顔色悪いけど」


「……すみません」


「ちょっと休憩入って」


 その言葉に、凛は強く唇を噛んだ。


 休憩。


 つまり、“使い物になっていない”ということだ。


「大丈夫です」


「いや、大丈夫じゃなさそうだから言ってる」


 三崎の口調は冷たくない。


 むしろ配慮している。


 でも凛は、その優しさが苦しかった。


 迷惑をかけている事実が、余計にはっきりしてしまうから。


 休憩室へ入った瞬間、凛は椅子へ座り込んだ。


 心臓がうるさい。


 呼吸がうまくできない。


 頭の中では、ずっと同じ言葉が回っていた。


 ちゃんとしなきゃ。

 ちゃんとしなきゃ。

 ちゃんとしなきゃ。


 でも身体がついてこない。


 凛は震える手でスマートフォンを開いた。


 通知が並んでいる。


 七海からのスタンプ。

 灯からの『今日しんどい』というメッセージ。


 それを見た瞬間、凛は急に苦しくなった。


 もう無理かもしれない。


 その言葉が、頭の中へ静かに浮かぶ。


 逃げたい。


 その感情に気づいた瞬間、凛は自分で驚いた。


 逃げたいなんて思ってはいけないと思っていた。


 頑張らなければいけない。

 耐えなければいけない。

 普通の人みたいにやらなければいけない。


 そうやって生きてきたから。


 でも今。


 本当は全部から逃げ出したかった。


 誰にも会わず。

 何も期待されず。

 ちゃんとしなくても怒られない場所へ。


 凛は気づけば、『cafe 月灯り』へ向かっていた。


 半分無意識だった。


 店へ入ると、ベルの音が静かに響く。


 真白が顔を上げた瞬間、凛は少し泣きそうになった。


「……こんばんは」


「こんばんは」


 真白は凛を見るなり、小さく眉を寄せた。


「今日かなりしんどそう」


 凛は笑おうとした。


 でもうまく笑えなかった。


「……逃げたい」


 気づけば、そう口にしていた。


 真白は何も言わなかった。


 驚いた顔もしない。


 ただ静かに、「うん」と頷くだけだった。


 その反応に、凛は少し救われる。


 否定されなかった。


「全部、逃げたい」


 凛は俯いたまま続ける。


「バイトも、人間関係も、ちゃんとしなきゃって考えるのも……」


 声が震える。


「もう疲れた」


 その言葉を口にした瞬間、涙が溢れそうになった。


 こんなこと言ってはいけないと思った。


 甘えている気がした。


 でも真白は静かに言う。


「逃げたいって思うくらい、頑張ってたんだね」


 凛は息を止めた。


 責められると思っていた。


 逃げるな。

 頑張れ。

 みんな耐えてる。


 そう言われると思っていた。


 でも真白は違った。


「……逃げてもいいの?」


 凛は小さく聞く。


 真白は少し考えるように視線を落とした。


「うん」


 その返事は静かだった。


「壊れるまで耐えるくらいなら、逃げた方がいい時もある」


 凛は何も言えなかった。


 逃げてもいい。


 そんな言葉、今まで誰にも言われたことがなかった。


「俺ね」


 真白がぽつりと口を開く。


「昔、“逃げたら終わり”だと思ってた」


 凛は顔を上げる。


 真白はカウンター越しに夜の街を見ていた。


「仕事辞めた時、自分の人生終わったと思った」


 その声は穏やかだった。


 でも、その奥に深い疲労が滲んでいる。


「周りはちゃんと働いてるのに、自分だけできなかったから」


 凛の胸が小さく痛む。


 その感覚がわかってしまう。


「毎朝、起きるだけで怖かった」


 真白は苦笑する。


「外出るだけで息苦しくて、人と会うのもしんどくて」


 店内には静かな音楽だけが流れていた。


「その時、“頑張れ”って言葉が一番きつかった」


 凛は俯いた。


 わかる。


 本当に苦しい時、“頑張れ”は刃になる。


「でもね」


 真白は静かに続ける。


「逃げたから、今ここにいる」


 凛は目を見開いた。


「無理して続けてたら、多分もっと壊れてた」


 その言葉が、凛の胸へ深く落ちていく。


 逃げることは負けじゃない。


 生き延びるための選択でもある。


 凛は今まで、そんなふうに考えたことがなかった。


「……でも怖い」


 凛は震える声で言う。


「逃げたら、戻れなくなりそうで」


 真白は少しだけ笑った。


「戻らなくてもいい時もあるよ」


 その言葉に、凛の胸が大きく揺れる。


 戻らなくてもいい。


 今までの凛は、「元通り」を目指していた。


 ちゃんと笑えて。

 ちゃんと働けて。

 ちゃんと普通になれる自分。


 でも真白は、“無理して元に戻る必要はない”と言っている。


「凛ちゃん」


 真白が静かに言った。


「“普通の自分”になれないんじゃなくて、“無理した自分”が限界なんだと思う」


 その瞬間。


 凛の中で、何かが静かに崩れた。


 限界だった。


 ずっと。


 普通になろうとして。

 ちゃんとしようとして。

 苦しさを隠して。


 そうやって生きてきた自分が、もう限界だったのかもしれない。


 凛は涙を拭った。


 店内の灯りがぼやけて見える。


「……私」


 凛は小さく呟く。


「ちゃんとできる人になりたかっただけなのに」


 真白は静かに頷いた。


「うん」


「なんでこんなに苦しいんだろ」


 その問いに、真白はすぐには答えなかった。


 しばらく沈黙が流れる。


 それから、穏やかな声で言う。


「多分、凛ちゃんはずっと、“苦しいまま頑張りすぎた”んだと思う」


 凛は目を閉じた。


 その言葉が、痛いほど優しかった。


 逃げたいと思ってしまう自分も。

 頑張れない自分も。

 限界だった自分も。


 全部、本当はずっと、助けを求めていたのかもしれない。



『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。


この作品は、

「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。


世の中には、

頑張っても周囲に馴染めなかったり、

人より敏感に傷ついてしまったり、

誰かの期待に応えようとして、

自分を見失ってしまう人がいます。


けれど、

それは決して“弱さ”ではありません。


誰にも見えない場所で、

必死に息をして、

壊れそうになりながら今日を生きている。


それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。


凛が少しずつ、

自分の痛みに向き合い、

「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、

この物語が、

誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。


あなたの苦しさには、

ちゃんと理由があります。


そして、

その痛みを抱えたままでも、

人は誰かと出会い、

少しずつ生きていけるのだと、

この作品を通して伝えられていたら幸いです。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

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