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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第17ページ  支えたいのに、苦しい


「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」


誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。

人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。

ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。


そんな“生きづらさ”を、

「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。


この物語は、

“普通”になれなかった人たちの物語です。


誰にも言えない孤独。

理解されない苦しさ。

消えたいわけじゃないのに、

この世界にうまく馴染めない感覚。


主人公・朝比奈凛は、

そんな痛みを抱えながら生きています。


けれど、

生きづらさには、理由があります。


そして、

名前のつかない痛みにも、

いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。


この物語が、

今苦しんでいる誰かの心に、

小さな灯りとして残りますように。



 灯との電話を切ったあとも、凛の胸の奥には、まだ小さな震えが残っていた。


 消えたい。


 その言葉を、凛はもう他人事として聞けなくなっていた。


 少し前までなら、きっと怖くて画面を閉じていた。どう返せばいいかわからなくて、既読をつけることすらためらっていた。重いと思われたらどうしよう。自分なんかが踏み込んでいいのだろうか。そんな考えばかりが先に立って、結局何もできなかったと思う。


 でも今夜の凛は違った。


 灯が消えてしまうのが怖かった。


 ただ、それだけだった。


 誰かを失いたくないと思う感情は、こんなにも胸を締めつけるものなのだと、凛は初めて知った。


 『cafe 月灯り』のカウンター席で、凛は水の入ったグラスを両手で包み込んでいた。冷たいはずのグラスは、手の熱で少しずつ温くなっている。


 真白は閉店作業をしながら、時々こちらを見るだけで、余計なことは聞かなかった。


 その距離感がありがたかった。


 凛は、誰かに踏み込まれることが苦手だった。


 でも同時に、誰にも踏み込まれないことも苦しかった。


 その矛盾を、真白だけはわかってくれているような気がした。


「灯ちゃんのこと」


 凛はぽつりと口を開いた。


 真白は手を止めずに「うん」と返す。


「私、助けたいって思った」


「うん」


「でも……」


 凛は言葉を探した。


 胸の奥にある感情は、まだうまく形にならない。


「助けたいって思った瞬間、自分まで苦しくなった」


 真白は静かにグラスを置いた。


「それは、自然だと思う」


「自然?」


「大事に思う人が苦しんでたら、自分も揺れるよ」


 凛は俯いた。


「でも、それって駄目じゃない?」


「どうして?」


「だって、相手を支えたいのに、自分が苦しくなったら意味ない気がする」


 凛の声は小さかった。


 灯に「重くない」と言った。

 「消えたら嫌だ」と伝えた。

 それは本心だった。


 けれど電話を切ったあと、凛はどっと疲れてしまった。


 安心したはずなのに、身体の力が抜けて、胸の奥に重いものが残った。


 灯を大切に思うほど、灯の苦しさまで自分の中に流れ込んでくるようだった。


「凛ちゃん」


 真白が静かに言った。


「誰かを支えることと、誰かの苦しみを全部背負うことは違うよ」


 凛は顔を上げた。


 真白はカウンター越しに、穏やかな目で凛を見ていた。


「灯さんの苦しみは、灯さんのものだよ」


「……」


「凛ちゃんが全部引き受けなくていい」


 その言葉に、凛の胸が小さく痛んだ。


 全部引き受けなくていい。


 けれど凛は、昔からそれが苦手だった。


 誰かが不機嫌なら、自分が悪いのかもしれないと思った。

 誰かが泣いていたら、自分が何とかしなければと思った。

 誰かが離れていきそうになると、自分を削ってでも繋ぎ止めなければと思った。


 そうしないと、ひとりぼっちになる気がしたから。


「でも、放っておけない」


 凛は小さく言った。


「放っておかなくていいよ」


 真白はすぐに答えた。


「ただ、一緒に沈まなくていい」


 その言葉は、凛の中にゆっくり落ちていった。


 一緒に沈まない。


 そんな支え方があるのだろうか。


 凛にとって、誰かを大事にすることは、自分を削ることとほとんど同じだった。相手が傷つかないように、自分が我慢する。相手が苦しくならないように、自分の苦しさは隠す。そうやって人と関わってきた。


 でも真白は、それを優しさとは呼ばなかった。


 壊れる前に気づきな、と何度も言ってくれた。


「私、たぶん」


 凛はゆっくり息を吐いた。


「人との距離がわからない」


 真白は黙って聞いていた。


「近づきすぎると怖いし、離れると不安になる」


「うん」


「相手が苦しんでると、自分のことみたいに苦しくなる」


「うん」


「でも、助けられなかったら、自分が悪い気がする」


 そこまで言うと、凛の目に涙が滲んだ。


 真白は小さく眉を寄せた。


「それ、ずっとやってたらしんどいね」


「……うん」


 凛は頷いた。


 しんどかった。


 人に優しくしたい。

 誰かを大事にしたい。

 でも、そのたびに自分が消えていく。


 そんな自分が嫌だった。


 もっと軽やかに人と関われたらいいのにと思った。冗談を言って、楽しい話をして、悩みもほどほどに聞いて、帰ったら忘れられるような人間だったらよかったのにと思った。


 でも凛は、忘れられない。


 誰かの沈んだ声も、曖昧な笑顔も、「大丈夫」と言いながら大丈夫じゃない目も、全部心の中に残ってしまう。


「凛ちゃんは、優しいんだと思う」


 真白が静かに言った。


 凛は少し笑った。


「またそれ」


「うん。またそれ」


「優しいって言われると、苦しくなる」


「どうして?」


「優しくしなきゃいけない気がするから」


 真白は少しだけ目を伏せた。


 凛は続けた。


「優しい子でいなきゃ、って思う。怒っちゃ駄目。嫌って言っちゃ駄目。助けてって言われたら断っちゃ駄目。そういうふうに思っちゃう」


 言葉にして初めて、凛は自分がどれほど「優しい」という言葉に縛られてきたのか気づいた。


 優しいね。


 真面目だね。


 いい子だね。


 昔は、それだけが凛を守ってくれる言葉だった。


 でもいつの間にか、その言葉から外れることが怖くなった。


 優しくない自分。

 真面目じゃない自分。

 いい子じゃない自分。


 そんな自分を見せたら、誰もそばにいてくれない気がした。


「優しさってさ」


 真白は少し考えるように言った。


「自分を傷つけるためのものじゃないと思う」


 凛は黙っていた。


「相手のために何かしたいって思う気持ちは、大事だと思う。でも、そのために自分を消す必要はない」


「……難しい」


「難しいよ」


 真白は少し笑った。


「俺もまだ練習中」


 練習中。


 その言葉が、凛には少しだけ優しく聞こえた。


 すぐにできなくていい。

 完璧に変われなくていい。

 少しずつ覚えていけばいい。


 そう言われているようだった。


 カフェを出る頃には、日付が変わりかけていた。


 真白は店の外まで見送ってくれた。


 夜風は湿っていたけれど、昼間よりは少しだけ涼しかった。街灯の光が、アスファルトの上にぼんやり滲んでいる。


「帰れる?」


 真白が聞く。


「うん」


「無理そうなら、駅まで送るけど」


 凛は少しだけ驚いた。


 その言葉に、胸が温かくなる。


 でも同時に、甘えてはいけないという声がすぐに浮かんだ。


 迷惑をかける。

 断らなきゃ。

 大丈夫って言わなきゃ。


 いつもの癖だった。


 凛は口を開きかけて、止まった。


 助けてほしいと言う練習。


 頼る練習。


 一緒に沈まない練習。


 真白の言葉が頭の中で静かに響く。


「……途中まで」


 凛は小さく言った。


「途中まで、一緒に歩いてほしい」


 言った瞬間、心臓が大きく鳴った。


 わがままだと思われただろうか。

 面倒だと思われただろうか。


 でも真白は、ただ穏やかに笑った。


「うん。行こう」


 その返事があまりにも自然で、凛は泣きそうになった。


 頼っても、世界は壊れない。


 そんな当たり前のことを、凛は十九歳になって初めて知ろうとしていた。


 二人は夜の道を並んで歩いた。


 会話は少なかった。


 でも沈黙は苦しくなかった。


 凛は隣を歩く真白の気配を感じながら、ゆっくり呼吸をした。


 誰かにいてほしいと願うこと。

 誰かを支えたいと思うこと。

 そして、自分も支えられていいと思うこと。


 その全部がまだ怖い。


 けれど、その怖さの中に、ほんの少しだけ温かさがある。


 凛はそれを、初めて知った。


 駅の近くまで来ると、真白が足を止めた。


「ここまでで大丈夫?」


「うん」


「帰ったら、水飲んで寝なね」


「お母さんみたい」


 凛が思わず言うと、真白は少し笑った。


「それは嫌だな」


 その返しに、凛も少し笑った。


 自然に笑えた。


 無理に作った笑顔ではなかった。


 家に帰ると、灯からメッセージが届いていた。


『さっきはありがとう。まだ生きてる』


 凛は画面を見つめた。


 胸の奥が、じんわり温かくなる。


 凛はゆっくり返信した。


『生きててくれてよかった』


 少し迷ってから、もう一文を足した。


『でも、私も無理しすぎないようにするね』


 送信したあと、凛は深く息を吐いた。


 それは、灯を突き放す言葉ではなかった。


 自分を守りながら、それでもそばにいたいという、凛なりの小さな約束だった。


 生きづらさに名前をつけることは、痛みをなくすことではないのかもしれない。


 ただ、痛みに飲み込まれないように、自分の輪郭を知っていくこと。


 誰かを大事にしながら、自分のことも置き去りにしないこと。


 凛はベッドに横になり、天井を見つめた。


 まだ怖い。


 でも、今日は少しだけ思えた。


 支えたいと思う自分も。

 苦しくなってしまう自分も。

 助けてほしいと願う自分も。


 全部、ここにいていいのかもしれない。



『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。


この作品は、

「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。


世の中には、

頑張っても周囲に馴染めなかったり、

人より敏感に傷ついてしまったり、

誰かの期待に応えようとして、

自分を見失ってしまう人がいます。


けれど、

それは決して“弱さ”ではありません。


誰にも見えない場所で、

必死に息をして、

壊れそうになりながら今日を生きている。


それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。


凛が少しずつ、

自分の痛みに向き合い、

「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、

この物語が、

誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。


あなたの苦しさには、

ちゃんと理由があります。


そして、

その痛みを抱えたままでも、

人は誰かと出会い、

少しずつ生きていけるのだと、

この作品を通して伝えられていたら幸いです。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

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