第16ページ 優しい人ほど
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
八月の湿った夜風が、アパートのカーテンを小さく揺らしていた。
凛はベッドに座りながら、スマートフォンを見つめていた。
画面には、母からの着信履歴。
三件。
少し迷ったあと、凛は通話ボタンを押した。
『もしもし?』
すぐに美咲の声が聞こえる。
『ああ、凛? よかった。全然出ないから心配したのよ』
「ごめん……バイトだった」
『ちゃんとご飯食べてる?』
「うん」
本当は、今日はほとんど食べていなかった。
でも反射的にそう答えてしまう。
『夏バテしてない?』
「大丈夫」
また嘘をつく。
凛は最近、自分がどれだけ無意識に「大丈夫」を口にしているのか気づき始めていた。
苦しくても。
疲れていても。
平気なふりをする。
それが癖になっている。
『大学はどう?』
「普通」
『友達とうまくやれてる?』
「……うん」
美咲は少し安心したように息を吐いた。
『よかった。凛、昔から人間関係苦手だったから』
その言葉に、凛の胸が少しざわつく。
責められているわけじゃない。
心配されているだけだ。
でも、「苦手」という言葉は、昔から凛を小さく傷つけてきた。
『ちゃんと社会に馴染めてるなら安心だわ』
その瞬間。
凛の喉が少し詰まる。
ちゃんと馴染めている。
本当にそうだろうか。
毎日必死に笑って、空気を読んで、疲れ切って帰ることを、「馴染めている」と呼ぶのだろうか。
「……お母さん」
気づけば、凛は口を開いていた。
『ん?』
「もし私が……普通にできなかったら、どうする?」
電話の向こうで、一瞬沈黙が落ちた。
『どうしたの急に』
「別に、ただ聞いただけ」
美咲は少し困ったように笑った。
『誰だって最初から完璧にはできないわよ』
「……そうじゃなくて」
凛は視線を落とす。
「頑張っても、普通にできなかったら」
また沈黙。
それから、美咲は静かな声で言った。
『凛は考えすぎなのよ』
その言葉を聞いた瞬間、凛の胸が冷える。
『もっと気楽に生きなさい』
その言葉も、何度も聞いた。
正しい。
でも、できない。
『みんな嫌なことあっても頑張ってるんだから』
凛は唇を噛んだ。
またその言葉だ。
みんな頑張ってる。
だから、あなたも頑張りなさい。
苦しくても。
疲れても。
普通になれなくても。
『凛?』
「……うん」
凛は無理やり笑う。
「ごめん、変なこと聞いた」
『ちゃんと寝なさいね』
「うん」
通話が切れる。
部屋の中に静寂が戻った。
凛はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。
母は悪くない。
本当に心配しているだけだ。
でも。
どうしてこんなに苦しくなるのだろう。
その夜、灯からメッセージが来た。
『今日、人と話すのしんどすぎて途中で帰った』
凛は少し考えてから返す。
『大丈夫?』
『わかんない』
短い返事。
凛は胸がざわついた。
『消えたい?』
送信したあと、少し後悔する。
重かったかもしれない。
でも灯は数分後に返した。
『今日はちょっと』
凛の心臓が強く跳ねた。
画面の文字が急に怖くなる。
『灯ちゃん』
『うん』
『今、一人?』
『一人』
凛は呼吸を整えようとした。
頭の中がざわつく。
何を言えばいいかわからない。
でも、放っておくのも怖かった。
『話す?』
送る。
既読がつくまでの数秒が長かった。
『いいの?』
『うん』
電話が繋がる。
最初、お互い無言だった。
エアコンの音だけが聞こえる。
『……ごめんね』
灯が小さく言った。
『なんで謝るの』
『重いよね、こういうの』
その言葉に、凛の胸が痛くなる。
凛もずっと、そう思ってきた。
苦しいと言うことは迷惑だと。
誰かに頼ることは重いことだと。
「……重くないよ」
凛は小さく言った。
電話越しに、灯が少し息を飲む気配がする。
『凛ちゃんって、ほんと優しい』
「……優しくない」
凛は苦笑した。
「ただ、灯ちゃんが消えたら嫌だなって思っただけ」
沈黙。
しばらくして、灯が小さく笑った。
『それ、ちょっと嬉しい』
その声は少し泣きそうだった。
凛は胸が締めつけられる。
“消えないで”と思うこと。
“生きていてほしい”と思うこと。
それは、こんなにも苦しくて、こんなにも切実だった。
通話が終わったあと、凛はそのまま『cafe 月灯り』へ向かった。
夜遅かったが、まだ店は開いていた。
扉を開けると、真白が顔を上げる。
「こんばんは」
「……こんばんは」
凛は少し疲れた顔をしていたのだろう。
真白は何も聞かず、水を差し出してくれた。
「なんかあった?」
凛はカウンター席に座り、小さく息を吐く。
「……友達が、ちょっと危なかった」
真白は静かに聞いている。
「消えたいって言ってて」
その言葉に、真白の表情が少しだけ曇る。
「怖かった」
凛は正直に言った。
「本当にいなくなっちゃうんじゃないかって」
真白はゆっくり頷く。
「大事な人が苦しんでるの、きついよね」
凛は目を伏せた。
大事な人。
灯は、いつの間にか凛にとってそういう存在になっていた。
「……でも」
凛はぽつりと言う。
「前の私なら、多分誰にも踏み込めなかった」
重いと思われたくなくて。
迷惑かけたくなくて。
怖くて。
でも今は、「消えないで」と思った。
「変わったね」
真白が静かに笑う。
凛は少し驚いた。
「そうかな」
「うん」
真白はカップを拭きながら続ける。
「前の凛ちゃん、“人に頼る”のも、“誰かを必要とする”のも怖がってたから」
凛は何も言えなかった。
その通りだった。
人と深く関われば、傷つく。
だから距離を取っていた。
でも今は。
灯に生きていてほしいと思う。
七海が無理して笑っていると心配になる。
真白に会うと安心する。
その感情が、少しずつ凛を変えていた。
「優しい人ほど」
真白がぽつりと言う。
「“自分が我慢すればいい”って思っちゃうんだよね」
凛は静かに聞いていた。
「でも、それ続けると、本当に壊れる」
真白の声は穏やかだった。
でも、その言葉には実感があった。
「だから最近の凛ちゃん見てると、ちょっと安心する」
「……なんで?」
「“苦しい”って言えるようになったから」
その瞬間、凛の胸が少し熱くなる。
苦しいと言うこと。
助けてほしいと思うこと。
誰かにいてほしいと思うこと。
昔の凛には、全部許せなかった。
でも今は少しだけ違う。
弱いままでも。
苦しいままでも。
誰かと繋がっていていいのかもしれないと、思い始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




