第129ページ 大事に思う私を、嫌わない
会いたい気持ちを、凛は少しだけ責めずに扱うことができた。
全部ぶつけるのでもなく、全部飲み込むのでもなく、ココアの湯気に少しだけ隠して真白へ届ける。
その小さな「会いたい」は、ちゃんと届いた。
今回は、凛が「誰かを大事に思う自分」を少しずつ受け入れ始めるページです。
重いのではなく、迷惑なのでもなく、ただ誰かを大事に思っている。
その事実を、凛は初めて静かに抱きしめようとします。
朝、凛は昨日の青いノートを開いた。
『会いたい気持ちを、責めない夜。
全部ぶつけなくていい。
全部飲み込まなくてもいい。
小さめに持って行けばいい。
ココアの湯気に少しだけ隠してもいい。
それでも、ちゃんと届くことがある。』
その文字を見た瞬間、凛の胸に、昨日の甘いココアの香りが戻ってきた。
真白の店の静けさ。
カップから立ち上る湯気。
真白が言った「ちゃんと届いたよ」という声。
そして、「今日のそれは迷惑じゃない」という具体的な言葉。
凛は、その言葉にずいぶん救われた。
絶対に迷惑じゃない。
何をしても大丈夫。
そんな大きな言葉ではなかった。
今日のそれは迷惑じゃない。
今、凛が小さめに持って行った気持ちは、受け取れる範囲だった。
そう言われたことが、凛にはとても安心できた。
人を大事に思うことは、凛にとってずっと怖いことだった。
誰かを大事に思えば、その人の反応ひとつで心が揺れる。
会いたいと思えば、会えない時に苦しくなる。
話したいと思えば、返事がない時間を勝手に不安で埋めてしまう。
相手の過去や、凛の知らない人間関係を知るだけで、自分の居場所が小さくなるように感じる。
だから凛は、誰かを大事に思う自分をあまり好きになれなかった。
重い。
面倒。
依存している。
弱い。
そういう言葉で、自分を裁いてきた。
でも昨日、ココアの湯気の中に隠した小さな「会いたい」が真白に届いて、凛は少しだけ思った。
誰かを大事に思うこと自体は、そんなに悪いことではないのかもしれない。
凛はペンを持ち、新しいページへ書いた。
『誰かを大事に思う私を、私はずっと嫌っていた。
不安になる私。
嫉妬する私。
会いたいと思う私。
寂しいと思う私。
その全部を、重い人間の証拠みたいに扱ってきた。
でも、本当にそうなのだろうか。』
書いたあと、凛は少しだけ目を閉じた。
胸の奥には、まだ不安がある。
真白を大事に思うことを、簡単に肯定できるわけではない。
それが恋なのかどうかも、まだわからない。
名前をつけようとすると、途端に怖くなる。
恋と呼んだ瞬間、何かを期待してしまいそうで怖い。
恋ではないと呼んだ瞬間、この気持ちを小さく嘘にしてしまう気もする。
どちらも怖い。
だから凛は今、名前をつけずに置いている。
名前のない大事な人。
名前のない気持ち。
それは曖昧で、不安定で、時々とても苦しい。
でも、今の凛には、その曖昧さが必要だった。
凛は続けて書いた。
『名前がなくても、気持ちはある。
名前がないからといって、嘘になるわけではない。
恋かどうかを急いで決めなくても、私はその人を大事に思っている。
まず、その事実だけを持っていてもいいのかもしれない。』
その一文を書いた時、胸の奥が少し温かくなった。
事実だけを持つ。
大事に思っている。
会いたい日がある。
話せると安心する。
声を聞くと呼吸が戻る。
それ以上の名前を、今すぐ決めなくてもいい。
凛はパソコンを開いた。
作品ファイルを開き、『名前のない大事な人』の章へ進む。
昨日書いた文章がある。
『会いたいという気持ちそのものは、罪ではない。』
凛はそこを読み返し、今日の言葉を足していく。
『私は、誰かを大事に思う自分をずっと好きになれなかった。
誰かの返信を待つ自分。
会いたいと言えずに画面を閉じる自分。
相手の知らない過去に嫉妬する自分。
そばにいると安心するくせに、その安心を失うのが怖くて距離を取りたくなる自分。
そういう自分を、私は何度も重いと責めた。』
書きながら、凛の胸は少し痛んだ。
でも手は止まらない。
『でも最近、少しだけ思う。
不安になるのは、大事だからかもしれない。
嫉妬するのは、相手を所有したいだけではなく、自分の知らない時間へ置いていかれるのが怖いからかもしれない。
会いたいと思うのは、相手に全部を背負わせたいからではなく、その人といると少し呼吸がしやすいからかもしれない。
私は、自分の気持ちをすぐに悪いものへ変換しすぎていたのかもしれない。』
凛はそこまで打って、深く息を吐いた。
自分の気持ちを悪いものへ変換しすぎる。
その表現は、今の凛にしっくりきた。
感情が生まれる。
その瞬間、凛の中の翻訳機が、それを悪い言葉へ変えてしまう。
会いたい、は、迷惑。
寂しい、は、重い。
不安、は、面倒。
嫉妬、は、醜い。
でも、本当はその前に、もっと柔らかい意味があったのかもしれない。
大事。
怖い。
失いたくない。
安心したい。
そばにいたい。
それだけだったのかもしれない。
凛は青いノートに戻り、短く書いた。
『感情を、すぐ悪い言葉へ翻訳しない。
まず、その奥にある柔らかい意味を見る。』
その言葉も、作品に入れたいと思った。
スマートフォンが震えた。
灯からだった。
『今日、何書いてる?』
凛は少し迷って、正直に返した。
『誰かを大事に思う自分を嫌わない話』
すぐに既読がついた。
『うわ、刺さるやつ』
凛は少し笑った。
『刺さる?』
『刺さる』
『好きとか大事とかって、きれいな気持ちみたいに言われるけど、実際は不安とか嫉妬とかセットで来るじゃん』
凛は画面を見つめた。
灯はいつも、核心を短く突いてくる。
『でも不安とか嫉妬があるからって、その気持ち全部が汚いわけじゃないと思う』
凛の胸がじわりと温かくなった。
『私もそう書きたい』
『書いて』
『その章、絶対いる』
灯の言葉に、凛は少しだけ背中を押された。
絶対いる。
その強さが、今日の凛には少し嬉しかった。
凛はパソコンへ戻り、続きを打った。
『誰かを大事に思う気持ちは、いつも綺麗な形で現れるわけではない。
不安を連れてくる。
嫉妬を連れてくる。
寂しさを連れてくる。
相手を信じたい気持ちと、失うのが怖い気持ちが同時に来る。
そのたびに私は、自分の気持ち全部を汚いものだと思ってしまう。
けれど、不安や嫉妬が混ざっているからといって、大事に思う気持ちまで嘘になるわけではない。』
打ちながら、凛は真白の顔を思い浮かべた。
穏やかな目。
言葉を選ぶ時の間。
少し笑う時の口元。
そして、凛の気持ちを急いで名づけないでいてくれる距離。
凛は、その距離に何度も救われている。
真白がいつも完璧だからではない。
真白が凛を不安にさせないからでもない。
不安になっても、戻ってこられる場所が少しずつできているからだ。
凛は続けた。
『大事に思うことは、相手を所有することではない。
でも、所有したくなるような怖さが顔を出すことはある。
会いたいと思うことは、相手を縛ることではない。
でも、縛ってしまわないように気をつける必要はある。
感情そのものを責めるのではなく、その感情をどう扱うかを選ぶこと。
私はまだ、その練習の途中にいる。』
その一文を書いて、凛は少し落ち着いた。
感情そのものを責めない。
扱い方を選ぶ。
それは、昨日真白と話したことでもあった。
会いたいと思うことは自由。
それをどう持っていくかが大事。
凛はその言葉を、作品の中でもう一度確かめていた。
大学へ向かう時間になり、凛はパソコンを保存した。
今日の章は、朝から少し深いところに触れている。
でも、不思議と母の章ほどの重苦しさではなかった。
痛みはある。
不安もある。
でも、どこかに温かさもある。
誰かを大事に思う話だからかもしれない。
怖いけれど、そこには確かに温度がある。
大学へ着くと、七海がいつもの場所で待っていた。
「おはよ。今日は恋バナの顔」
凛は足を止めた。
「違う」
「違うの?」
「……違わないかもしれないけど、恋バナって言うと怖い」
七海はにやりと笑った。
「じゃあ、名前のない大事バナ」
「何それ」
「名前のない大事な人の話」
凛は思わず笑ってしまった。
七海はいつも、凛が怖がる言葉を少し柔らかく変えてくれる。
恋。
その言葉が怖いなら、名前のない大事バナ。
凛にとっては、そのくらいの曖昧さがちょうどよかった。
「今日、何書いたの?」
七海が聞く。
「誰かを大事に思う自分を嫌わない話」
「おお」
「会いたいとか、不安とか、嫉妬とか、そういうのをすぐ悪いものにしないって」
「めっちゃ大事じゃん」
七海は頷いた。
「凛ちゃん、感情にすぐ有罪判決出すもんね」
「有罪判決」
「うん。会いたい罪、寂しい罪、嫉妬罪」
凛は笑いながらも、少し胸が痛んだ。
本当にそうだ。
凛は感情が出るたびに、自分の中で裁判を始めていた。
そして、ほとんどの場合、有罪にしていた。
七海は続けた。
「でもさ、感情って出てくるだけなら無罪じゃない?」
凛は七海を見る。
「無罪」
「うん。そこから何するかでしょ」
灯と真白に言われたこととも重なる。
感情そのものではなく、扱い方。
凛は静かに頷いた。
「感情は、出てくるだけなら無罪」
「そう。名言出た」
「七海ちゃんが言ったんでしょ」
「じゃあ引用して」
二人で笑いながら教室へ向かった。
講義中、凛はノートの端へ書いた。
『感情は、出てくるだけなら無罪。
その感情をどう扱うかを、私はこれから選んでいけばいい。』
その言葉を見て、凛は少しだけ心が軽くなった。
昼休み、凛は図書館へ行き、朝書いた章へ七海の言葉を反映した。
『感情は、出てくるだけなら無罪なのかもしれない。
会いたいと思うこと。
寂しいと思うこと。
嫉妬すること。
不安になること。
その感情が生まれた瞬間に、私は自分を裁いてきた。
でも、感情はただ心に浮かんだものだ。
その感情を誰かにぶつけるのか、ノートに書くのか、小さく伝えるのか、少し時間を置くのか。
選べるのは、そのあとだ。』
凛は続けた。
『私は、誰かを大事に思う自分を嫌わなくてもいいのかもしれない。
不器用で、怖がりで、すぐ不安になる。
それでも、誰かを大事に思っている。
その事実まで汚してしまわなくていい。』
打ち終えた時、凛は目の奥が少し熱くなった。
誰かを大事に思っている。
その事実まで汚さなくていい。
これは、今の凛に必要な言葉だった。
夕方、凛は『cafe 月灯り』へ行くか迷った。
昨日も行った。
今日も行きたい。
また会いたい。
そう思う自分に、少しだけ不安が生まれる。
でも、昨日学んだばかりだ。
会いたい気持ちを責めない。
ただし、扱い方を選ぶ。
今日は、昨日のように必ず行く必要はないかもしれない。
会いたいと思った自分を責めずに、今日は家で作品を進める。
それも一つの選択だ。
凛は青いノートへ書いた。
『今日も会いたい。
でも、今日は行かない選択をしてみる。
会いたい気持ちを否定するためではなく、自分の時間も大事にするため。
会わないことは、気持ちを消すことではない。』
その一文を書いた時、凛は少し驚いた。
会わないことは、気持ちを消すことではない。
以前の凛は、会いたいのに会わない選択をすると、自分の気持ちを否定しているように感じていた。
でも、そうではないのかもしれない。
大事だからこそ、毎日会わなくてもいい。
会わない時間にも、自分の生活を持つ。
作品を書く。
青いノートへ戻る。
未来の予定を見る。
それもまた、大事な気持ちを壊さないために必要な距離なのかもしれない。
凛は真白へメッセージを送った。
『今日は家で作品を書きます』
『昨日のココア、ありがとうございました』
少しして返事が来た。
『こちらこそ』
『今日は凛ちゃんの言葉の時間だね』
凛は画面を見つめ、胸が温かくなった。
凛ちゃんの言葉の時間。
真白は、凛が会いに行かないことを寂しがらせるわけでも、気にしないわけでもなく、そう受け取ってくれた。
凛は返信した。
『はい。今日は自分の言葉の時間にします』
送信して、少しだけ誇らしかった。
会いたい気持ちを責めなかった。
でも、今日は行かない選択をした。
それは、凛にとって新しいバランスだった。
夜、家へ帰った凛はパソコンを開いた。
『名前のない大事な人』の章に、今日の気づきを書き足す。
『会いたい気持ちを認めることと、毎回会いに行くことは同じではない。
会わない選択をすることと、その気持ちを否定することも同じではない。
今日は会いたい。
でも、今日は自分の言葉の時間にする。
そう選ぶこともできるのだと知った。』
凛は続ける。
『誰かを大事に思うことは、自分の時間を全部差し出すことではない。
相手を思うことと、自分へ戻ることは、両方あっていい。
私はその両方を、まだ上手に持てない。
けれど、少しずつ練習したい。
会いたい日は、小さめに会いに行く。
会わない日は、気持ちを否定せず、自分の言葉へ戻る。
そうやって、私は大事な人との距離を、少しずつ学んでいきたい。』
打ち終えた時、凛の胸は静かだった。
昨日の甘いココアの温度。
今日の自分の机の静けさ。
その両方が、凛には必要だった。
誰かといる時間。
一人で書く時間。
どちらか一つだけではなく、両方。
凛は青いノートを開き、今日の最後に書いた。
『誰かを大事に思う私を、今日は少し嫌わなかった。
会いたい気持ちも、寂しい気持ちも、不安も、出てくるだけなら無罪。
それをどう扱うかを、これから少しずつ選んでいく。
大事な人を大事にしながら、私自身も置き去りにしない。』
書き終えると、凛はペンを置いた。
窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。
真白の店には行かなかった。
でも、真白を大事に思う気持ちは消えていない。
むしろ、その気持ちを少し丁寧に持てた気がした。
凛はパソコンを保存し、静かに閉じた。
名前のない大事な人。
その章はまだ途中だ。
でも今日、凛は大事に思う自分を少しだけ許せた。
それは、恋かどうかを決めることより、今の凛にとってずっと大切な一歩だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛が「誰かを大事に思う自分」を少しずつ受け入れ始めるページでした。
会いたい。
寂しい。
不安になる。
嫉妬する。
凛はそうした感情を、すぐに悪いものとして裁いてきました。
けれど今回、凛は気づきます。
感情は、出てくるだけなら無罪。
大切なのは、その気持ちをどう扱うか。
会いたい気持ちを認めることと、毎回会いに行くことは同じではない。
会わない選択をすることと、気持ちを否定することも同じではない。
凛は少しずつ、大事な人を大事にしながら、自分自身も置き去りにしない距離を学び始めています。
次のページでは、真白との距離を少しだけ保てた凛が、自分の時間を使って作品の章全体を見直し、「この物語の終わり」を初めて意識し始めます。




