第121ページ 壊れない働き方を探す
母の章に「責めるためではなく、救うために書く」という灯りを見つけた凛。
小さな自分を置き去りにしないために書くことは、少しずつ凛の中で確かな意味を持ち始めていた。
次に凛が向き合うのは、「働くことが怖い」という章。
それは、将来の不安であり、社会へ出る怖さであり、普通に生きられない自分を責めてきた痛みでもあった。
今回は、凛が“壊れない働き方”を具体的に考えながら、自分の弱さだと思っていたものを、生きていくための地図へ変えていくページです。
朝、凛は作品の目次を開いた。
画面には、少しずつ形になり始めた章の名前が並んでいる。
普通になりたかった私へ。
小さな私へ。
許すことと、わかることは違う。
責めるためではなく、救うために書く。
そして、その次に置かれている章。
『働くことが怖かった』
凛はその文字を見つめたまま、しばらく動けなかった。
母の章を書いた時とは違う重さがあった。
母の章は、過去へ触れる痛みだった。
けれど、この章は未来へ触れる痛みだった。
過去の痛みは苦しい。
でも、もう起きたことでもある。
けれど働くことへの怖さは、まだこれから凛の前に現れるものだった。
就活。
面接。
会社。
人間関係。
毎朝起きて、決まった場所へ行き、求められる役割をこなし続けること。
その全部を考えるだけで、胸が少し詰まる。
凛は青いノートを開いた。
すぐにパソコンへ書くのは怖かった。
まずは、自分の呼吸を確かめる。
ペンを持ち、新しいページへ書いた。
『働くことが怖い。
でも、働きたくないわけじゃない。
生きることを投げ出したいわけでもない。
怖いのは、壊れる働き方。
自分を消して、普通のふりをし続ける働き方。
苦しいと言えないまま、毎日をこなさなければいけない働き方。』
書きながら、凛はキャリアセンターで話した日のことを思い出していた。
相談員の女性は、凛の言葉を否定しなかった。
働くことが怖い、と言った凛へ、「やる気がない」とは言わなかった。
ただ、どんな働き方が怖いのか、どんな環境なら少し安心できそうなのかを聞いてくれた。
それだけで、凛は少し救われた。
怖さは、ただの甘えではなかった。
情報だった。
自分が何に弱いのか。
何で壊れやすいのか。
どんな場所なら少し呼吸できるのか。
それを知るための手がかりだった。
凛はノートへ続けた。
『私はずっと、できないことを弱さだと思っていた。
でも、できないことを知るのは、自分を責めるためだけじゃない。
壊れないための地図を作るためでもある。』
その一文を書いた瞬間、胸の奥が少し温かくなった。
壊れないための地図。
以前、相談会でもらった紙に書いた言葉だった。
安心しやすい環境。
苦手な環境。
負担になりやすいこと。
少し力を使いやすいこと。
それらを言葉にすることは、弱さを数えることではない。
自分が自分のまま生きていくための地図を作ることなのだ。
凛は机の引き出しから、キャリアセンターでもらった紙を取り出した。
少し折れ曲がった紙。
そこには、以前書いた自分の文字が残っていた。
『安心しやすい環境』
静か。人が多すぎない。急かされすぎない。自分のペースで考える時間がある。言葉を丁寧に扱える。
『苦手な環境』
大きな声が飛び交う場所。常に人の顔色を見なければいけない場所。失敗をすぐ責められる空気。休みにくい雰囲気。
凛はそれを読み返した。
以前なら、こんなことを書くだけで自分を責めていたかもしれない。
わがままだ。
社会はそんなに優しくない。
みんな我慢して働いている。
自分だけ配慮してほしいなんて甘えている。
そんな言葉が頭の中に浮かんでいた。
でも今は少し違う。
自分の苦手を知ることは、逃げ道を作ることではない。
壊れないための準備だ。
凛はパソコンへ向き直り、『働くことが怖かった』の章を開いた。
新しい行へ、ゆっくり打ち始める。
『働くことが怖いと言うと、怠けたいだけだと思われる気がしていた。
みんな働いているのに。
みんな疲れているのに。
自分だけ怖いなんて言ってはいけない気がしていた。
けれど、本当は働きたくないのではなかった。
壊れる働き方が怖かった。』
手は少し震えていた。
でも、言葉は出てきた。
『私が怖かったのは、朝から晩まで普通のふりをし続けることだった。
人の顔色を読み続けることだった。
失敗した瞬間、自分の価値までなくなったように感じる場所にいることだった。
疲れても休めず、苦しくても「みんなそうだから」と言われる未来だった。
それを想像すると、私は働く前から息ができなくなった。』
凛はそこで手を止めた。
胸が少し苦しい。
でも、これは書かなければいけないことだった。
働くことが怖い。
その一言の奥には、たくさんの具体的な怖さがあった。
人間関係の怖さ。
失敗の怖さ。
休めない怖さ。
普通に見えない怖さ。
そして、自分がまた自分を責め続ける未来への怖さ。
凛は続けて打った。
『でも、怖さを具体的にしていくと、少しだけ見えてきたことがある。
私はすべての仕事が怖いわけではない。
すべての人間関係が無理なわけでもない。
ただ、私には壊れやすい条件がある。
音が多すぎる場所。
急かされ続ける場所。
感情を押し殺さなければいけない場所。
休むことが罪のように扱われる場所。
そういう場所では、私は自分を失いやすい。』
打ちながら、凛は少しずつ呼吸が深くなるのを感じた。
怖さへ名前をつける。
それは、怖さを消すことではない。
でも、正体のわからない黒い塊だったものに輪郭ができる。
輪郭ができれば、少しだけ距離を取れる。
凛は相談会でもらった紙をもう一度見た。
そして、新しい段落を書いた。
『一方で、少し呼吸しやすい場所もある。
静かな場所。
言葉を丁寧に扱える場所。
一人で考える時間がある場所。
急な判断ばかりを求められない場所。
人に合わせ続けるだけではなく、自分の感覚を使える場所。
そういう環境なら、私は少し力を使えるかもしれない。』
そこまで書いて、凛は少しだけ泣きそうになった。
自分に「力を使えるかもしれない」と書けたことが、不思議だった。
今までは、働くことを考えると、自分のできないことばかり浮かんでいた。
人より疲れやすい。
空気を読みすぎる。
臨機応変が苦手。
大きな声が怖い。
ミスを引きずる。
でも今は、少しだけ違う。
自分が少し力を使える場所もある。
文章を読むこと。
言葉を整えること。
誰かの気持ちを想像すること。
痛みに名前をつけること。
そういう力は、凛の中に確かにある。
弱さだと思っていたものの裏側に、別の使い道があるのかもしれない。
スマートフォンが震えた。
灯からだった。
『今日どこ書いてる?』
凛は画面を見て少し笑った。
『働くことが怖い章』
すぐに既読がつく。
『重そう』
『重い』
『でも大事そう』
『うん』
凛は少し迷ってから、今書いた一文を送った。
『弱さだと思っていたものの裏側に、別の使い道があるのかもしれない、って書いた』
灯からしばらく返信がなかった。
少しして、メッセージが届いた。
『それめっちゃいい』
『凛ちゃんの感じすぎるところって、しんどいけど、文章にはめちゃくちゃ出てると思う』
凛は画面を見つめた。
『感じすぎるところ』
『うん』
『人の言葉とか空気とか痛みとか拾いすぎるからしんどいんだと思うけど、それがあるから凛ちゃんの文章は細かいところに届くんだと思う』
凛の胸がじんわり熱くなる。
拾いすぎるからしんどい。
でも、拾えるから書ける。
それは、凛が今まさに考えていたことに近かった。
弱さと強みは、完全に別々のものではないのかもしれない。
同じ性質が、場所によって凛を苦しめたり、誰かへ届く言葉になったりする。
凛は青いノートへ書いた。
『拾いすぎるからしんどい。
でも、拾えるから書ける。
同じ性質が、場所によって弱さにも強みにもなるのかもしれない。』
その一文を書いた瞬間、凛の中で何かが少し繋がった。
働き方を考えるというのは、自分の弱さをなくすことではない。
自分の性質が壊される場所ではなく、使える場所を探すことなのかもしれない。
大学へ向かう時間になり、凛はパソコンを保存して閉じた。
今日は朝からかなり書けた。
母の章とは違う疲れがある。
けれど、少しだけ前を向くような疲れだった。
大学へ着くと、七海が教室の前で待っていた。
「今日、何か進んだ顔」
「働くことの章を書いた」
「おお。強敵」
「強敵だった」
「倒せた?」
「少しだけ」
「じゃあ勝ち」
七海のその言葉に、凛は笑った。
勝ち。
七海は何でもすぐ勝ちにしてくれる。
でも、そのおかげで凛は、大きな問題を少し小さくできる。
働くこと。
将来。
就活。
そんな巨大なものを一気に倒す必要はない。
今日は少し書けた。
それで勝ち。
「何書いたの?」
七海が聞く。
凛は朝書いたことを話した。
働きたくないわけではなく、壊れる働き方が怖いこと。
自分が苦手な環境と、安心しやすい環境。
拾いすぎる性質が、場所によって弱さにも強みにもなるかもしれないこと。
七海は真剣に聞いていた。
そして言った。
「それ、めっちゃ大事じゃん」
「大事?」
「うん。凛ちゃん、ずっと自分を社会不適合者みたいに見てたけど」
「うん」
「合わない場所に突っ込まれたら誰でも壊れるよ」
その言葉に、凛は少し目を瞬かせた。
七海は続ける。
「もちろん社会って厳しいけどさ。だからって、どこでも同じように頑張れって無理じゃん」
「うん」
「凛ちゃんは、自分に合う場所探すのが大事なんだと思う」
凛は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
自分に合う場所を探す。
それは、逃げではない。
壊れないための地図を作ること。
自分の性質が全部否定される場所ではなく、少しでも使える場所を探すこと。
「でも、合う場所が見つかるか怖い」
凛が言うと、七海はあっさり頷いた。
「怖いよね」
「うん」
「でも、探さないと見つからないし」
「正論」
「ごめん」
七海は少し笑った。
「でもさ、探すって別に一発で正解引くことじゃないと思う」
「一発で正解」
「うん。凛ちゃん、就職も人生も一回で正解しなきゃって思いすぎ」
凛は言葉を失った。
確かにそうだった。
凛はいつも、一回で正解を選ばなければいけないと思っていた。
新卒で入る会社。
働き方。
人生の方向。
人との関係。
一度選んだら、もう戻れないような気がしていた。
だから怖かった。
でも本当は、選んだあとに修正することもあるのかもしれない。
合わなかったら変える。
壊れそうなら休む。
別の道を探す。
そういうことも、人生にはあるのかもしれない。
講義中、凛はノートの端に書いた。
『一回で正解を選ばなくていい。
合わなかったら、気づく。
気づいたら、調整する。
それも生き方の一部。』
その言葉を書いた時、少しだけ未来の重さが軽くなった。
昼休み、凛はキャリアセンターへ行くことにした。
予約はしていない。
でも、相談会でもらった紙について、少し聞きたいことがあった。
自分に合う働き方を考える。
それを作品の中だけで終わらせたくなかった。
現実の中でも、少しだけ動いてみたいと思った。
キャリアセンターへ入ると、以前の相談員の女性が受付の近くにいた。
「あ、朝比奈さん」
名前を覚えていてくれたことに、凛は少し驚いた。
「こんにちは」
「今日はどうしましたか?」
「少しだけ、相談会でもらった紙のことで聞きたくて」
「もちろん。少し時間ありますよ」
凛は面談席へ案内された。
手元には、書き込みをした紙。
安心しやすい環境。
苦手な環境。
それを見せるのは少し恥ずかしかった。
自分の弱さを見せるような気がしたから。
でも、相談員は丁寧に紙を見てくれた。
「かなり具体的に書けていますね」
「そうですか」
「はい。ここまで環境の特徴を書けるのは大事です」
凛は少しだけ肩の力を抜いた。
「私、苦手なことが多すぎる気がして」
正直に言うと、相談員は首を横に振った。
「苦手が多いというより、負荷がかかりやすい条件をよくわかっている、という見方もできます」
その言葉に、凛は息を止めた。
負荷がかかりやすい条件をよくわかっている。
また少し、見方が変わる。
相談員は続けた。
「仕事を選ぶ時、得意なことだけでなく、どんな環境で力を発揮しやすいかを知ることはとても大切です」
「環境」
「はい。同じ仕事内容でも、職場環境によって負担は大きく変わります。朝比奈さんの場合、静かに集中できる時間、急かされすぎないこと、言葉を扱えることがかなり大事そうですね」
凛は頷いた。
「文章に関わる仕事も気になっていて」
「以前も話しましたね」
「はい。でも、作家とかライターみたいな大きいものじゃなくても、言葉を使う仕事ってありますか」
相談員は資料を開いた。
「ありますよ。たとえば、事務職でも文章作成や資料整理が多いところ、広報補助、Webサイト更新、校正補助、編集アシスタント、カスタマーサポートでも文章で対応するものなど」
聞きながら、凛は少し圧倒された。
でも同時に、胸の奥がほんの少しだけ明るくなった。
書くことを仕事にするというのは、作家になることだけではない。
言葉を扱う場所は、思っていたよりいろいろあるのかもしれない。
もちろん、どれも簡単ではない。
働く以上、人間関係も責任もある。
でも、選択肢がひとつではないと知るだけで、未来の真っ黒さが少し薄まる。
相談員は最後に言った。
「朝比奈さんは、いきなり完璧な道を決めなくていいと思います。まずは、合いそうな条件を持つ仕事を調べるところから始めましょう」
いきなり完璧な道を決めなくていい。
その言葉は、七海の言葉とも繋がった。
一回で正解を選ばなくていい。
凛はキャリアセンターを出たあと、廊下の隅でスマートフォンを開いた。
真白へメッセージを送る。
『キャリアセンターで、働き方の話を少ししてきました』
すぐに既読がついた。
『お疲れさま。どうだった?』
『言葉を使う仕事って、作家とかライターだけじゃないって聞きました』
『少しだけ、未来が一種類じゃない気がしました』
少し間があり、真白から返事が来た。
『それ、すごく大事な気づきだね』
『凛ちゃんの未来が、ひとつの形に閉じ込められなくていいってことだから』
凛は画面を見つめた。
未来が、ひとつの形に閉じ込められなくていい。
その言葉が胸に残った。
凛はずっと、未来には正解がひとつしかないと思っていた。
新卒で会社に入る。
週五日働く。
人間関係に適応する。
普通に生活する。
それができなければ、人生から外れるのだと思っていた。
でも、もしかしたら違う。
凛には凛の形があるかもしれない。
すぐには見つからないかもしれない。
失敗もするかもしれない。
でも、探していい。
夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。
店内は静かで、真白はカウンターで豆を挽いていた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
「今日はキャリアセンター行ったんだよね」
「はい」
凛はいつもの席へ座った。
真白が出してくれたココアを両手で包みながら、今日の相談内容を話した。
安心しやすい環境。
苦手な環境。
言葉を扱う仕事。
一回で正解を選ばなくていいこと。
真白は静かに聞いていた。
そして言った。
「凛ちゃん、少しずつ現実の未来にも手を伸ばしてるね」
凛は顔を上げた。
「現実の未来」
「うん。作品の中だけじゃなくて、実際に相談したり、調べたりしてる」
凛はカップを見つめた。
確かにそうだった。
作品を書くことで、自分の怖さに名前をつけている。
でも、それだけでは終わっていない。
キャリアセンターへ行く。
紙に書く。
相談する。
少し調べる。
それらは、現実の未来へ小さく手を伸ばす行動だった。
「怖いです」
「うん」
「でも、前より少しだけ、探してみたい気持ちがあります」
真白は穏やかに笑った。
「それで十分だと思う」
夜、家に帰った凛は、パソコンを開いた。
今日の出来事を『働くことが怖かった』の章へ書き足す。
『働き方を考えることは、私にとって、自分の弱さを突きつけられることだと思っていた。
でも少しずつ、違う見方ができるようになってきた。
苦手なことを知るのは、逃げるためだけではない。
安心できる環境を知るのは、甘えるためだけではない。
それは、私が壊れないための地図を作ることだった。』
凛は続ける。
『一回で正解を選ばなくていい。
未来は、ひとつの形に閉じ込められなくていい。
合わなかったら、気づく。
気づいたら、調整する。
壊れる前に立ち止まる。
そういう生き方も、きっとあっていい。』
打ち終えると、凛は深く息を吐いた。
胸の奥が少しだけ温かかった。
働くことへの怖さは、まだ消えていない。
就活のことを考えると、今でも身体が硬くなる。
でも、真っ黒だった未来に、小さな線が引かれ始めている。
壊れないための地図。
それはまだ未完成だ。
でも、凛は少しずつ書き込んでいる。
青いノートを開き、最後に一文を書く。
『私はまだ、働くことが怖い。
でも、怖いままでも探していい。
壊れない働き方を探すことは、逃げではなく、私が私のまま生きるための準備だ。』
書き終えたあと、凛はペンを置いた。
部屋は静かだった。
窓の外では、冬の夜が深く広がっている。
未来はまだ怖い。
でも、少しだけ地図がある。
それだけで、凛は今夜、前より少しだけ明日を遠ざけずにいられた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛が「働くことが怖い」という章へ向き合うページでした。
働きたくないわけではない。
生きることを投げ出したいわけでもない。
凛が怖かったのは、自分を消して普通のふりをし続ける“壊れる働き方”でした。
けれど今回、凛は気づきます。
苦手なことを知るのは、自分を責めるためだけではない。
安心できる環境を知るのは、甘えではない。
それは、壊れないための地図を作ること。
一回で正解を選ばなくてもいい。
未来は、ひとつの形に閉じ込められなくてもいい。
凛は少しずつ、自分のまま生きるための働き方を探し始めています。
次のページでは、この“壊れないための地図”を作品の中でさらに整理しながら、凛が初めて具体的な仕事候補を調べていきます。




