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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第120ページ  責めるためではなく、救うために書く

母に作品を読ませるかどうかは、まだ決めなくていい。

そう気づいた凛は、少しだけ呼吸を取り戻した。


この作品は、母に許可をもらうためのものではない。

母を罰するためのものでもない。

凛が、自分を置き去りにしないためのものだった。


今回は、凛が母の章を書き進めながら、「母を責める文章」ではなく「自分を救う文章」にするための言葉を探していくページです。

朝、凛はパソコンを開く前に、青いノートを机の真ん中へ置いた。


 今日は、母の章を書く。


 そう決めていた。


 けれど、すぐにパソコンへ向かうのは怖かった。


 母の章を書く時、凛の心はいつも少し不安定になる。


 母を責めたいわけではない。


 でも、傷ついたことは書きたい。


 母を悪者にしたいわけではない。


 でも、自分が寂しかったことまで消したくない。


 その間で、凛は何度も立ち止まってきた。


 昨日、真白に言われた言葉が残っている。


 この作品は、母に許可をもらうためのものではない。


 母が読んでも、読まなくても。


 母が受け止めても、すぐには受け止めきれなくても。


 凛が苦しかったことは消えない。


 凛は、自分の痛みを自分の言葉で書いていい。


 その言葉は、凛の胸に小さな灯りのように残っていた。


 でも、それでも怖い。


 母のことを書くと、どうしても自分の中にある怒りや悲しみが出てくる。


 それが文章になると、自分が母を攻撃しているように感じてしまう。


 凛はペンを持ち、青いノートへ書いた。


『母の章を書くのが怖い。

責めたいわけじゃない。

でも、傷ついたことを書くと、責めているみたいになる。

私は、母を罰する文章ではなく、自分を救う文章を書きたい。』


 書いた瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。


 自分を救う文章。


 その言葉は、今日の凛に必要な道しるべのようだった。


 凛はもう一度、ゆっくり書いた。


『責めるためではなく、救うために書く。』


 その一文を見つめる。


 母を責めるためではない。


 過去を暴くためでもない。


 誰かに母を悪く思ってほしいわけでもない。


 ただ、凛がずっと抱えてきた痛みを、凛自身が見捨てないために書く。


 凛は深く息を吸い、パソコンを開いた。


 画面に作品のファイルが表示される。


『生きづらさに、名前をつけるなら』


 そのタイトルの下、目次の中に母の章がある。


『許すことと、わかることは違う』


 凛はその章を開いた。


 昨日までに書いた文章が並んでいる。


 母にも事情があったこと。


 でも、凛も苦しかったこと。


 理解することと許すことは違うこと。


 母の言葉に、昔の傷が反応すること。


 母に作品を読ませるかどうかは、まだ決めなくていいこと。


 その文章を読み返していると、胸が少し重くなった。


 でも、逃げたいほどではなかった。


 凛は今、青いノートという戻る場所を持っている。


 七海にも、灯にも、真白にも話せる。


 そして何より、今の凛は小さな自分へ「もうひとりにしない」と約束した。


 だから今日も、逃げずに少しだけ書く。


 一章全部を完成させなくていい。


 一段落でいい。


 一文でもいい。


 凛はカーソルを新しい行へ置いた。


『私は、母を責めたいのだろうか。

母の章を書こうとするたび、その問いが浮かぶ。

傷ついたことを書くと、母を悪者にしているような気がする。

寂しかったと書くと、母の人生まで否定してしまうような気がする。

だから私は、何度も言葉を飲み込もうとした。』


 打ちながら、凛は自分の指先が少し震えているのを感じた。


 でも、続ける。


『でも、本当は違う。

私は母を罰したいのではない。

私が寂しかったことを、私だけはなかったことにしたくないのだ。

母が不器用だったことと、私が傷ついたこと。

母も苦しかったかもしれないことと、私も苦しかったこと。

その両方を、同じ場所に置きたいのだ。』


 凛はそこで手を止めた。


 胸が熱い。


 この文章は、少しだけ真ん中へ近づいている気がした。


 母を責めるだけでもない。


 自分の傷を消すだけでもない。


 その間に立つ文章。


 凛はそれを書きたかった。


 母を理解することが、自分の傷を消すことにならないように。


 自分の痛みを書くことが、母をすべて悪者にすることにならないように。


 その難しい場所で、言葉を探していた。


 スマートフォンが震えた。


 七海からだった。


『今日、母の章?』


 凛は少し笑った。


 昨日話したことを覚えていてくれたのだ。


『うん。書いてる』


『怖い?』


『怖い』


『でも少し書けた』


 すぐに返事が来た。


『勝ち』


 その一言に、凛は思わず笑ってしまった。


 七海はいつも、凛が大きく考えすぎるところを小さくしてくれる。


 母の章。


 過去。


 許し。


 理解。


 そんな重たいものを抱えている凛へ、七海は「少し書けたなら勝ち」と言ってくれる。


 その軽さが、今日も凛を救った。


 凛は返信した。


『ありがとう。少しだけ勝った』


『その調子』


 凛はスマートフォンを伏せ、また画面へ向かった。


 続きが少しだけ書けそうだった。


『私が書きたいのは、母を責める文章ではない。

けれど、母を守るために自分の痛みを薄める文章でもない。

私はずっと、誰かを困らせないために自分の気持ちを小さくしてきた。

だからこの作品の中でまで、同じことをしたくない。

母を守るために、小さな私をもう一度置き去りにしたくない。』


 その一文を打った瞬間、凛の目に涙が滲んだ。


 母を守るために、小さな私をもう一度置き去りにしたくない。


 それは、今日の凛の本音だった。


 母を傷つけたくない。


 その気持ちは本当だ。


 でも、そのためにまた自分の痛みをなかったことにするなら、それは昔と同じだ。


 大丈夫なふりをしていた小さな凛を、またひとりにすることになる。


 凛はもう、その子へ約束した。


 もう、ひとりにしない。


 なら、母の章でも、その約束を守らなければならない。


 大学へ行く時間になり、凛はファイルを保存した。


 今日は思ったより書けた。


 けれど、心は少し疲れていた。


 母の章を書くと、いつも身体の奥から力が抜ける。


 それだけ、深い場所に触れているのだと思った。


 凛は青いノートへ、短く書いた。


『今日は少し書けた。

怖かったけど、小さな私を置き去りにしない方を選べた。』


 ノートを閉じ、バッグへ入れる。


 その重みが、少しだけ心強かった。


 大学へ向かう電車の中で、凛は母からの過去のメッセージを少し見返していた。


 最近の母の言葉は、以前より柔らかい。


『無理しすぎないでね』


『作品も大事なんだね』


『少しずつでいいと思うよ』


 そういう言葉が並んでいる。


 それを見ると、凛は少し安心する。


 でも、同時に胸が痛む。


 今の母は、少しずつ変わろうとしてくれているのかもしれない。


 それは嬉しい。


 でも、昔の自分はその言葉をもらえなかった。


 その悲しみも消えない。


 凛はスマートフォンを閉じた。


 嬉しいと悲しいは、同時にあっていい。


 昨日も書いた言葉を思い出す。


 今の母の優しさを受け取ることと、昔の寂しさを忘れることは同じではない。


 今の母を少し信じたい気持ちと、昔の傷をまだ抱えていることは、同時に存在していい。


 大学に着くと、七海がすぐに声をかけてきた。


「勝者、おはよう」


「やめて」


「母の章、少し書けたんでしょ。勝者じゃん」


 凛は少し笑った。


 七海は凛の隣を歩きながら、軽い声で言った。


「でも、疲れてそう」


「うん。ちょっと疲れた」


「母の章、体力使いそう」


「使う」


 凛は素直に頷いた。


「書いてると、母を責めてる気がして怖くなる」


「うん」


「でも、母を守るために自分の痛みを消したら、また小さい自分を置き去りにする気がして」


 七海は少しだけ黙った。


 そして、静かに言った。


「凛ちゃん、ちゃんと小さい自分の味方になってるね」


 凛は足を止めそうになった。


「味方」


「うん」


 七海は続ける。


「前は、お母さんの事情を考えすぎて、自分の痛みを引っ込めそうになってたじゃん」


「うん」


「でも今は、お母さんのことも考えながら、小さい凛ちゃんのことも守ろうとしてる」


 その言葉に、凛の胸がじわりと熱くなる。


 小さい自分の味方。


 そうなれているのだろうか。


 まだ自信はない。


 まだすぐに母の気持ちを先に考えてしまう。


 でも、少しずつ変わっているのかもしれない。


 凛は小さく言った。


「味方になれてたらいいな」


「なってると思うよ」


 七海はあっさり言った。


「少なくとも、もう完全放置はしてない」


 完全放置。


 言葉の選び方が七海らしくて、凛は笑ってしまった。


 でも、本当にそうだと思った。


 昔の凛は、自分の痛みを放置していた。


 気づかないふりをして、平気なふりをして、誰かのために引っ込めていた。


 でも今は違う。


 青いノートへ書く。


 作品へ入れる。


 誰かに話す。


 それは、小さな自分を放置しないための行動だった。


 講義中、凛はノートの端に書いた。


『私は、小さな私の味方になりたい。

母のことも理解したい。

でも、それ以上に、あの時ひとりだった私をもう一度ひとりにしたくない。』


 この言葉も、作品へ入れたいと思った。


 昼休み、灯からメッセージが届いた。


『母の章って、めちゃくちゃ難しそう』


 凛は少し驚いた。


 七海から聞いたのかと思ったが、そんなはずはない。


『今日ちょうど書いてた』


『やっぱり』


『なんでわかるの』


『なんとなく凛ちゃん今日、深いところ潜ってそうだった』


 凛は画面を見て少し笑った。


 灯もまた、凛の揺れを遠くから感じ取るようなところがある。


『母を責める文章にしたくないけど、自分の痛みも消したくない』


 凛が送ると、灯から少し長めの返事が来た。


『それでいいと思う』


『責めるためじゃなくて、凛ちゃんが自分を救うために書いてるなら、それはちゃんと伝わると思う』


『全部きれいに書こうとしなくていいよ』


『ぐちゃぐちゃなままでも、本当なら届く』


 凛はその文章を何度も読んだ。


 ぐちゃぐちゃなままでも、本当なら届く。


 それは灯らしい言葉だった。


 凛はいつも、文章を整えようとしすぎる。


 誰かを傷つけないように。


 誤解されないように。


 ちゃんと伝わるように。


 でも、整えすぎると、本当の痛みが薄まってしまうこともある。


 ぐちゃぐちゃなままでも、本当なら届く。


 凛はその言葉を青いノートに書いた。


 夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 店内には、コーヒーの香りが静かに漂っていた。


 窓の外はすでに暗くなり始めている。


 真白はカウンターでグラスを拭いていた。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


 凛が席に座ると、真白はすぐに言った。


「今日は母の章を書いた顔」


 凛は驚きながら笑った。


「みんなわかりすぎです」


「みんな?」


「七海ちゃんも、灯ちゃんも、真白さんも」


「それだけ凛ちゃんにとって大きいところなんだと思う」


 真白はそう言って、温かいココアを置いてくれた。


 凛はカップを両手で包み、今日書いたことを話した。


 母を責める文章ではなく、自分を救う文章にしたいこと。


 母を守るために、小さな自分をまた置き去りにしたくないこと。


 七海に「小さい自分の味方になっている」と言われたこと。


 灯に「ぐちゃぐちゃなままでも、本当なら届く」と言われたこと。


 真白は静かに聞いていた。


 そして、ゆっくり言った。


「凛ちゃんの母の章は、たぶん“母の話”である以上に、“自分を裏切らない練習”の話なんだと思う」


 凛は顔を上げた。


「自分を裏切らない練習」


「うん」


 真白は言葉を選ぶように続けた。


「今まで凛ちゃんは、お母さんを困らせないために、自分の痛みを引っ込めてきた」


「はい」


「でも今、作品の中でそれをやめようとしてる」


 凛は黙って聞いていた。


「お母さんを責めるためじゃなくて、自分を裏切らないために書いてる」


 その言葉に、凛の胸が強く揺れた。


 自分を裏切らないために書く。


 それは、今日ずっと探していた言葉に近かった。


 母を傷つけないようにと、自分の痛みを消す。


 それは一見、優しいことのように見える。


 でも凛にとっては、自分を裏切ることでもあった。


 昔の凛をまた置き去りにすることだった。


「……私、自分を裏切ってきたんですね」


 凛は小さく言った。


「たぶん、そうしないと生きられなかったんだと思う」


 真白は優しく言った。


「だから責めることじゃない」


「はい」


「でも、これからは少しずつ、裏切らない選択を増やしていけるんじゃないかな」


 凛は目を伏せた。


 少しずつ。


 その言葉に救われる。


 一気に変わらなくていい。


 母の前で急に強くならなくていい。


 完璧に自分の味方になれなくてもいい。


 ただ、今日みたいに、青いノートへ書く。


 作品へ書く。


 大事な人へ話す。


 自分の痛みを消さない。


 その小さな選択を増やしていけばいい。


 夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。


 今日の会話を作品へ入れたかった。


 母の章に、新しい段落を作る。


『母のことを書くことは、私にとって、自分を裏切らない練習でもある。

私はずっと、母を困らせないために自分の痛みを引っ込めてきた。

大丈夫じゃないのに大丈夫と言った。

寂しいのに平気なふりをした。

傷ついたのに、母も大変だったからと自分に言い聞かせた。

そうすることで、私は母を守っているつもりだった。

でも同時に、小さな私を何度も置き去りにしていた。』


 凛は深く息を吸い、続きを打った。


『だから今、私は書く。

母を罰するためではない。

母を悪者にするためでもない。

私が私をもう一度裏切らないために書く。

寂しかったことを、寂しかったと書く。

痛かったことを、痛かったと書く。

それは誰かを攻撃するためではなく、あの時ひとりだった私の隣に立つためだ。』


 書き終えた瞬間、凛の胸が熱くなった。


 これだ、と思った。


 母の章の中心に置きたい言葉が、少し見えた。


 責めるためではなく。


 救うために。


 裏切らないために。


 凛はさらに続けた。


『母を理解したい気持ちは、今もある。

母も不安だったのだと思う。

母も、自分の怖さをどう扱えばいいのかわからなかったのだと思う。

でも、母を理解することと、私が私の味方でいることは、どちらか一つしか選べないものではない。

私は、母を理解しようとしながら、同時に小さな私の味方でいたい。』


 打ち終えると、涙が頬を伝った。


 でも、その涙は少し静かだった。


 母の章が、少しずつ母を責めるための場所ではなくなっていく。


 自分を救う場所になっていく。


 凛は青いノートを開き、今日の最後に書いた。


『母の章は、母を裁く場所ではない。

私が私を裏切らないための場所。

小さな私の味方でいるための場所。

責めるためではなく、救うために書く。』


 書き終えると、凛はペンを置いた。


 部屋は静かだった。


 窓の外では、冬の夜が深くなっている。


 今日もたくさん揺れた。


 母のことを書くのは、やはり苦しい。


 でも、ただ苦しいだけではなかった。


 少しずつ、言葉が見つかっている。


 自分の痛みを消さず、母をすべて悪者にもせず、その間で立つための言葉。


 凛はパソコンの画面を見つめた。


 母の章は、まだ完成していない。


 けれど今日、中心に置きたい灯りが見えた気がした。


 責めるためではなく、救うために書く。


 それは母だけでなく、凛自身にも向けられた言葉だった。


 凛は静かにパソコンを閉じた。


 小さな自分を、今日も置き去りにしなかった。


 それだけで、今夜は少しだけ眠れる気がした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が母の章を書き進めながら、「母を責める文章」ではなく「自分を救う文章」にするための言葉を探すページでした。


母を守るために、自分の痛みを消す。

それは優しさのようでいて、凛にとっては小さな自分をもう一度置き去りにすることでもありました。


だから凛は書きます。

母を罰するためではなく。

母を悪者にするためでもなく。

自分をもう一度裏切らないために。


「責めるためではなく、救うために書く」


その言葉が、母の章の中心に置かれる灯りになりました。


次のページでは、母の章にひとつの方向性を見つけた凛が、次に「働くことが怖い」という章へ向かい、自分が壊れない働き方をさらに具体的に考え始めます。

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