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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第119ページ  母に読ませる日が来るのだろうか

母の何気ない一言に揺れながらも、凛は青いノートへ戻り、自分の言葉で母に返すことができた。

揺れない自分になるのではなく、揺れても戻ってくる。

その感覚を少しずつ覚え始めた凛の中に、新しい怖さが生まれる。


この作品を、いつか母に読ませる日が来るのだろうか。

母が読んだら、どう思うのだろうか。

傷つくだろうか。

怒るだろうか。

それとも、凛の痛みに初めて触れてくれるのだろうか。


今回は、凛が「母に作品を読ませる怖さ」と向き合いながら、作品を書く意味をもう一度見つめ直していくページです。

朝、凛はパソコンを開いたまま、作品の中にある母の章を見つめていた。


 画面には、昨日書き足した文章が残っている。


『母の言葉に、私は何度も揺れる。

今の母に悪意がなくても、昔の痛みが一緒に起きることがある。

そのたびに私は、自分を責めそうになる。

でも最近、少しだけわかってきた。

反応が大きいのではなく、そこに昔の傷があるのだ。

今の言葉に、昔の傷が触れるから痛むのだ。』


 凛はその文章を何度も読み返した。


 間違ったことは書いていない。


 これは本当の気持ちだった。


 母に悪意がないとわかっていても、痛む時がある。


 今の母の言葉と、昔の母の言葉が重なってしまう時がある。


 凛はそれを責めるだけではなく、少しずつ言葉にできるようになってきた。


 けれど、その文章を読み返しているうちに、新しい怖さが胸の中で膨らみ始めた。


 もし、母がこれを読んだら。


 そう考えた瞬間、凛の指先が冷たくなった。


 母がこの作品を読む日。


 そんな未来を、今まで凛はちゃんと考えていなかった。


 灯に一部を読んでもらった。


 七海に目次を見せた。


 真白に冒頭の言葉や手紙を見せた。


 その三人は、凛の痛みを大切に扱ってくれた。


 でも、母は違う。


 母はこの作品の中に出てくる人だ。


 凛が傷ついた相手でもある。


 母がこれを読んだら、どう思うのだろう。


 責められていると思うだろうか。


 ひどい娘だと思うだろうか。


 そんなつもりじゃなかったと言うだろうか。


 昔のことをいつまで言っているの、と傷つくだろうか。


 それとも、黙ってしまうだろうか。


 凛はパソコンを閉じかけた。


 怖い。


 母に読まれる可能性を考えた途端、母の章が急に危険なものに見え始めた。


 自分の痛みを書いたはずなのに、母を傷つける刃物のように感じてしまう。


 凛は青いノートを開いた。


 まず、自分へ戻る。


 昨日も戻った場所。


 母の言葉で揺れた時も、凛はここへ戻れた。


 凛はペンを持ち、新しいページに書いた。


『母に読まれるのが怖い。

母のことを書いているから。

私の痛みを書いたら、母を責めていることになるのだろうか。

母が傷ついたら、私は悪いことをしたことになるのだろうか。』


 書いた瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 まただ、と思った。


 凛はまた、母の気持ちを先に考えている。


 母がどう思うか。


 母が傷つくか。


 母が悲しむか。


 母が怒るか。


 そのことばかり考えて、自分がなぜこの文章を書いているのかが見えなくなりそうになっていた。


 凛は深く息を吸い、続けて書いた。


『でも、私は母を傷つけるために書いているわけじゃない。

私が傷ついたことを、なかったことにしないために書いている。

母を罰するためではなく、私を置き去りにしないために書いている。』


 その一文を書いた時、少しだけ呼吸が戻った。


 そうだ。


 この作品は、誰かを裁くためのものではない。


 母を悪者にするためでもない。


 凛が自分の生きづらさに名前をつけるためのものだ。


 普通になれなかった自分を責めるのではなく、その苦しさの理由を探すためのものだ。


 それでも、母のことを書けば、母を傷つける可能性はある。


 その事実は消えない。


 だから凛は怖い。


 凛はノートへ続けた。


『本当のことを書くことと、誰かを傷つけることは、完全には切り離せないのかもしれない。

でも、誰も傷つけないように書こうとしたら、私はまた自分の痛みを薄めてしまう。

それは、昔の私をまた置き去りにすることになる。』


 書きながら、凛の目に涙が滲んだ。


 母を傷つけたくない。


 でも、自分の痛みを消したくない。


 この二つは、ずっと凛の中でぶつかっている。


 母を理解したい。


 でも許せない。


 母を責めたいわけじゃない。


 でも自分の寂しさはなかったことにしたくない。


 その矛盾ごと、凛は書かなければならないのかもしれなかった。


 スマートフォンが震えた。


 七海からだった。


『今日、作品進めてる?』


 凛は少し迷って、正直に返した。


『母の章を見てたら、いつか母に読まれるのが怖くなった』


 すぐに既読がつく。


『うわ、それは怖い』


 その返事を見て、凛は少しだけ笑った。


 七海はいつも、まず怖さを怖いものとして受け止めてくれる。


『母を傷つけることになるのかなって思う』


 凛が送ると、少し間があった。


 それから七海の返事が来た。


『でも凛ちゃん、傷つけるために書いてるわけじゃないでしょ』


『うん』


『じゃあ、まずそこは信じていいんじゃない?』


 凛は画面を見つめた。


 まずそこは信じていい。


 自分が何のために書いているのか。


 そこを信じる。


 それは簡単なようで、凛には難しかった。


 凛はすぐ、自分の動機を疑う。


 本当は母を責めたいだけなのではないか。


 本当は誰かに可哀想だと思われたいだけなのではないか。


 本当は自分を正当化したいだけなのではないか。


 そんなふうに、自分の痛みまで疑ってしまう。


 でも、七海は言った。


 傷つけるために書いているわけじゃないなら、まずそこは信じていい。


 凛は青いノートへ、その言葉を書き写した。


『私は、誰かを傷つけるために書いているわけじゃない。

まず、そこを信じていい。』


 書いた瞬間、少しだけ胸が温かくなった。


 大学へ向かう電車の中でも、凛はそのことを考えていた。


 母に読ませる日が来るのだろうか。


 もし本当に作品が完成したら、母に見せるのだろうか。


 それとも、見せないのだろうか。


 見せない選択もある。


 作品を書くことと、母に読ませることは別だ。


 書いたからといって、必ず当事者へ渡さなければいけないわけではない。


 凛はそれを頭ではわかっている。


 でも、どこかで思ってしまう。


 母に読んでほしい。


 そんな気持ちも、実はある。


 母に知ってほしい。


 凛がどれだけ苦しかったのか。


 普通になれない自分を責め続けてきたこと。


 大丈夫なふりをしていたこと。


 母の言葉を、ずっと身体の中に抱えてきたこと。


 そして今、それでも少しずつ自分を取り戻そうとしていること。


 母に知ってほしい。


 でも、母に知られるのが怖い。


 この矛盾が、凛の胸を苦しくさせていた。


 講義中、凛はノートの端に書いた。


『母に読ませたい気持ちもある。

母に読まれるのが怖い気持ちもある。

知ってほしい。

でも、知られたら壊れるかもしれない。

私はまだ、母に読ませる準備ができていない。

でも、いつか読んでほしいと思っている自分もいる。』


 書いたあと、凛は自分の文字を見つめた。


 そうだ。


 読ませたくないだけではない。


 母に読んでほしい気持ちもある。


 自分の痛みを、母に認めてほしい。


 あの時、本当に寂しかったのだと知ってほしい。


 そして、もしできるなら、母の口からもう一度聞きたい。


 苦しかったよね、と。


 でもそれは、とても危うい願いでもあった。


 母がそう言ってくれなかったら。


 母が受け止めきれなかったら。


 凛はまた深く傷つくだろう。


 だから今はまだ、作品を母へ渡すことはできない。


 でも、その願いがあることまで否定しなくていい。


 昼休み、灯からメッセージが来た。


『今日なんか重いとこ書いてる気配する』


 凛は思わず笑った。


『なんでわかるの』


『なんとなく』


『母に作品読ませる日が来るのかなって考えてた』


 送ると、灯からしばらく返事がなかった。


 少しして届いたメッセージは、いつもより静かなものだった。


『それ、めちゃくちゃ怖いね』


『うん』


『でも、今すぐ読ませなくてよくない?』


 凛は画面を見つめる。


『書くことと、渡すことは別だと思う』


 その一文に、凛は息を止めた。


 書くことと、渡すことは別。


 さっき自分でも考えていたことだった。


 でも灯に言われると、少しはっきりする。


『まず凛ちゃんのために書いて、完成して、それから考えればいいと思う』


『今、渡す未来まで背負うと重すぎる』


 凛はその文章を何度も読んだ。


 今、渡す未来まで背負うと重すぎる。


 本当にそうだった。


 凛はいつも、未来をまとめて背負おうとする。


 作品を書く。


 完成させる。


 母に読ませる。


 母がどう反応するか。


 そのあと関係がどうなるか。


 全部を一度に想像して、怖くなる。


 でも今は、まだ書いている途中だ。


 母へ渡すかどうかは、完成してから考えてもいい。


 今の凛が背負うべきなのは、今日の一文だけでいい。


 凛は青いノートへ書いた。


『書くことと、渡すことは別。

今はまだ、渡す未来まで背負わなくていい。

今日の私がすることは、今日の言葉を書くこと。』


 書いた瞬間、胸が少し軽くなった。


 夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 店内は静かで、窓の外には薄い夕焼けが残っていた。


 真白はカウンターで、何かの帳簿をつけていた。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


 凛が席に座ると、真白は顔を見てすぐに言った。


「今日は、考えすぎた顔」


 凛は苦笑した。


「はい」


「何を?」


「母に作品を読ませる日が来るのかなって」


 真白の表情が少しだけ真剣になった。


 凛はココアを待つ間、今日考えたことを話した。


 母の章を読み返して怖くなったこと。


 母を傷つけるために書いているわけではないけれど、傷つけるかもしれないと思ったこと。


 母に読ませたくない気持ちと、知ってほしい気持ちが両方あること。


 灯に「書くことと渡すことは別」と言われたこと。


 真白は最後まで聞いたあと、静かに頷いた。


「灯ちゃんの言う通りだと思う」


「はい」


「書くことと、渡すことは別」


 真白はココアを凛の前へ置いた。


「特に、凛ちゃんの作品は自分の傷にかなり近いところを書いてるから」


「はい」


「完成したからって、すぐ誰かに渡さなくていい。まして、お母さんに渡すかどうかは、かなり慎重でいいと思う」


 慎重でいい。


 その言葉に、凛は少し安心した。


 渡さなければいけないわけではない。


 母に見せなければ不誠実というわけでもない。


 自分の痛みを書いたからといって、当事者へ説明責任のように渡す必要はない。


 真白は続けた。


「凛ちゃんがいつか、読んでほしいと思うなら、その時に考えればいい」


「はい」


「でも、読ませることで凛ちゃんが壊れそうなら、読ませなくていい」


 凛は顔を上げた。


「読ませなくていい」


「うん」


 真白の声は穏やかだった。


「凛ちゃんの作品は、お母さんに許可をもらうためのものじゃないから」


 その一言に、凛の胸が強く揺れた。


 母に許可をもらうためのものではない。


 凛は気づかないうちに、それを求めていたのかもしれない。


 母に読んでもらって、わかってもらって、許してもらって、認めてもらう。


 そうすれば、自分の痛みが本物になる気がした。


 でも、本当は違う。


 母が認めてくれなくても、凛が苦しかったことは本当だ。


 母が読まなくても、この作品は存在していい。


 母に許可されなくても、凛は自分の痛みを書いていい。


 凛はカップを握る手に力が入った。


「……私、母にわかってもらえないと、書いちゃいけない気がしてたのかもしれません」


 真白は静かに頷いた。


「うん」


「でも、違うんですね」


「違うと思う」


「母が読まなくても」


「うん」


「母が受け止めてくれなくても」


「うん」


「私は、書いていい」


 言葉にした瞬間、涙が滲んだ。


 真白は優しく言った。


「書いていいよ」


 その一言で、凛は泣きそうになった。


 書いていい。


 母に認められなくても。


 誰かに許可されなくても。


 自分の痛みを、自分の言葉で書いていい。


 その許可を、本当はずっと自分に出せなかった。


 夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。


 母の章の下に、新しい段落を作る。


 今日の気づきを、作品へ入れたかった。


『いつか母がこの文章を読む日が来るのか、私はまだわからない。

読んでほしい気持ちもある。

読まれるのが怖い気持ちもある。

知ってほしい。

でも、知られたらまた傷つくかもしれない。

その両方がある。』


 凛は続けて打つ。


『けれど、少しだけわかったことがある。

この作品は、母に許可をもらうためのものではない。

母が受け止めてくれたら嬉しい。

でも、母が読まなくても、母がすぐにはわからなくても、私が苦しかったことは消えない。

私は、私の痛みを、私の言葉で書いていい。』


 打ちながら、涙が頬を伝った。


 でも、手は止まらなかった。


『書くことと、渡すことは別だ。

今はまだ、渡す未来まで背負わなくていい。

今日の私にできるのは、今日の言葉を書くこと。

過去の私を置き去りにしないこと。

そして、母に読ませるかどうかを決める前に、まず私自身がこの作品を最後まで連れていくことだ。』


 打ち終えたあと、凛は深く息を吐いた。


 胸の奥にあった重さが、少しだけ形を持った。


 母に読ませるかどうか。


 その答えはまだ出ていない。


 でも、今出さなくていい。


 それだけで、呼吸が少し楽になった。


 凛は青いノートを開き、今日の最後に書いた。


『母に読ませる日が来るかは、まだわからない。

でも、母に読ませるために書くのではない。

私は、私を置き去りにしないために書く。

母の許可がなくても、私は私の痛みを書いていい。』


 書き終えると、凛はペンを置いた。


 窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。


 母に読ませる未来は、まだ遠く、ぼんやりしている。


 怖い。


 でも、今夜の凛は少しだけわかっていた。


 その未来を今すぐ背負わなくていい。


 まずは、書く。


 自分のために。


 過去の自分のために。


 夜に崩れそうな誰かのために。


 そして、母に許されるためではなく、自分が自分を置いていかないために。


 凛はパソコンを保存し、ゆっくり閉じた。


 今日は答えを出さなかった。


 でも、答えを急がないこともまた、自分を守る選択なのだと思えた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が「母に作品を読ませる日が来るのか」という新しい怖さと向き合うページでした。


母に知ってほしい。

でも読まれるのが怖い。

受け止めてほしい。

でも、受け止めてもらえなかったらまた傷つく。


凛の中には、矛盾した気持ちが同時に存在しています。


けれど今回、凛は大切なことに気づきました。

書くことと、渡すことは別。

そしてこの作品は、母に許可をもらうためのものではない。


母が読まなくても、母がすぐには理解できなくても、凛が苦しかったことは消えません。

凛は、自分の痛みを自分の言葉で書いていい。


次のページでは、この気づきを胸に、凛が母の章をさらに書き進め、「母を責める文章」ではなく「自分を救う文章」にするための言葉を探していきます。

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