第118ページ 母の一言で、過去が目を覚ました
過去の自分へ手紙を書いた凛は、「もう、ひとりにしない」と小さな自分へ約束した。
それは過去を変える言葉ではない。
けれど、置き去りにしてきた自分を迎えに行くための言葉だった。
しかし、その手紙を書いたことで、凛の心はいつもより敏感になっていた。
そんな時、母から届いた何気ない一言が、凛の中に眠っていた過去を再び揺り起こす。
今回は、凛が母の言葉に反応してしまう自分を責めながらも、「今の痛み」と「昔の痛み」を少しずつ見分けようとしていくページです。
朝、凛は目覚めた瞬間から、胸の奥に薄い痛みが残っていることに気づいた。
昨日、過去の自分へ手紙を書いた。
小さな私へ。
大丈夫じゃないのに、大丈夫と言い続けた自分へ。
母を困らせないように笑っていた自分へ。
凛は、その子へ初めて言葉を届けた。
もう、ひとりにしないよ。
そう書いた時、凛は泣いた。
胸の奥にずっと閉じ込めていたものが、静かにほどけるような涙だった。
でも、朝になっても完全に軽くなったわけではなかった。
むしろ、心の表面が少し薄くなっているような感覚があった。
何かに触れられたら、すぐ痛む。
昨日開けた扉の向こうから、まだ幼い自分の声が聞こえてくる。
寂しかった。
怖かった。
気づいてほしかった。
その声が、まだ胸の中に残っていた。
凛は布団から起き上がり、青いノートを開いた。
昨日の最後のページを読み返す。
『過去の私へ手紙を書いた。
過去は変えられない。
でも、あの時ひとりだった私の隣に、今の私が座ることはできる。
もうひとりにしない。
この言葉を、これからの私にも渡したい。』
その一文を見て、凛は小さく息を吐いた。
これからの私にも渡したい。
昨日の自分は、確かにそう書いた。
でも今日の凛は、少し怖かった。
本当にできるだろうか。
これから苦しくなった時、また自分を置き去りにしないでいられるだろうか。
母の言葉に揺れた時。
真白からの返信が遅い時。
七海や灯に頼りすぎている気がした時。
就活の不安に飲まれた時。
そのたびに、ちゃんと自分の隣に戻れるだろうか。
凛はペンを持ち、新しいページへ書いた。
『手紙を書いたあと、心が少し柔らかくなっている。
柔らかいというより、傷口に近い。
触れられたらすぐ痛む。
でも、痛むということは、まだそこに自分がいるということなのかもしれない。』
書き終えた時、スマートフォンが震えた。
母からだった。
凛は一瞬、身体を固くした。
画面には短いメッセージが表示されている。
『作品ばかり無理しないでね。就活のことも少しずつ考えてる?』
その文章を読んだ瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
何気ない一言だった。
母に悪意があるわけではない。
心配しているのだと思う。
作品を書いている凛を否定したいわけではなく、将来のことも気にしているだけなのかもしれない。
頭では、そうわかる。
でも、身体が先に反応した。
息が浅くなる。
胸が重くなる。
手のひらが冷たくなる。
作品ばかり。
就活のことも。
その言葉が、凛の中で別の声に変わっていく。
そんなことばかりしてないで、ちゃんとしなさい。
普通の道から外れないで。
夢みたいなことを言わないで。
ちゃんと働ける人になりなさい。
昔から聞いてきた声が、母のメッセージの奥から勝手に立ち上がる。
凛はスマートフォンを伏せた。
「……違う」
小さく呟く。
母はそこまで言っていない。
今のメッセージには、そんな強い言葉は書かれていない。
でも、凛の中の小さな自分が反応している。
また否定された。
また普通に戻される。
また作品を書く自分は駄目だと言われる。
そう感じてしまった。
凛は青いノートを引き寄せ、震える手で書いた。
『母は、たぶん悪気なく言った。
でも私は痛かった。
作品ばかり、という言葉で、昔の「普通にしなさい」が目を覚ました。
今の母の言葉と、昔の母の言葉が、私の中で重なってしまった。』
書きながら、涙が滲んだ。
どうしてこんなことで泣きそうになるのだろう。
母はただ、就活のことを聞いただけだ。
心配してくれただけだ。
それなのに、凛は勝手に傷ついている。
そう思うと、また自分を責めたくなった。
面倒くさい。
考えすぎ。
敏感すぎ。
いつまでも過去に囚われすぎ。
そんな言葉が頭の中で湧いてくる。
でも、凛はペンを止めなかった。
『私は今、自分を責めようとしている。
でも、責める前に名前をつける。
これは、今の母への怒りだけじゃない。
昔の痛みが一緒に起きた反応。
今の言葉に、昔の傷が触れた。』
書いた瞬間、少しだけ呼吸が戻った。
今の言葉に、昔の傷が触れた。
そう考えると、少しだけ自分を責めずに済む気がした。
反応が大きすぎるのではない。
今の出来事だけに反応しているのではない。
その奥に、過去の痛みがある。
幼い凛がいる。
大丈夫なふりをしていた凛がいる。
その子が、母の一言で怯えたのだ。
凛は青いノートを胸へ抱えた。
「大丈夫」
小さく言う。
でもそれは、昔のような“平気なふり”の大丈夫ではなかった。
小さな自分へ向けた、大丈夫だった。
「今は、ここにいるから」
声に出した瞬間、涙が一粒落ちた。
母へ返信しなければいけない。
でも、今すぐ返すと、感情のままに打ってしまいそうだった。
怒りをぶつけるかもしれない。
逆に、また大丈夫なふりで返してしまうかもしれない。
凛はスマートフォンをそのままにして、大学へ行く支度を始めた。
顔を洗い、髪を整える。
鏡に映る自分は、少し疲れて見えた。
でも、その目の奥に、昨日手紙を書いた自分がいる気がした。
置き去りにしない。
そう決めた自分がいる。
電車の中で、凛は母のメッセージをもう一度開いた。
『作品ばかり無理しないでね。就活のことも少しずつ考えてる?』
やっぱり胸が痛む。
でも、さっきより少しだけ距離を取って読めた。
母は「やめなさい」とは言っていない。
作品を否定しているわけでもない。
無理しないでね、とも書いている。
でも凛は、「作品ばかり」という言葉に反応した。
そこに昔の痛みが重なった。
そう整理できると、返信を考える余白が少し生まれた。
凛はメモアプリを開き、母へ送る前に下書きを書いた。
『就活のことも考えてるよ。相談会でもらった紙も少しずつ見てる。作品を書くことも、今の私には大事だから、無理しすぎないように両方少しずつやるね』
書いてから、すぐには送らなかった。
この文章でいいだろうか。
少し主張しすぎだろうか。
母が嫌な気持ちになるだろうか。
またそんなふうに考え始めて、凛は小さく息を吐いた。
全部を母の機嫌に合わせようとしなくていい。
作品を書くことは大事。
就活も考えている。
どちらも本当。
それを伝えるだけでいい。
凛はメモの文章をコピーし、母へ送信した。
送った瞬間、心臓が少し速くなる。
でも、同時に小さな達成感もあった。
大丈夫なふりだけで返さなかった。
怒りをぶつけるだけでもなかった。
自分の大事なものを、少しだけ言えた。
大学に着くと、七海がすぐ凛の顔を見て言った。
「今日、なんか揺れた顔してる」
凛は苦笑した。
「七海ちゃん、顔でわかりすぎ」
「わかるよ。凛ちゃん、感情が顔の上で会議してるから」
「会議」
「うん。今、五人くらいで揉めてる顔」
凛は少し笑ってしまった。
その軽さに救われる。
「母からメッセージ来て」
「うん」
「作品ばかり無理しないで、就活のことも考えてる?って」
七海は「あー」と小さく声を出した。
「刺さった?」
「刺さった」
「だよね」
「母はたぶん、普通に心配しただけなんだけど」
「うん」
「でも、昔の“普通にしなさい”が戻ってきた感じがして」
七海は真面目な顔で頷いた。
「それ、今の言葉だけじゃなくて、昔の傷も一緒に反応したんだね」
凛は驚いて七海を見る。
「同じこと、青いノートに書いた」
「私、青いノートと同じ思考してる?」
「してる」
「光栄」
七海は少し笑ったあと、静かに言った。
「でもさ、昔の傷が反応するのって、別におかしくないと思うよ」
「おかしくない?」
「うん。傷口に似た形のものが触れたら痛いじゃん」
凛はその言葉を聞いて、胸が少し緩んだ。
傷口に似た形のものが触れたら痛い。
本当にそうだと思った。
母の言葉そのものが強すぎたわけではない。
でも、その形が昔の傷に似ていた。
だから痛んだ。
「凛ちゃん、返信した?」
「した」
「どんな?」
「就活も考えてる。作品も大事だから、無理しすぎないように両方少しずつやるって」
七海は目を丸くした。
「めっちゃいいじゃん」
「いい?」
「うん。ちゃんと自分の場所守ってる」
自分の場所を守っている。
その言葉に、凛の胸が温かくなった。
今までは、母の言葉に反応すると、自分の場所を明け渡してしまっていた。
母の安心のために、自分の本音を引っ込める。
母が心配しないように、自分の大事なものを小さくする。
でも今日は、少しだけ守れた。
作品を書くことは大事。
その場所を、完全には引っ込めなかった。
講義中、凛はノートの端に書いた。
『昔の傷が反応することは、おかしいことではない。
傷口に似た形の言葉が触れたら痛い。
大切なのは、痛んだ自分を責めることではなく、今の痛みと昔の痛みを見分けること。』
この言葉も、作品に入れたいと思った。
第一章ではないかもしれない。
母との章かもしれない。
あるいは、過去の自分へ手紙を書く章の後に必要な言葉かもしれない。
凛は少しずつ、作品がさらに深くなっていくのを感じた。
痛みが起きた時、それをすぐに否定するのではなく、言葉にする。
それは、凛にとって苦しい作業だけれど、同時に自分を守る方法でもあった。
昼休み、母から返信が来た。
『そうだね。作品も大事なんだね。お母さん、つい心配で言いすぎたかもしれない。少しずつでいいと思うよ』
凛はそのメッセージを見て、しばらく動けなかった。
母が、言いすぎたかもしれない、と言った。
作品も大事なんだね、と言った。
その言葉に、胸の奥がじわっと熱くなる。
嬉しい。
でも、同時に痛い。
今、そう言ってくれるなら、昔もそう言ってほしかった。
そんな気持ちが、一瞬浮かんだ。
作品も大事なんだね。
その言葉を、幼い頃の自分にも言ってほしかった。
あなたの気持ちも大事なんだね。
あなたの寂しさも大事なんだね。
あなたの苦しさも大事なんだね。
そんなふうに。
凛は胸を押さえた。
嬉しいのに、痛い。
最近、こういう感情が増えた。
温かい言葉をもらっても、過去の足りなかったものが同時に浮かび上がる。
今の母は少し変わろうとしている。
それは嬉しい。
でも、昔の凛はその言葉をもらえなかった。
それが悲しい。
凛は青いノートを開いた。
『母が、作品も大事なんだね、と言ってくれた。
嬉しかった。
でも、痛かった。
今言ってもらえたことを、昔も言ってほしかったと思った。
嬉しいと悲しいが同時に来る。』
書きながら、凛は少し泣きそうになった。
でも、今日は泣き崩れるほどではなかった。
言葉にできているから。
嬉しいと悲しいを、同じページに置けているから。
夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。
店へ入ると、真白はカウンターで本を読んでいた。
凛の顔を見るなり、少しだけ目を細める。
「今日は、何かあったね」
凛は苦笑した。
「顔に出すぎですね」
「出てる」
凛はいつもの席へ座った。
真白は何も聞かず、温かいココアを出してくれた。
「母からメッセージが来て」
凛はカップを両手で包みながら話し始めた。
作品ばかり無理しないで、就活のことも考えてる?と言われたこと。
それに強く反応してしまったこと。
青いノートへ書いたこと。
自分の大事なものを少し守る返信をしたこと。
母から、作品も大事なんだね、言いすぎたかもしれない、と返ってきたこと。
嬉しいのに痛かったこと。
真白は最後まで黙って聞いていた。
それから、静かに言った。
「すごく大きい一日だったね」
凛は少し驚く。
「大きい?」
「うん」
真白は指を折るように言った。
「まず、痛んだ自分を責める前にノートへ書けた」
「はい」
「それから、感情のままに返さず、自分の大事なものを守る返事をした」
「はい」
「お母さんの返事を読んで、嬉しいと痛いが両方あるって気づけた」
凛はその言葉を聞いて、胸が少し熱くなる。
「それって、かなり大きいと思う」
「でも、ただ母のメッセージに揺れただけです」
「揺れたあと、戻ってきたでしょ」
真白は静かに言った。
「それが大事なんじゃないかな」
揺れたあと、戻ってきた。
その言葉に、凛は息を止めた。
そうだ。
揺れた。
確かに大きく揺れた。
でも、完全に飲み込まれなかった。
青いノートへ戻った。
七海に話した。
母へ自分の言葉で返した。
真白へ今こうして話している。
凛は、昔とは違う。
揺れない人間になったわけではない。
でも、揺れたあと戻る場所が増えている。
そのことに、凛は初めてはっきり気づいた。
「……揺れてもいいんですか」
凛は小さく聞いた。
真白は頷いた。
「いいと思う」
「揺れないことを目指すより、揺れた時に戻れる場所を持ってる方が、凛ちゃんには合ってる気がする」
その言葉は、胸の奥へ静かに染み込んだ。
揺れない自分になる必要はない。
母の言葉に傷つかない自分。
真白のことで不安にならない自分。
就活に怯えない自分。
そんな完璧な自分を目指さなくていい。
揺れても、戻る。
痛んでも、言葉にする。
怖くても、一人で抱えない。
それが凛の生き方になっていくのかもしれない。
夜、家へ帰った凛はパソコンを開いた。
今日の出来事を作品に入れたかった。
母との章に、新しい段落を作る。
『母の言葉に、私は何度も揺れる。
今の母に悪意がなくても、昔の痛みが一緒に起きることがある。
そのたびに私は、自分を責めそうになる。
でも最近、少しだけわかってきた。
反応が大きいのではなく、そこに昔の傷があるのだ。
今の言葉に、昔の傷が触れるから痛むのだ。』
凛は続けて打った。
『母が変わろうとしてくれることは嬉しい。
でも、昔の私がほしかった言葉を今もらうと、嬉しさの隣に悲しさも生まれる。
あの時も言ってほしかった。
そう思う自分がいる。
それでも、今もらえた言葉をなかったことにはしたくない。
嬉しいと悲しいは、同時にあっていい。』
打ち終えると、凛は深く息を吐いた。
今日の痛みが、少しだけ文章になった。
文章になったからといって消えるわけではない。
でも、飲み込まれずに見つめることができる。
凛は青いノートを開き、今日の最後に書いた。
『揺れない自分にならなくていい。
揺れても、戻ってこられればいい。
青いノートへ。
自分の言葉へ。
大事な人たちの声へ。
そして、今ここにいる私へ。』
書き終えた時、胸の奥に少しだけ静けさが戻っていた。
母の一言で、過去は目を覚ました。
でも、過去に連れ去られたままではなかった。
今の凛は、過去の自分の手を引きながら、現在へ戻ってくることができた。
完璧ではない。
また揺れる日もある。
それでも、今日の凛は思った。
揺れても、戻れる。
それだけで、少しだけ生きやすい。
凛はパソコンを閉じ、青いノートを机の上に置いた。
窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。
過去と現在の間で揺れながら、それでも凛は今夜、自分を置き去りにせずに眠ろうとしていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、母からの何気ない一言で、凛の中の過去が揺り起こされるページでした。
母に悪意がなくても、今の言葉が昔の傷に触れることがあります。
凛は「作品ばかり」という言葉に、かつての「普通にしなさい」を重ねてしまいました。
でも今回は、ただ飲み込まれるだけではありませんでした。
青いノートに書き、七海に話し、真白に聞いてもらい、母にも自分の言葉で返すことができました。
揺れない自分になる必要はない。
揺れても、戻ってこられればいい。
凛は少しずつ、自分の戻る場所を増やしています。
次のページでは、この出来事をきっかけに、凛が「母へ作品を読ませる日が来るのか」という新しい怖さと向き合っていきます。




