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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第117ページ  過去の私へ、手紙を書く

第一章の入口に置く言葉を見つけた凛。

「あなたが悪いだけではなかったのかもしれない」

「私もここにいます」


その言葉を書けたことで、凛は作品の中に、もう一つ必要なものがあると気づく。

それは、過去の自分へ宛てた手紙だった。


今回は、大丈夫じゃないのに大丈夫と言い続けた小さな凛へ、今の凛が初めて手紙を書くページです。

責めるためではなく、迎えに行くために。

置き去りにしてきた自分を、もう一度抱きしめるために。

朝、凛は第一章の冒頭をもう一度読み返していた。


『この文章を開いてくれたあなたへ。

もし今、あなたが「自分だけがうまく生きられない」と思っているなら、私は最初に、ひとつだけ言葉を置きたい。

あなたが悪いだけではなかったのかもしれない。』


 その文章を目で追うたび、胸の奥が静かに震えた。


 この言葉は、まだ見ぬ読者へ向けたものだった。


 夜に崩れそうな人。


 大丈夫じゃないのに、大丈夫と言ってしまう人。


 自分の生きづらさを、自分の弱さだと思い込んでいる人。


 その人へ向けて書いた。


 けれど同時に、凛は気づいていた。


 この言葉は、過去の自分へも向けられている。


 小学校の教室で笑い方がわからず、机の端で鉛筆を握っていた自分。


 母のため息を聞くたび、自分が悪いことをしたのだと思っていた自分。


 友達の輪に入れなかった日も、家で「楽しかった」と言った自分。


 熱を出しても、本当はそばにいてほしかったのに「大丈夫」と言った自分。


 その子へ、凛はまだちゃんと手紙を書いていなかった。


 作品の中で過去には触れた。


 幼い頃の孤独にも触れた。


 でも、凛はふと思った。


 私はまだ、あの子へ正面から話しかけていない。


 凛は青いノートを開いた。


 真白からもらった、自分へ戻るためのノート。


 最初のページには、今でも変わらずこう書いてある。


『これは、私が私へ戻るためのノート。』


 凛は新しいページを開き、ペンを持った。


 しばらく何も書けなかった。


 過去の自分へ手紙を書く。


 そう思っただけで、胸が苦しくなる。


 何と言えばいいのかわからない。


 ごめんね。


 寂しかったね。


 よく頑張ったね。


 どの言葉も浮かぶ。


 でも、どれも簡単すぎる気がした。


 小さな凛は、そんな一言で救われるほど短い時間を苦しんだわけではない。


 何年も、何年も、大丈夫なふりをしてきた。


 誰にも気づかれないまま、ひとりで我慢してきた。


 その子へ、軽く言葉を投げることはしたくなかった。


 凛は深く息を吸った。


 そして、ゆっくり書き始めた。


『小さな私へ。』


 たったそれだけで、目の奥が熱くなった。


 手紙の最初の一文。


 小さな私へ。


 その文字を見た瞬間、凛の中で、遠くにいた幼い自分が少し振り返ったような気がした。


 凛は続けて書いた。


『あなたはずっと、大丈夫なふりをしていたね。

本当は大丈夫じゃなかったのに。

寂しかったのに。

怖かったのに。

誰かに気づいてほしかったのに。

それでもあなたは、周りを困らせないように笑っていたね。』


 ペン先が震えた。


 凛は一度手を止め、目を閉じた。


 浮かんできたのは、夕方のリビングだった。


 薄暗い部屋。


 テレビの音。


 母の帰りを待つ小さな自分。


 学校で嫌なことがあった日。


 友達の会話に入れず、休み時間を長く感じた日。


 先生に当てられて答えられず、顔が熱くなった日。


 その全部を母に話したかった。


 でも母が帰ってきて、疲れた顔を見た瞬間、凛は言葉を飲み込んだ。


 大丈夫。


 今日も楽しかった。


 そう言えば、母は少し安心した顔をした。


 凛はその顔が欲しかった。


 母を困らせない自分でいたかった。


 母にとって、手のかからない子でいたかった。


 そのためなら、自分の寂しさくらい隠せると思っていた。


 でも本当は、隠せていなかった。


 心の奥に溜まっていった。


 見えない場所で、ずっと凛を苦しめ続けていた。


 凛はまたノートへ向かった。


『あなたは、いい子になりたかったんだよね。

迷惑をかけない子。

泣かない子。

母を困らせない子。

ちゃんとしている子。

でも本当は、いい子になりたかったんじゃなくて、安心したかっただけなんだよね。』


 その一文を書いた瞬間、涙が落ちた。


 安心したかっただけ。


 本当にそうだった。


 凛はずっと、ちゃんとした子になろうとしていた。


 でもその奥にあった願いは、もっと単純で、もっと幼いものだった。


 安心したい。


 そばにいてほしい。


 大丈夫じゃない自分も見てほしい。


 ただそれだけだった。


 凛は涙を拭いながら、手紙を書き続けた。


『私は長い間、あなたのことを弱い子だと思っていた。

どうしてもっと普通にできなかったの。

どうしてもっと明るく笑えなかったの。

どうして母に甘えられなかったの。

どうして助けてと言えなかったの。

そんなふうに、私はあなたを責めてきた。

でも違ったね。

あなたは弱かったんじゃない。

小さな身体で、できる限りの方法で、自分を守っていたんだね。』


 書いているうちに、凛の胸の奥にいた小さな自分が、少しずつ近づいてくる気がした。


 まだ泣いている。


 まだ怯えている。


 でも、逃げてはいない。


 凛はその子へ、もっと近づきたかった。


 今度こそ、置いていきたくなかった。


 その時、スマートフォンが震えた。


 真白からだった。


『今日は書けてる?』


 凛は少し迷ってから、正直に返した。


『過去の自分へ手紙を書いてます』


『もう泣いてます』


 既読。


 少し間があって、返事が来る。


『それは泣くね』


『でも、すごく大事なところを書いてる気がする』


 凛はスマートフォンを見つめたまま、また涙が出そうになった。


 真白は、泣くことを止めない。


 泣かないで、とは言わない。


 その代わり、泣くほど大事なところに触れているのだと、そっと言ってくれる。


 凛は返信した。


『小さい私に、何て言えばいいかわからないです』


 真白からすぐ返ってきた。


『うまい言葉じゃなくていいと思う』


『今の凛ちゃんが、本当に言いたいことを言えばいい』


 本当に言いたいこと。


 凛はその言葉を胸の中で繰り返した。


 今の自分が、小さな自分へ本当に言いたいこと。


 それは何だろう。


 頑張ったね。


 寂しかったね。


 大丈夫じゃなかったね。


 いろいろある。


 でも、その奥にもっと深い言葉があった。


 凛はペンを握り直した。


『もう、ひとりにしないよ。』


 書いた瞬間、涙が止まらなくなった。


 それが、一番言いたかったことだった。


 もう、ひとりにしない。


 小さな凛を。


 大丈夫なふりをしていた自分を。


 普通になれないと泣いていた自分を。


 これからは、苦しくなった時、また見ないふりをするのではなく、青いノートへ戻る。


 真白へ話す。


 七海へ言う。


 灯へ送る。


 作品へ書く。


 自分を置き去りにしない。


 凛は泣きながら、手紙を書き続けた。


『あなたは、ずっと待っていたんだよね。

誰かが気づいてくれることを。

大丈夫じゃないよね、と聞いてくれることを。

泣いていいよ、と言ってくれることを。

でも、誰も来なかった。

だからあなたは、だんだん自分でも気づかないふりをするようになった。

ごめんね。

私も、あなたを置いてきてしまった。

苦しいあなたを見たら、私まで壊れてしまいそうで、ずっと見ないふりをしてきた。

でも、もうひとりにしない。

今度は私が、あなたを迎えに行く。』


 そこまで書いたところで、凛はペンを置いた。


 涙で視界が滲んでいた。


 胸が痛い。


 でも、その痛みの中に、少しだけ温かさがある。


 小さな自分へ、ようやく言えた。


 もうひとりにしない。


 凛はノートを胸に抱えた。


 しばらくそのまま、静かな部屋で泣いた。


 泣き終えたあと、凛はパソコンを開いた。


 今書いた手紙を、そのまま作品に入れるかどうかはまだわからない。


 でも、少なくとも一部は入れたいと思った。


 この手紙は、凛にとって大事な章になる。


 過去の自分へ宛てた手紙。


 そして、同じように大丈夫なふりをしてきた誰かへも届くかもしれない手紙。


 凛は作品ファイルを開き、新しい章の候補として打ち込んだ。


『小さな私へ』


 その見出しを見た瞬間、胸がまた熱くなった。


 凛はノートの文章を少しずつ写し始めた。


 ただ写すだけではなく、作品として読めるように少し整える。


 けれど、整えすぎない。


 泣きながら書いた温度を消したくなかった。


 文章は少し不格好でもいい。


 その不格好さの中に、本当の凛がいる気がした。


 凛はパソコンへ打った。


『小さな私へ。

あなたはずっと、大丈夫なふりをしていたね。

本当は大丈夫じゃなかったのに、寂しかったのに、怖かったのに、それでも周りを困らせないように笑っていたね。』


 打ちながら、また涙が滲む。


 でも、さっきより少し落ち着いていた。


 ノートへ書いたことで、一度感情を受け止められたからかもしれない。


 凛は続けた。


『私は長い間、あなたを弱い子だと思っていた。

でも違った。

あなたは弱かったんじゃない。

小さな身体で、できる限りの方法で、自分を守っていた。

大丈夫と言うことが、あなたにとって生き延びる方法だった。

笑うことが、家の空気を壊さないための方法だった。

我慢することが、嫌われないための方法だった。』


 凛は一度手を止めた。


 昔の自分を“弱い”ではなく、“生き延びようとしていた”と書けた。


 そのことが、少しだけ自分を救った。


 大学へ行く時間が近づいていた。


 凛は作品ファイルを保存した。


 まだ途中。


 手紙は完成していない。


 でも、今日は大事な一歩を書けた。


 小さな自分へ手を伸ばせた。


 それだけで、胸の奥に少しだけ温度が残っていた。


 大学へ向かう電車の中で、凛は灯へメッセージを送った。


『今日、過去の自分への手紙を書いてる』


 灯からすぐ返事が来た。


『絶対泣くやつ』


 凛は少し笑った。


『もう泣いた』


『だよね』


 少し間が空いて、灯が続けた。


『でもそれ、読んだ人も自分の小さい頃思い出すと思う』


 凛は画面を見つめた。


 自分の小さい頃。


 誰にでも、小さな自分がいるのかもしれない。


 大丈夫なふりをしていた子。


 怒られないように息を潜めていた子。


 いい子でいようと頑張った子。


 泣きたいのに泣けなかった子。


 その子へ、今の自分が手紙を書くこと。


 それは凛だけのものではないのかもしれない。


 大学に着くと、七海がすぐに凛の顔を見た。


「泣いたね」


「もう隠せないね」


「泣いた人の顔、だいぶわかるようになった」


 七海はそう言って、凛の隣を歩いた。


「何書いたの?」


「小さい頃の自分への手紙」


 七海は少し黙った。


「それは泣くわ」


「みんな同じこと言う」


「だって泣くじゃん」


 凛は少し笑った。


 七海は真面目な顔で言った。


「でもさ、凛ちゃん、それ書けるようになったのすごいと思う」


「すごい?」


「うん。昔の自分に会いに行くって、結構しんどいよ」


 凛は頷いた。


「しんどかった」


「でも、会いに行ったんでしょ」


「うん」


「じゃあ偉い」


 七海の言葉はいつも単純で、でも温かい。


 凛はその単純さに救われることが増えていた。


 講義中、凛はノートの端に書いた。


『過去の自分へ手紙を書くことは、過去をやり直すことではない。

でも、あの時ひとりだった自分の隣に、今の私が座りに行くことはできる。』


 その一文も、作品に入れたいと思った。


 昼休み、凛は図書館へ行った。


 静かな席に座り、パソコンを開く。


 朝の続きを書く。


『過去は変えられない。

あの時、誰も来なかった事実も変えられない。

でも今の私は、あの時の私のところへ行くことができる。

大丈夫じゃなかったよね、と言うことができる。

もうひとりにしないよ、と約束することができる。』


 打ちながら、凛はまた少し泣きそうになった。


 でも図書館なので、深呼吸してこらえた。


 画面の中の手紙は、少しずつ形になっていく。


 手紙を書いていると、不思議なことに、今の凛自身も少し守られている気がした。


 小さな自分へ言った言葉は、今の自分にも返ってくる。


 もうひとりにしない。


 それは、これからの凛への約束でもあった。


 夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 店に入ると、真白はカウンターでコーヒー豆を量っていた。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


 真白は凛の顔を見るなり、少しだけ眉を下げた。


「今日、かなり泣いたね」


「もう三人目です、それ言うの」


「三人?」


「真白さん、灯ちゃん、七海ちゃん」


「みんな正しい」


 凛は少し笑った。


 いつもの席へ座ると、真白は何も聞かずに温かいココアを出してくれた。


 その甘い香りに、凛は少しだけ肩の力が抜ける。


「手紙、少し書けました」


 凛が言うと、真白は静かに頷いた。


「見せたい?」


 その聞き方がありがたかった。


 見せて、ではなく。


 見せたい? と聞いてくれる。


 凛は少し迷った。


 手紙はまだ途中で、とても個人的なものだった。


 でも、真白には一部だけ見せたいと思った。


「少しだけ」


 凛は青いノートを開き、朝書いた部分を見せた。


 真白はゆっくり読んだ。


『もう、ひとりにしないよ。』


 その一文のところで、真白の視線が止まった。


 しばらく沈黙が流れた。


 凛は緊張して、ココアのカップを両手で握る。


 やがて真白は、静かに言った。


「これ、すごく強い言葉だね」


 凛は少し驚いた。


「強い、ですか」


「うん」


「優しいけど、強い」


 真白はノートから顔を上げた。


「誰かに言われるのを待ってた言葉を、今の凛ちゃんが自分に言ってる」


 その言葉に、凛の胸が熱くなる。


「それって、すごく大きいことだと思う」


 凛は目を伏せた。


「書きながら、すごく泣きました」


「うん」


「でも、書いてよかった気がします」


「うん」


 真白は静かに頷いた。


「手紙って、届く相手が過去の自分でも、今の自分にも届くんだと思う」


 凛はその言葉を胸の中で繰り返した。


 過去の自分へ書いた手紙が、今の自分にも届く。


 確かにそうだった。


 小さな凛へ「もうひとりにしない」と書いた瞬間、今の凛も少しだけひとりではなくなった。


 夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。


 手紙の続きを書く。


 今日は疲れている。


 でも、少しだけ書きたかった。


『小さな私へ。

私はあなたを、ずっと置き去りにしてきた。

あなたを見ると、私まで苦しくなるから。

あなたの寂しさを認めたら、今の私が壊れてしまいそうだったから。

でも、もう逃げない。

あなたが泣いていたことを、私は知っている。

あなたが大丈夫じゃなかったことを、私はもう知っている。

だから、今度は私がそばにいる。』


 凛は深く息を吐いた。


 続けて、最後の部分を書いた。


『あなたは、普通になれなかった失敗作なんかじゃない。

寂しさの中で、それでも今日まで生きてきた子だ。

誰にも気づかれなくても、ちゃんとここまで来た子だ。

私はあなたを、もう責めない。

もう置いていかない。

一緒に行こう。

大丈夫じゃなかった私たちのまま、これからを少しずつ生きていこう。』


 打ち終えた瞬間、凛は泣いていた。


 でも、朝の涙とは少し違った。


 悲しさだけではない。


 小さな自分と、少しだけ手を繋げたような涙だった。


 凛は青いノートを開き、今日の最後に書いた。


『過去の私へ手紙を書いた。

過去は変えられない。

でも、あの時ひとりだった私の隣に、今の私が座ることはできる。

もうひとりにしない。

この言葉を、これからの私にも渡したい。』


 書き終えると、凛はペンを置いた。


 部屋は静かだった。


 窓の外では、冬の夜が深くなっている。


 凛はパソコンの画面を見る。


 作品の中に、新しい章ができた。


 『小さな私へ』


 それは、凛自身への手紙であり、同じように大丈夫なふりをしてきた誰かへの手紙でもあった。


 凛は静かに目を閉じた。


 今日、また一人、置き去りにしていた自分を迎えに行けた。


 作品を書くことは、やはり苦しい。


 でも、その苦しさの先に、少しだけ温かい場所がある。


 凛はその温かさを胸に抱いたまま、ゆっくりとパソコンを閉じた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が過去の自分へ宛てた手紙を書くページでした。


大丈夫じゃなかったのに、大丈夫と言い続けた小さな凛。

母を困らせないように、寂しさを飲み込んでいた凛。

弱いのではなく、小さな身体で必死に自分を守っていた凛。


今の凛は、そんな過去の自分へ初めて正面から言葉を届けます。


「もう、ひとりにしないよ」


その一言は、過去の自分だけでなく、今の凛自身にも届く言葉でした。


作品を書くことは、過去を変えることではありません。

でも、過去に置き去りにしてきた自分の隣へ、今の自分が座りに行くことはできる。

凛は今回、そのことを少しだけ知りました。


次のページでは、この手紙を書いたことで心が大きく揺れた凛が、母からの何気ない連絡に反応してしまい、再び過去と現在の間で揺れていきます。

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