第9話 光をくれる人
お腹の子を守るため、そしてあの愚か者たちを確実に破滅させるため、私はダグラス伯爵邸の自室で「身重で体調の優れない哀れな若夫人」を演じ続けていた。
ウィリアムが部屋へやってくるたびに、私は寝台の中から弱々しい声を出し、極力彼を近づけないようにした。ウィリアムは私の嘘を疑いもせず、「無理をしないでくれ」と優しい言葉をかけては、そそくさとコリンヌの待つ隠れ家へと出かけていく。その背中を見送るたび、私の心は恐ろしいほど冷え切っていった。
けれど、そんな暗闇のような潜伏生活の中で、私の凍えた心に唯一、温かな光を灯してくれる人がいた。
「マーガレット、入るぞ。今日の分の果物と、シシリー伯爵家から預かった手紙を持って来た」
低く落ち着いた声とともに部屋に入ってきたのは、ウィリアムの弟であり、私の同級生でもあるセバスチャンだった。
騎士団の任務を終えたばかりなのだろう。制服のまま、少し息を弾ませてやってきた彼は、かつての少年らしさを脱ぎ捨て、今や一人の洗練された、しかし精悍な大人の男の体躯をしていた。
「セバスチャン。いつもごめんなさいね、こんなことまでさせてしまって」
「気にするな。兄上が己の義務を放棄して外をうろついているんだ、家族の誰かがお前を支えるのは当然だろう。……それに、俺がやりたくてやっていることだ」
セバスチャンはぶっきらぼうに言いながら、みずみずしい葡萄の皿を枕元の机に置いた。
彼は現在、私のために実家との連絡役を買って出てくれている。義両親であるダグラス伯爵夫妻がウィリアムを警戒して私への接触を控えている中、セバスチャンだけが、騎士団の公務や「義姉の体調を労わるため」という名目で、堂々と私の部屋を訪れることができたのだ。
セバスチャンは私の枕元に椅子を引き、腰を下ろした。
彼の澄んだ夜空のような瞳が、じっと私を見つめる。そこには、ウィリアムが私に向けるような、自己満足や罪悪感の混じった視線などは微塵もなかった。ただただ純粋に、私の体を、そして心を労わるような深い慈愛が満ちていた。
「体調はどうだ。お腹の赤ん坊は……苦しくないか?」
「ええ、大丈夫よ。この子はとても良い子で、お母様を助けようとしてくれているみたい。ほら、今も小さく動いたわ」
私が微笑みながらお腹に手を当てると、セバスチャンは視線を落とし、大きな手を躊躇いがちに伸ばした。
「……触れてもいいか?」
「ええ、もちろん」
セバスチャンの硬く逞しい手のひらが、そっと、本当に壊れ物を扱うかのような慎重さで、私の膨らんだお腹に添えられた。剣を握る彼の無骨な指先が、愛おしそうに震えているのが伝わってくる。
「……温かいな。お前が命がけで育てている、大切な宝物だ」
「セバスチャン……」
「マーガレット。俺は、兄上を絶対に許さない。お前を二度も裏切り、あろうことかこの小さな命まで蔑ろにした。あの男は、もうダグラスの人間でもなければ、父親になる資格もない」
セバスチャンは私の目を見つめ、静かに、しかし地響きのような強い意志を込めて告げた。
「お前がこれからやろうとしていること、そのすべてに俺の命を懸ける。お前が兄上を地獄へ叩き落としたいなら、俺がその手足となろう。シシリー家とも完全に連携は取れている。お前は何も心配せず、ただ、無事に子供を産むことだけを考えてくれ」
「ありがとう……。本当に、あなたには救われてばかりね」
張り詰めていた緊張が解け、私の目から、ぽろりと一筋の涙が零れ落ちた。
ウィリアムの前では決して見せなかった、私の本物の弱さ。
すると、セバスチャンはハッとしたように顔を歪めると、私の頬を包み込み、親指でそっと涙を 拭った。彼の肌から伝わる熱が、私の凍りついた心をじんわりと溶かしていく。
「泣くな、マーガレット。お前を泣かせるために、俺はここにいるんじゃない」
セバスチャンの声が、酷く切なく、そして甘く響いた。
彼は私の手を握り締めると、己の額を、私の手の甲に押し当てた。それは、一人の忠実な騎士が主君に捧げる誓いのようであり、それ以上に、一人の男が、長年愛し続けた女性に捧げる、魂の告白のようだった。
「俺の長年の想いが、お前にとって重荷になることは分かっている。お前の初恋が兄上だったことも、俺がただの弟でしかないことも……。だけど、頼むから、一人で抱え込まないでくれ。俺が必ず、あなたと、そのお腹の子を守る。何があっても、お前たちを一生、俺が幸せにしてみせるから」
握られた手から、彼の心臓の音が聞こえるのではないかと思うほど、熱い情熱が流れ込んでくる。
ああ。
その瞬間、私の中で、何かが決定的に変わり始めていた。
かつて十二歳の夜、ウィリアムに捧げた初恋は完全に死んだ。しかし今、私の心の中に、セバスチャンという本物の「光」が、温かく、確かな質量を持って満ちていく。
私を「強いから大丈夫」と切り捨てた兄。
私を「俺が守る」と泥泥になりながら抱きしめてくれる弟。
「セバスチャン……。私、あなたを信じてもいいのね?」
私の問いかけに、セバスチャンは顔を上げ、この上なく愛おしそうな、極上の笑みを浮かべた。
「ああ。俺のすべてを懸けて、お前を裏切らないと誓う」
ウィリアムへの冷徹な怒りはそのままに、私の心は今、確実に、私を本当に大切にしてくれるセバスチャンへと傾き始めていた。暗闇の檻の中で、私たちは静かに、しかし固く、未来への約束を交わしたのだ。
※補足:マーガレットと義弟セバスチャンは共にウィリアムの3歳年下であり、学園の同学年という設定です。




