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第3話 男爵令嬢の罠と、一度目の婚約破棄

 あのみずみずしく、甘い初恋の口付けから、わずか一年後のことだった。


 ウィリアムが十六歳になって王立学園へと進学し、十三歳の私は、彼にふさわしい完璧な公爵夫人となるべく、自宅のシシリー伯爵邸で厳しい花嫁修業に励んでいた。


 三歳の年齢差。それは、彼が私の知らない「大人の世界」へ一歩先に行ってしまうことを意味していた。



 学園での様子を楽しそうに語るウィリアムの手紙を、私はいつも愛おしく読み返していた。けれど、春が過ぎ、夏が訪れる頃には、その手紙の頻度が目に見えて減っていった。


『マーガレット、すまない。最近は学園の課題が忙しくて、なかなか邸を訪問できそうにないんだ』


 インクの滲む短い手紙。真面目な彼のことだから、きっと本当に大変なのだろう。そう信じて、寂しさを堪えて帰りを待っていた私のもとに、ある日、最悪の噂が舞い込んできた。


 情報源は、私の実家の隠密や、社交界の風聞だった。



――ダグラス伯爵家の次期当主が、春に編入してきたばかりの男爵令嬢に付きまとわれている。

――いや、付きまとわれているのではない。ウィリアム様のほうが、あの儚げな少女にすっかり夢中らしい。



 コリンヌ・メーン男爵令嬢。


 ゆるく波打つ亜麻色の髪に、潤んだ大きな瞳。いかにも男の庇護欲をそそるような、脆くて可憐な少女。平民上がりの男爵家で学園に馴染めないと泣く彼女に、根が優しく女性に免疫のないウィリアムは、少しずつ、確実に搦め捕られていったのだ。



 私はたまらず、週末に我が家を訪れた大好きな婚約者に詰め寄った。


「ウィリアム様……あの、学園で、メーン男爵令嬢という方といつも一緒にいらっしゃると聞きましたわ。その……あまり他の方と仲良くされていると、私、寂しいです。どうか、その方とは距離を置いてくださいませんか……?」


 俯きながら、精一杯の勇気を振り絞って伝えた。嫉妬してしまう自分が恥ずかしくて、でも、彼の心が遠くに行ってしまうのが怖くてたまらなかった。13歳の私にできたのは、そんな子供じみた、必死の御願いだけだった。



 けれど、私の言葉を聞いたウィリアムは、ひどく気まずそうな、そしてどこか煙たそうな目を向けた。


「マーガレット、君はまだ子供だし、屋敷から出ないから分からないんだよ。彼女は学園で孤立して、今にも壊れてしまいそうなほど苦しんでいる。君のように何でも完璧にできて、実家の後ろ盾もしっかりしている強い人には、彼女の脆さは分からないよ」


 ――君のように、強い人には。


 その言葉が、鋭いトゲとなって胸に突き刺さる。



 私は、生まれつき強いわけではない。彼に愛されたくて、ダグラス家に恥じない妻になりたくて、毎日血の滲むような努力をして家庭教師の厳しいレッスンに耐えているだけなのに。彼はその健気な努力を「生まれつきの強さ」だと勘違いし、私の寂しさや痛みに目を向けなくなった。



 そして、私が十四歳、ウィリアムが十七歳になった秋。

 その約束の日、私は胸を騒がせながら、週末のダグラス伯爵邸のサンルームで彼を待っていた。


「どうしても二人きりで話したい」という、ウィリアムからの切迫した手紙を受け取っていたからだ。嫌な予感で指先が冷たく震えるのを必死に抑え、私はただ彼を信じようとしていた。



 やがて現れたウィリアムの顔は、ひどく青白かった。しかし、その琥珀色の瞳には、私への罪悪感とともに、奇妙な使命感のようなものがギラギラと宿っている。


「……マーガレット。わざわざ来てもらってすまない」


「ウィリアム様、お顔色が優れませんわ。何かありましたの?」


 心配して駆け寄ろうとした私を、彼は冷たい手つきで制した。そして、顔を歪めながらも、決意を秘めた声で言った。


「私との婚約を、破棄してほしい」


「……え?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 声を震わせまいと、私は奥歯を噛み締めた。家でただ彼を信じて花嫁修業をしながら、帰りを待っていた日々が、音を立てて崩れていく。



「理由を、お伺いしても……?」


「コリンヌが……メーン男爵令嬢が、私の子供を身籠ったんだ」


 頭を重い衝撃で殴られたようだった。

 耳の奥で、キィンと不快な音が鳴り響く。真面目だと信じていた私の婚約者が、私の知らない学園という場所で、他の女と肌を重ね、種を仕込んだ。



「嘘……でしょう? ウィリアム様、私をからかっているのね?」


「嘘じゃない! コリンヌは今、私の支えを必要としているんだ。このままでは彼女は未婚の母として社交界から抹殺されてしまう。私は、一人の男として、彼女とお腹の子に責任を取らなければならないんだ!」


 責任。素晴らしい言葉だ。では、十歳からあなたを信じ、十二歳の誕生日に初めての口付けを交わし、未来を誓い合って家で待っていた私への責任は、一体どこへ行ってしまったのだろう。



 じわりと涙が、私の視界を滲ませていく。


「お願いよ、ウィリアム様。考え直して。私たちの今までの日々は何だったの……っ?」


「すまない、本当にすまない、マーガレット! だけど、君なら……」


 ウィリアムは、私の両肩を掴んだ。その手の震えは、私への恐怖か、それとも己の罪への怯えか。彼は冷酷に、私を絶望の谷へと突き落とす言葉を放った。


「君は強い子だから、一人でも生きていけるだろう?」


 胸の奥が、バキバキと音を立てて壊れていくのが分かった。


「君はシシリー伯爵家の愛娘で、優秀で、私がいなくても他にいくらでも良い縁談がある! だけどコリンヌは違う! 私が捨てたら、彼女は身一つで路頭に迷って本当に死んでしまうんだ! 頼む、マーガレット、分かってくれ!」



 涙が頬を伝い落ちる。

 悔しくて、悲しくて、惨めで、息ができなかった。


 「私が強いから? 一人でも大丈夫だから?」


 そんなの、ただのあなたの言い訳だ。都合よく私を『強い』ということにして、自分の裏切りを正当化したいだけ。


 ――まだ、十四歳の婚約者にかける言葉ではないはずだ。


(私の初恋は、これで本当に終わったのね。……さようなら、ウィリアム様)



「……分かり、ました」


 私はウィリアムの手を振り払った。



 十四歳の私の心は、この日、初恋の男によって修復不可能なほどに傷つけられた。激しい嗚咽を堪えながら、私は背を向け、一歩一歩、泥を這うような足取りで邸を後にした。


 背後でウィリアムがホッとしたような溜息をついたのを、私は生涯、忘れないと誓った。



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