第2話「大人になったね」――満月の夜、大好きな貴方と交わした初めてのキス
「マーガレット、おいで。君に『婚約者』を紹介しよう」
父に連れられてダグラス伯爵邸の美しい薔薇園へ向かったあの日、私はまだ十歳だった。
政略結婚。貴族の家に生まれた身として、その意味は幼心にも理解していた。顔も知らない厳格な殿方のもとへ嫁ぎ、義務として家を支えるのだろう――そんな、どこか冷めた諦めを抱いていた私の前に現れたのが、当時十三歳だったウィリアム・ダグラスだった。
「初めまして、マーガレット・シシリー伯爵令嬢。ウィリアムです。これから、どうぞよろしく」
仕立ての良い上着をまとい、丁寧に頭を下げた少年は、まるで物語の絵本から抜け出してきた王子様のようだった。
光を浴びてきらめく柔らかな髪に、穏やかな琥珀色の瞳。まだ少年のみずみずしさを残しながらも、その立ち振る舞いは驚くほど優雅で、真面目そのものだった。
緊張でガチガチになっていた私の小さな手を、ウィリアムはそっと包み込んでくれた。その手はとても温かく、心地よい革手袋の匂いがした。
「まだ十歳なのに、しっかり挨拶ができて偉いね。……これからは僕が君を守るよ。二人で素敵な夫婦になろう」
はにかむように微笑んだウィリアムの顔があまりにも綺麗で、私の胸はトクン、と小さく跳ねた。
三歳という年齢差は、子供の頃の私たちにとって小さくはなかった。学問も剣技も優秀なウィリアムは、いつだって私の遥か先を歩く憧れの存在。それでも彼は、決して私を子供扱いして突き放すようなことはしなかった。
私が新しいドレスを着ていけば、誰よりも早く気づいて「とてもよく似合っているよ、僕のお姫様」と褒めてくれた。
私が身内の夜会で緊張してステップを踏み外しそうになった時は、さりげなくリードして私を庇ってくれた。
熱を出して寝込んだと聞けば、お見舞いにと、私の大好きなハチミツ漬けのレモンを持って、わざわざ馬車を飛ばして会いに来てくれたのだ。
優しくて、優秀で、私だけの特別な婚約者。
義務でしかなかったはずの「政略結婚」は、いつしか私にとって、世界で一番甘くて幸福な約束へと変わっていった。私はウィリアムが大好きだったし、彼もまた、私を大切に想ってくれていると信じて疑わなかった。
――そんな淡い恋心が、確固たる「愛」へと変わったのは、私の十二歳の誕生日のことだった。
シシリー伯爵邸の屋敷で催された、ささやかな誕生祝いの晩餐会。
主役としての挨拶を終え、少し疲れてしまった私は、夜風に当たろうと静かなバルコニーへ足を向けた。満月の光が、庭園の白薔薇を淡く照らしている。
「ここにいたんだね、マーガレット」
振り返ると、そこには十五歳になったウィリアムが立っていた。
背がぐっと伸び、肩幅も広くなった彼は、もうすっかり「大人の男のひと」の背中をしていた。その姿を見つめるだけで、胸がぎゅっと切なくなる。
「ウィリアム。退屈させてしまいましたか?」
「まさか。今日の君があまりにも綺麗だから、他の男の視線から隠してしまいたくて、連れ出しに来たんだ」
冗談めかして笑いながら、ウィリアムは懐から小さなベルベットの箱を取り出した。
開かれた箱の中には、私の瞳と同じ色をした、澄んだ大粒のアクアマリンのペンダントが、月光を浴びてきらきらと輝いていた。
「十二歳の誕生日おめでとう、マーガレット。少し気が早いかもしれないけれど……いつか君が、僕の本当の妻になってくれる日を願って」
ウィリアムはそっと私の背後に回り、ペンダントを私の首に手際よくかけてくれた。彼の指先が、私のうなじに触れる。その一瞬の熱に、全身がカッと熱くなった。
正面に回り込んだウィリアムを見上げると、彼の琥珀色の瞳が、熱を帯びたように潤んで私を見つめていた。いつもの「お兄様」のような優しい目じゃない。一人の男としての視線に、息が止まりそうになる。
「マーガレット……」
名前を呼ぶ声が、いつもより低くて、甘い。
ウィリアムの大きな手が、私の頬を包み込んだ。吸い寄せられるように、彼の端正な顔が近づいてくる。驚きに目を見開く私の視界が、彼の長い睫毛でいっぱいになった。
――ちゅ、と。
触れるだけの、ひどく熱くて、ひどく優しい、初めての口付け。
驚きのあまり、私の小さな指先がウィリアムの上着の裾をきゅっと掴んだ。ほんの数秒のことだったはずなのに、まるで永遠のようにも感じられた。
ゆっくりと唇が離れる。ウィリアムの耳の裏が、真っ赤に染まっていた。彼は照れくさそうに、けれど慈しむような極上の笑顔を浮かべて、私の額に自分の額をこつんと当てた。
「……大人になったね、マーガレット」
囁かれたその声の甘さに、私の心臓はうるさいほどに脈打っていた。
生まれて初めての、切なくて息ができなくなるようなキス。トパーズのような彼の瞳に映る私は、真っ赤な顔をして、それでも幸せそうに蕩けた表情をしていた。
(ああ、私はこの人の妻になるんだ。この人以外、あり得ない。私たちは、神様に祝福された運命の二人なんだわ――)
夜空に浮かぶ満月に、私はそう誓った。この胸のときめきは、本物だと確信していた。
この幸せが、永遠に続くのだと信じて疑わなかった。
――あんな、残酷な裏切りが待っているとも知らずに。




