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第1話 二度目の言葉は、冷ややかに響く

 ふわりと、甘ったるい安物の香水の匂いが鼻腔をかすめた。


 洗練されたダグラス伯爵邸の調度品にはおよそ不釣り合いな、夜の街を連想させるひどく俗っぽい香り。それが、外から帰ってきたばかりの夫の外套から漂っていることに気づいた瞬間、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。



「……マーガレット。少し、話があるんだ」


 夫であるウィリアム・ダグラスは、ひどく神妙な顔で私の前に佇んでいた。



 整った容姿に、生真面目そうで優しげな面差し。かつて私が心の底から愛し、私の初めてを捧げた、二十八歳になる私の夫。


 私はそっと、自分の膨らんだお腹に手を当てた。



 私たちの結婚生活は六年目を迎え、ようやく授かった新しい命。現在、妊娠六ヶ月。まだ見ぬ我が子は、私の胎内でトントンと小さく健気に動いている。この小さな命を育む幸福の絶頂に、私はいたはずだった。



「ええ、何かしら、ウィリアム。そんなに改まった顔をして」


 私は努めて穏やかに微笑んだ。しかし、ウィリアムは私の膨らんだお腹から気まずそうに視線を外すと、意を決したように唇を開いた。



「街で……コリンヌと再会したんだ」


 コリンヌ。その名前を聞いた瞬間、私の全身の血がすっと引いていくのが分かった。忘れるはずもない。かつて十一年前、私たちの最初の婚約を無惨に引き裂いた、あの男爵令嬢の名前だ。



「彼女は……ひどく疲れ果て、不幸な生活を送っていた。男に騙され、理不尽に虐げられ、今日生きるのすら困窮している有様だったよ。やつれた彼女を見て、私は胸が締め付けられるようだった」


「……それで?」


「彼女は、泣いて私に縋ったんだ。十一年前のことは、無理やり別の男に関係を迫られて妊娠してしまっただけなのだと。本当に愛していたのは、私だけだったのだと……!」


 ウィリアムの声に熱が帯びていく。



 目の前が激しく明滅する感覚に襲われた。何を言っているのだろう、この人は。あんなに私に土下座して謝罪し、心を入れ替えて真面目に、優しく私を愛してくれていたはずの夫が、今、何を口にしているのだろう。



「彼女には、私がついていてあげなければならないんだ。今度こそ、私が彼女を守らなければ……」


「ウィリアム、待って。あなたは、何を言っているの? あなたの妻は私よ。そして、あなたの子がここにいるのよ?」


 震える声で告げた私に、ウィリアムはひどく歪んだ、それでいてどこか哀れみを誘うような目を向けた。それは、加害者のくせに、まるで自分が世界の悲劇の主人公であるかのような、あまりにも身勝手な目だった。



「分かっている。君には本当に申し訳ないと思っているんだ。……だけど」


 ウィリアムは躊躇いがちに、しかし明確に、私の心を木端微塵に砕く言葉を告げた。


「君は強いから、一人でも生きていけるだろう?」



 ――ああ。


 頭の奥が、冷徹なほどに冷えていく。



 デジャヴだった。十一年前、十七歳だった彼が私に婚約破棄を告げたあの時と、寸分違わぬ言葉。



「君は伯爵令嬢として優秀で、何でも完璧にこなせる。私の両親からも深く愛されているし、実家の援助もある。……だけどコリンヌは違うんだ。彼女は脆くて、儚くて、私が支えてあげなければ本当に壊れてしまう。頼む、マーガレット。理解してくれ」


 私の脳裏に、十一年前の悪夢が鮮烈によみがえる。



 十三歳の彼と、十歳の私。政略結婚として始まった関係だったけれど、彼はいつも私に優しかった。私の十二歳の誕生日、「大人になったね」と、はにかみながら贈ってくれた初めての口付け。あのみずみずしくて甘い、大切な初恋の思い出。



 それを、彼は十六歳の時に編入してきたコリンヌによって、一度目の裏切りで粉々に踏みにじった。


 コリンヌが妊娠したからと私を捨て、托卵だと分かって破滅し、私の足元に土下座し、「もう二度と裏切らない、君だけを愛する」と泣き縋ったから、私は彼を信じて、もう一度手を取ったのに。



 結婚して六年。

 あの日々は、このお腹の赤ちゃんは、一体何だったのだろう。

 


「君なら、一人でも大丈夫だから」


 二度目の言葉は、あまりにも冷ややかに、私の心に響いた。


 お腹の赤ちゃんが、きゅっと縮こまったような気がした。守らなければならない。この男は、父親になる資格などない。私の初恋は、私の信じた優しさは、完全に死んだのだ。



 激しい怒りと、それ以上に深い、胸を掻きむしられるような切なさが涙となって溢れそうになる。それを、私は強靭な意志の力で抑え込んだ。


「……分かりましたわ、ウィリアム」


 私は、感情の一切を削ぎ落とした声で、静かに、けれど酷く冷ややかに微笑んだ。


「ええ、仰る通り。私は強いので、貴方はいりません」


 絶望の底で、マーガレットの反撃の炎が、静かに燃え上がった。




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