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第13話 去りゆく男の後悔、残される優しさ

  ガタゴトと、硬い車輪が石畳を叩く音が、酷く虚しく耳の奥に響いていた。

 王都のきらびやかな街並みが、荷馬車の小さな格子窓の向こうへ、容赦なく遠ざかっていく。


 ウィリアムは、あてがわれた粗末な衣服のまま、揺れる荷台の片隅で膝を抱えていた。

 かつて彼が乗っていた、美しく装飾された伯爵家の馬車ではない。スプリングも効かない、領地へ物資を運ぶための無骨な荷馬車の片隅が、今の彼の指定席だった。


(どうして……どうして、こんなことになってしまったんだ……)


 頭をよぎるのは、己のあまりの愚かさへの絶望と、激しい後悔だけだった。



 王都から離れ、人気のない一本道へと馬車が進むにつれ、ウィリアムの脳裏に、ある古い記憶が鮮明に蘇ってきた。


 それは、十三年も前のこと。

 まだ十三歳だったウィリアムと、十歳だったマーガレットの記憶だ。

 美しい花々が咲き乱れるシシリー伯爵邸の庭園で、二人はかくれんぼをしていた。


 生い茂る薔薇の生垣の裏で見つけた小さな少女は、見つかったことがよほど悔しかったのか、それとも恥ずかしかったのか、ふっくらとした頬を真っ赤にして彼を見上げていた。


『ウィリアム様、みつけるのが早すぎますわ……!』


 拗ねたように唇を尖らせるマーガレットが、たまらなく愛おしくて。

 幼いウィリアムは、弾んだ胸の鼓動に突き動かされるように、彼女の額へとそっと口付けを落としたのだ。


『大好きだよ、マーガレット。私が大人になったら、必ず君を幸せにする。ずっと、私の隣にいておくれ』


 あの時の、夕暮れの光に照らされたマーガレットの、驚いたような、けれどこの世の何よりも嬉しそうに輝いた琥珀色の瞳。


政略とは言え 唯一だと信じ合っていた幼い二人が、確かに未来を誓い合った、甘酸っぱくて、汚れのない、本物の愛の記憶。


 ―ああ、そうだ。私は確かに、彼女を愛していた。


 自分を信じて花嫁修業に励んでくれた、世界で一番美しく、聡明な私の婚約者。


「なのに……私は、私は何をしていたんだ……っ!」


 ウィリアムの目から、大粒の涙がボトボトと溢れ出し、粗末なズボンの膝を濡らしていった。



 一度目ならず、二度までも。


 自分を無条件に信じて待ってくれていた、あの世界で一番の宝物を、自分は自らの手でドブに投げ捨てたのだ。



 コリンヌの流した、嘘まみれの汚れた涙と、安っぽい刺激に目を眩まされて。自分が『強い』ということにして裏切りを正当化した、あの十四歳のマーガレットの血の涙から、自分は何も学んでいなかった。


 二度目のチャンスを与えられ、結婚してからの六年間、マーガレットがどれほど献身的に自分を支えてくれたか。自分の子を身籠り、どれほどの不安と戦いながらあの邸で待っていたか。


 すべてを、自分が踏みにじった。


「マーガレット……っ! マーガレット、すまない……っ、すまない! 私が馬鹿だった、私がすべてを台無しにしたんだ……!」


 馬車の狭い床に額を擦り付け、ウィリアムは子供のように声を上げて号泣した。


 しかし、いくら泣き叫ぼうとも、馬車が王都へ引き返すことは二度とない。彼に待っているのは、年中冷たい雨が降る僻地の、終わりのない孤独と過酷な労働だけだ。

 失った宝物の重さを、彼はその生涯をかけて、最果ての泥の中で思い知ることになる。



 一方、ウィリアムを乗せた馬車が静かに去っていったダグラス伯爵邸では、一つの大きな決定が下されていた。


「これより、我がダグラス伯爵家の次期当主、および全権を、次男セバスチャンに委譲する。異論のある者は前へ出よ」


 厳かな大広間に、ダグラス伯爵の重々しい声が響き渡る。


 並み居る親族や重臣たちの間に、異論を唱える者は誰一人としていなかった。一度ならず二度も不祥事を起こし、公金を横領した長男など、もはや一族の風上にもおけない存在だ。対して、騎士団でも目覚ましい武功を挙げ、実家・義実家との連携を完璧にこなした次男セバスチャンの優秀さは、誰もが認めるところだった。


「拝命いたします、父上。このダグラスの家名と、我が身に懸けて守るべきものを、必ずや守り抜いてみせます」


 セバスチャンは端正な顔を引き締め、深く一礼した。その夜空のような瞳には、若き当主としての並々ならぬ覚悟が宿っていた。


 すべての儀式を終えた後、セバスチャンはまっすぐにマーガレットの元へと向かった。

 別邸の静かなサンルームで、生まれたばかりの我が子を愛おしそうに抱く彼女の姿を見つけた瞬間、彼の張り詰めていた表情が、ふっと柔らかいものへと変わる。


「マーガレット」


「セバスチャン……いえ、これからは『当主様』とお呼びした方がよろしいかしら?」


 お茶目に微笑むマーガレットに、セバスチャンは困ったように眉を下げ、彼女の前に膝をついた。それは、かつて学園の廊下で、彼女に想いを告げたあの日のように。


「頼むから、からかわないでくれ。俺がこの地位に就いたのは、ただ一つ、お前と、その子を名実ともに守る力を得るためだ」


 セバスチャンは、マーガレットの空いている方の手を、そっと両手で包み込んだ。ウィリアムの冷たい手とは違う、いつでも彼女を温め、支え続けてくれた、大きく逞しい手のひら。


「兄上は去った。もうお前を脅かすものは何もない。……マーガレット。お前が負ったすべての傷が癒えるまで、俺はいくらでも待つ。何年かかってもいい。いつか、お前が本当に俺を必要としてくれる日が来たら。その時は、俺の妻になってほしい」


 長年の恋心を押し殺し、一人の騎士として、男として彼女のすべてを受け止める覚悟。その真っ直ぐで優しい視線に、マーガレットの琥珀色の瞳から、今度は嬉し涙がじわりと溢れ出た。


「ええ……。ありがとう、セバスチャン。私、あなたとなら……もう一度、信じられる気がするわ」


 去りゆく男が残した未練の涙と、ここに残された男の、本物の優しさと確かな温もり。

 マーガレットの長い苦難の季節は終わり、今度こそ、本当の幸せに向けた新たなページが、静かにめくられようとしていた。


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