58話 デルタ
58話 鴨川デルタ
橋を渡り切る頃には、足の感覚がかなり鈍くなっていた。
私は立ち止まり、川沿いを見る。
夜の鴨川は静かだった。
街中を流れているのに、不思議と音が遠い。
川の合流する場所。
三角州のようになった地形の先に、人影が見えた。
女だった。
コート姿。
長い髪が風に揺れている。
私は少し目を細める。
距離はまだある。
顔もはっきり見えない。
だが、なぜか分かった。
雪だった。
その瞬間、足が止まる。
本当にいた。
ずっと画面の向こうにいた存在が、
急に現実の形を持ってしまった。
私は息を吐く。
だが、うまく呼吸が整わない。
逃げた方がいい気もした。
ここまで来て、
そんなことを考えている自分がおかしかった。
雪はこちらへ気づいていた。
逃げない。
手も振らない。
ただ立っている。
私はゆっくり近づく。
川の音だけが聞こえる。
靴底が石を踏む音がやけに大きかった。
数メートルまで近づいたところで、
雪が少し笑った。
「ずいぶん遅かったねー」
軽い声だった。
まるで待ち合わせみたいに言う。
私は答えられなかった。
雪は私を見る。
写真は見たことがない。
通話もしていない。
なのに、不思議と違和感がなかった。
三十代後半くらいに見えた。
落ち着いた雰囲気だった。
綺麗な人だと思った。
だが、それより先に、
説明できない不気味さが来る。
この人は、
私の何を知っているんだ。
「本当に、雪ですか」
やっと出た言葉は、それだった。
雪は少しだけ首を傾ける。
「それ以外の誰に見える?」
私は黙る。
風が吹く。
鴨川の水面が揺れる。
雪は川の方を見たまま言った。
「ちゃんと京都まで来たんだね」
「来いって言ったのはそっちでしょう」
「でも、普通は来ないよ」
その言葉に、
私は返事ができなかった。
確かにそうだった。
顔も知らない相手に呼ばれて、
仕事を休み、
北海道から京都まで来る。
冷静に考えれば、おかしい。
雪は少し笑う。
「思ったより疲れた顔してる」
「ずっと歩いてたので」
「下から来た?」
私は眉をひそめる。
「なんで分かるんですか」
「なんとなく」
雪はそう言った。
だが、
なんとなくで済ませていい感じではなかった。
私は雪を見る。
近くで見るほど、
普通の人に見えた。
だが普通じゃない。
この人は、
未来のことを知っている。
私のことを知っている。
それなのに。
雪はまるで、
昔からの知り合いみたいな顔でそこに立っていた。




