43話 残された廃屋
翌朝、作業場に入ると、いつもと同じ空気があった。
棚の様子を一通り見てから、葉を取り替える。
手は動くが、意識は別のところにあった。
昨日の話が、頭に残っている。
山の奥にある、使われていない家。
昔、養蚕をやっていた場所。
男性の名前は星さんというらしい。
星さんは何も強くは言わなかった。ただ、場所だけを教えた。
あとは自分で判断しろ、という距離だった。
午前の作業を終えたところで、私は一度手を止める。
「昨日の家ですが」
声をかけると、星さんは振り返らずに答えた。
「行くなら、明るいうちの方がいいでしょう」
それだけだった。
止めるでも、勧めるでもない。
行く前提の言い方だった。
私は軽く頷き、外に出る。
言われた通りの道を進む。舗装は途中で切れ、細い土の道に変わる。人の気配は薄く、音も少ない。
しばらく歩くと、分かれ道が見えた。
左に入る。
道はさらに狭くなり、草が足元に触れる。
進むほどに、町の気配が遠くなる。
やがて、少し開けた場所に出た。
建物が一つ、そこにあった。
足を止める。
昨日聞いた通りの場所だと、すぐに分かった。
思っていたよりも形は残っている。
壁は古びているが、崩れてはいない。
ゆっくりと近づく。
敷地の境目は曖昧で、かつての名残だけが残っていた。
足元には、古い石が並んでいる。
戸の前に立つ。
一度だけ周囲を見る。人の気配はない。
手をかけて、軽く引く。
軋んだ音とともに、戸が開いた。
中は暗いが、光は入っている。
完全に閉じられていたわけではない。
一歩だけ中に入る。
空気は止まっているが、重すぎる感じはない。
長く使われていないだけで、壊れているわけではなかった。
壁際に棚が残っている。
何も置かれていないが、使われていた形は残っている。
しばらく、その場に立つ。
ここが本当に関係のある場所かは分からない。
ただ、昨日聞いた話と、目の前の光景は繋がっていた。
外に出て、建物を見上げる。
手を入れれば、使える。
生活する場所としても、作業場としても。
最低限の形は残っていた。
頭の中で、今の生活と重ねる。
通えない距離ではない。
人目も少ない。
条件としては悪くなかった。
ただ、一つだけ引っかかる。
持ち主が分からない。
星さんも、その点については何も言わなかった。
知っていて言わなかったのか、それとも本当に分からないのか。
判断はつかない。
戸を閉める。
同じ音が、静かに響いた。
来た道を引き返す。
さっきまで見ていた景色が、少しずつ遠ざかる。
作業場に戻ると、星さんは変わらず手を動かしていた。
私は何も言わず、自分の位置に立つ。
葉を取り替えながら、考える。
使えるかもしれない場所がある。
だが、使っていいかどうかは別の問題だった。
すぐに答えは出ない。
それでも、昨日よりは一歩進んでいる。
私は手を止めず、そのまま作業を続けた。




