33話 祖父の故郷
目的地までは電車を使うことにした。
電車の揺れが、一定のリズムで体に伝わる。
仙台を離れてから、景色はもうすっかり変わっていた。
建物は減り、視界が開けていく。
遠くに山が見える。
その景色を見た瞬間、なぜか少しだけ息がしやすくなった。
(都会は無理だな...)
人が多い場所は、どうしても落ち着かない。
誰も自分のことなんて見ていないはずなのに、
どこかで見られている気がしてしまう。
逃げてきた人間の、ただの思い込みだ。
福島を選んだ理由は、一つじゃない。
まず、誰も自分を知らないこと。
これは絶対条件だった。
北海道に戻ることはできない。
顔を出せば、すぐに足がつく可能性がある。
関東は人が多すぎる。
仕事も多いが、その分、目も多い。
でもここなら違う。
人はいる。
でも、干渉は少ない。
よそ者がいても、必要以上に踏み込まない距離感。
それが、今の自分には都合がよかった。
(それに……仕事だ)
頭の中で、現実的な計算をする。
手持ちの金は限られている。
長くは持たない。
いずれは働かなければならない。
そのときに、自分に何ができるのか。
答えは、もう出ていた。
「農業か……」
北大路の元で過ごした時間が浮かぶ。
最初はただの逃げ場だった。
だが、あの生活の中で、少なくとも“使える”経験は得ている。
田んぼの作業。
機械の扱い。
段取り。
完璧じゃないが、何もできないわけじゃない。
そして、こういう地域なら人手は、足りてないはずだ。
若い人間は少ない。
だからこそ、多少の素性が曖昧でも、
働く意思があれば受け入れられる可能性はある。
都会では通用しない条件でも、
ここなら通るかもしれない。
さらに。
「川俣町……」
その名前には、もう一つ理由があった。
子供の頃、祖父がよく話してくれた場所。
決して大げさな話じゃない。
ただ、穏やかな声で、
ぽつりぽつりと語るだけだった。
「いいとこだぞ」
そう言って、少しだけ目を細める。
山に囲まれていてな、
風が気持ちよく通るんだ、と。
畑の匂いとか、
朝の空気とか、
「なんでもないのが、いいんだ」
笑いながら、そう言っていた。
大した自慢話なんて、一つもなかった。
でもあの時間だけは、なぜか覚えている。
(優しい顔してたな)
怒鳴ることもなくて、
ただ、ゆっくり話す人だった。
その声を思い出すと、
少しだけ肩の力が抜ける。
(何もない、か……)
今の自分には、それがちょうどいい。
何も持っていない。
何も残っていない。
だからこそ何もない場所の方が、都合がいい。
一からやり直すとか、そんな綺麗な話じゃない。
ただ、これ以上、失うものが増えない場所。
それだけでいい。
電車がトンネルに入る。
一瞬、景色が途切れる。
暗闇の中で、自分の顔が窓に映った。
疲れた顔だと思う。
それでも、少しだけ。
「あんたの言ってた場所、行ってみるよ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
トンネルを抜けると、また山が見えた。
もう戻る場所はない。
だから前に進むしかない。
逃げる先として選んだ場所。
でも。
「ここでいい」
そう言い切れるだけの理由は、もう揃っていた。
電車は、ゆっくりと進んでいく。




