31話 希望の船
低いエンジン音が、腹の奥に響いている。
主人公は相部屋の下段ベッドに腰を下ろしていた。
カーテン一枚で区切られた空間。
薄いマットに体を預けると、スプリングの硬さが背中に伝わる。
隣からは寝息。
上段では誰かがガラケーをいじっているような音。
静かじゃないのに、妙に現実的だった。
荷物は小さなバッグ一つ。
中身はほとんど現金だけ。
「軽すぎだろ」
思わず呟く。
あの頃は違った。
朝から体を動かして、土に触れて、やることがあった。
そして、隣には北大路がいた。
短く息を吐いて立ち上がる。
船内に出ると、狭い通路に人の気配が満ちていた。
自販機の前では迷彩服の男たちが笑っている。
自衛隊員だろう。
缶コーヒー片手に、迷いのない顔をしていた。
ラウンジに行くと、窓際にカップル。
何をするでもなく、並んで海を見ている。
少し離れた席には老夫婦。
弁当を分け合いながら、ゆっくりと言葉を交わしていた。
どこにでもある光景。
でも、自分の中には、もうないものだった。
(なんでだよ)
胸の奥が鈍く痛む。
畑での時間。
他愛のない会話。
あの何でもない日常。
全部、自分で捨てた。
「バカだな......」
誰にも届かない声がこぼれる。
デッキに出る。
強い風が体温を奪っていく。
目の前には、暗い海。
行き先は決まっている。
東北、福島。
けれどそこで何をするのかは決まっていない。
仕事か。
住む場所か。
それとも、ただ逃げ続けるのか。
「何したいんだよ、俺は」
答えは出ない。
波の音だけが響く。
ポケットの現金に触れる。
まだ残っている。
全部失ったわけじゃない。
それでも大事なものは、もう戻らない。
しばらく黙って海を見つめる。
遠くに、かすかな光が見えた。
あれが次の場所だ。
何があるかは分からない。
うまくいく保証もない。
それでも。
「他に行くところもないしな」
小さく、はっきりと言う。
北大路のいない場所へ。
もう戻れない場所へ。
風に押されるように、一歩だけ前に出る。
その一歩に意味があるかなんて、わからない。
それでも、止まっていた時間よりはましだ。
全部を失ったわけじゃない。
まだ、選べる。
やり直せるかどうかは知らない。
でも。
「終わりには、したくねぇな」
かすかに、そう思った。
暗い海の向こう。
揺れる光が、ほんの少しだけ近づいていた。




