第24話 湖から現れた精霊の塔
リーリエを救った翌朝。
私たちは地上へ戻るため、海底都市の港へ集まっていた。
昨日まで固く閉ざされていた店には明かりが灯り、通りには人魚族や魚人たちの声が戻っている。青白い珊瑚でできた街路の上では、救出された小さな精霊たちが楽しそうに飛び回っていた。
たった一晩前まで静まり返っていた街が、ようやく本来の姿を取り戻し始めている。
「本当に帰るの?」
ミレアが、少し寂しそうに尋ねてきた。
水色の長い髪には真珠の髪飾りが輝き、昨日まで着ていた旅装ではなく、白と水色を重ねた王族らしいドレスをまとっている。
「うん。でも、また来るよ」
「絶対?」
「絶対!」
鞄の中の《真実のカード》は反応しない。
つまり、今の言葉は私自身が本心からそう思っているということだ。
ミレアもそれが分かったのか、ようやく柔らかく笑った。
「なら、待ってる」
その時だった。
「パン」
足元から、小さな声が聞こえた。
「え?」
見下ろすと、昨日出会った小さな精霊――メリーが両手をこちらへ伸ばしている。
ふわふわした桜色の髪に、大きな翠色の瞳。背中には花びらのような透明の羽が四枚あり、相変わらず手のひらに乗ってしまいそうなくらい小さい。
「パン」
「朝ご飯、食べたでしょ?」
「食べた」
「じゃあ、いらないよね?」
メリーは一秒も迷わなかった。
「別腹」
「精霊にも別腹あるの!?」
横でオラクルが笑う。
「お前より食うんじゃねぇか?」
「私、そんなに食べないよ!」
するとメリーが、じっと私を見上げた。
「フール、いっぱい食べる」
「誰に聞いたの!?」
「精霊ネットワーク」
「何それ!」
周囲を飛んでいた精霊たちが、一斉にくすくす笑う。
絶対、今適当に作った。
◇ ◇ ◇
「それより、メリー」
私はしゃがんで目線を合わせた。
「精霊の塔へ帰るんだよね?」
さっきまでパンのことしか考えていなかったメリーの笑顔が、少しだけ消える。
「うん」
「場所は分かる?」
「分かる」
「じゃあ案内して」
そこでメリーは、不思議そうに首を傾げた。
「……人間には見えない」
「え?」
オラクルの耳もぴくりと動く。
「見えねぇ?」
メリーはこくりと頷いた。
「精霊の塔は、隠れてる」
「どこに?」
「山の中」
「ざっくり!」
少し考えたあと、メリーが付け足す。
「湖」
「最初からそこまで言ってよ!」
メリーは得意げに胸を張った。
「今言った」
この子、かなりマイペースだ。
すると、昨日救出した精霊たちの中から、青い髪をした一人が私たちの前へ飛んできた。メリーより少し大きく、背中には水滴のような透明の羽がある。
「私たちが案内します」
「お願いします!」
「ただし」
精霊は少し意味ありげに笑った。
「塔を見つけられるかどうかは、私たち次第です」
「どういう意味?」
その答えを知るのは――山へ着いてからだった。
◇ ◇ ◇
リーリエを出た私たちは一度地上へ戻り、解放された精霊たちの光を追って旅を続けた。
森を抜け、丘を越え、さらに山道を登っていく。
そして二日目の昼頃、ようやく精霊たちが足を止めた。
「……ここ?」
私たちの前に広がっていたのは、山々に囲まれた静かな湖だった。
澄み切った青い水面の周りには白い花が咲き、風が吹くたびに花びらが一枚、また一枚と湖へ落ちていく。
綺麗な場所だ。
でも。
塔なんて、どこにも見当たらない。
「メリー」
「いる」
「塔はどこ?」
「そこ」
メリーが、湖の中央を指差す。
「水の中?」
「違う」
「じゃあどこ!?」
オラクルも湖の縁まで歩いていき、水面を覗き込んだ。
「底にも何もねぇぞ」
メリーは呆れたような顔で言う。
「人間と猫には見えない」
「俺だけ種族名で呼ぶな」
「泥棒猫」
「もっと悪化した!」
私は笑いながら《聖なるマップ》を開いた。
ところが、地図にも映っているのは湖だけだった。
【現在地:精霊湖】
その下には、何も表示されていない。
「……本当に塔あるの?」
メリーの頬が、ぷくっと膨らんだ。
「ある!」
「怒った?」
「怒ってない!」
「怒ってるじゃん」
「怒ってない!」
小さな足で私の肩をぽかぽか叩いてくる。
全然痛くない。
むしろ可愛い。
◇ ◇ ◇
その時、周囲にいた精霊たちが次々と湖の上へ飛び始めた。
一人。
二人。
十人。
そして数十人。
赤、青、緑、金――色とりどりの小さな光が、水面の上で大きな円を描いていく。
最後に、メリーも私の肩から飛び立った。
「フール」
「何?」
「見てて」
メリーは小さな両手を胸の前で合わせる。
次の瞬間。
湖全体が光った。
「……!」
水面の下から、巨大な魔法陣が浮かび上がる。
赤、青、緑、金。
いくつもの光の輪が重なり合い、湖を覆い尽くしていった。
精霊たちが声を合わせる。
言葉ではない。
歌のようで、鈴の音にも似た、不思議で澄んだ響き。
その声に応えるように、水面が大きく震え始めた。
ゴゴゴゴゴ……。
「え……?」
私は思わず一歩後ずさった。
湖の中央が、ゆっくりと左右へ割れていく。
大量の水が壁のように持ち上がり、その間から――巨大な何かが姿を現した。
「うそ……」
湖の底から、白い塔がせり上がってくる。
高い。
あまりにも高い。
雲へ届くのではないかと思うほどの巨大な塔だった。
外壁は普通の石ではなく、大きな花びらと透明な結晶を重ねたような不思議な素材でできている。いくつもの尖塔が空へ伸び、その間には細い橋が架かり、窓の周囲には蔦が絡みついていた。
そして蔦の先では、小さな光の花が咲いている。
塔が完全に湖の上へ姿を現した瞬間、《聖なるマップ》が激しく輝いた。
【NEW AREA】
【精霊の塔】
「すごい……!」
私は完全に見上げたまま固まっていた。
隣のオラクルも、珍しく口を開けたまま塔を見ている。
「これが……ずっと隠れてたのか?」
「そう」
メリーが得意げに胸を張った。
「普段は、人間には見えない」
「どうやって隠してるの?」
「秘密」
「教えてよ!」
「精霊の秘密」
「ずるい!」
メリーは楽しそうに笑う。
その直後、塔の入口にあった巨大な花の蕾がゆっくり開き、一枚の扉へ姿を変えた。
メリーがその扉を見つめる。
「帰ろ」
少しだけ、声が柔らかい。
「おうち」
その横顔は、どこか嬉しそうだった。
◇ ◇ ◇
塔へ入った私は、また別の意味で驚かされた。
「……街?」
てっきり、中には長い階段や廊下があって、何かの試練でも待っていると思っていた。
でも、全然違った。
入口の向こうには広い大通りが伸び、左右には店や二階建ての家が並んでいる。小さな噴水の周りを精霊たちが飛び交い、どこからか焼きたてのパンの匂いまで漂ってきた。
「普通の街じゃん!」
ただし。
全部、精霊サイズ。
「小さっ!」
店のカウンターは、私の膝くらいの高さしかない。椅子なんて手のひらに乗るほど小さく、看板まで可愛らしい大きさだった。
【花蜜パン】
【月光ジュース】
【羽のお手入れします】
そして。
【迷子精霊相談所】
「最後の店、必要なんだ……」
「よく迷子になる」
メリーが当然のように答えた。
「メリーも?」
「ならない」
その瞬間。
後ろから別の精霊が声をかけた。
「メリーちゃん、三日前も迷子になってたよね?」
「……」
私はゆっくりメリーを見る。
メリーは、そっと目を逸らした。
「メリー?」
「昔の話」
「三日前だって」
「昔」
「精霊の時間感覚どうなってるの!?」
オラクルが腹を抱えて笑った。
「お前、いい相棒見つけたな」
「誰が相棒!」
「フール」
メリーが即答する。
「私には決定権ないの!?」
でも。
嫌ではなかった。
◇ ◇ ◇
大通りを進んでいくと、リーリエから戻ってきた精霊たちへ、住民たちが次々と駆け寄ってきた。
「帰ってきた!」
「本当に無事だったの!?」
「よかった……!」
家族らしい精霊同士で抱き合っている者もいれば、友達と再会して泣いている者もいる。
その光景を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなった。
リーリエへ行って。
助けることができて。
本当によかった。
その時、一人の精霊が私の前へ飛んできて、深く頭を下げた。
「仲間を助けてくださって、ありがとうございました」
「私はそんな……」
「あなたたちがいなければ、みんな戻れませんでした」
すると別の精霊も。
さらに別の精霊も。
次々とこちらへ集まってきた。
「ありがとう」
「本当にありがとう」
あちこちから感謝の言葉を向けられて、なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「オラクルも一緒に頑張ったよ」
「おい、急に俺に振るな」
精霊たちが一斉にオラクルを見る。
「黒猫さんもありがとう」
「オラクルだ」
「泥棒猫さんも、ありがとう」
「メリー! お前だろ、それ広めたの!」
塔中に笑い声が響いた。
◇ ◇ ◇
「ねえ、メリー」
街を抜けながら尋ねる。
「今度はどこへ行くの?」
メリーが小さな指で、塔の遥か上を指した。
「一番上」
「何があるの?」
「女王様」
オラクルが顔を上げる。
「精霊にも女王がいるのか」
「いる」
メリーの表情が、少しだけ緊張した。
私はそれを見逃さない。
「すごく強い?」
「強い」
「怖い?」
「……」
メリーが黙った。
「怖いんだ」
「違う」
「じゃあ何?」
少しの間。
そして。
「怒られる」
「何したの?」
「勝手に塔から出た」
「それは怒られるね」
「あと」
「まだあるの?」
「お菓子盗んだ」
オラクルの耳が、ぴんと立った。
「お前、見込みあるな」
「褒めないで!」
メリーは小さな拳を握る。
「でも大丈夫」
「なんで?」
「フールを盾にする」
「私!?」
オラクルが大笑いした。
「似た者同士じゃねぇか!」
「私、オラクルにも盾にされたことあるんだけど!」
「じゃあ慣れてる」
「慣れたくないよ!」
そんな騒がしい会話をしながら、私たちは塔の上を目指して進んでいった。
◇ ◇ ◇
精霊の塔は、上へ行くほど不思議な造りになっていた。
普通の階段だけではない。
巨大な花の上へ乗ると、そのまま上階までふわりと運ばれる場所。
目には見えない風の道を歩く場所。
光る蝶の群れについていくと、壁の一部が消えて隠し通路が現れる場所まである。
私は何度も足を止め、そのたびにメリーから「遅い」と急かされた。
「初めて来たんだから仕方ないでしょ!」
「私は知ってる」
「メリーの家なんだから当たり前だよ!」
「えらい」
「自分で褒めないで!」
その横で、オラクルはずっと笑っていた。
そして。
ついに。
私たちは塔の最上階へ辿り着いた。
◇ ◇ ◇
目の前には、これまで見たどの扉よりも大きな扉があった。
中央には、一輪の巨大な花を模した紋章。
その前まで来たところで。
メリーが突然、私の髪の後ろへ隠れた。
「ちょっと」
「フール」
「何?」
「先に入って」
「なんで!?」
「お願い」
嫌な予感しかしない。
「絶対怒られるんでしょ?」
「ちょっとだけ」
「どれくらい?」
「すごく」
「ちょっとじゃない!」
その時だった。
扉の向こうから、優しい女性の声が聞こえた。
「――メリー」
私の髪の後ろで。
メリーの身体が、びくっと固まった。
「帰ってきたのですね」
巨大な扉が、ゆっくり開いていく。
眩しい光の中。
一人の女性が立っていた。
背丈は人間の半分ほどで、普通の精霊たちよりずっと大きい。
長く柔らかな桜色の髪。
深い翠色の瞳。
背中には、メリーと同じ花びらのような四枚の透明な羽。
頭には白い花で作られた小さな冠を載せ、白と淡い緑を重ねた長いドレスをまとっている。
私は、その顔を見た。
次に。
髪の後ろへ隠れているメリーを見る。
もう一度。
女性を見る。
「……メリー?」
隣のオラクルも、まったく同じ顔をしていた。
「大きくなったメリーじゃねぇか」
女性が上品に微笑む。
するとメリーが、私の髪の後ろから本当に小さな声で呟いた。
「……お母さん」
「えええええっ!?」
私とオラクルの声が、精霊の塔最上階いっぱいに響き渡った。
精霊の女王は、そんな私たちを見て穏やかに微笑む。
「娘がお世話になりました」
そして。
同じ笑顔のまま。
メリーへ視線を向けた。
「――あとで、たっぷりお話がありますからね」
「……逃げる」
メリーが私の髪の奥へ潜り込む。
「私を巻き込まないで!」
こうして始まった精霊の女王との出会いは。
私が想像していたよりも、ずっと――家庭的だった。
あとがき
今回はついに、普段は人間の目に映らない**《精霊の塔》**が姿を現しました。
山中の湖に隠された塔は、精霊たちが力を合わせた時だけ水面から現れます。
内部も普通のダンジョンではなく、精霊たちの家や店が並ぶ小さな街。そして最上階で待っていた精霊の女王は――メリーのお母さんでした。
ただし、メリーは無断外出に加えてお菓子まで盗んでいた様子。
次話では、精霊の女王との話から物語がさらに動いていきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回はついに《精霊の塔》が登場しました。
普段は人間には見ることのできない塔。
精霊たちが魔法を使った時だけ、山中の湖から姿を現します。
中はダンジョンではなく、精霊たちのお店や家が並ぶ小さな街。
そして最上階で待っていた精霊の女王は――メリーのお母さんでした。
見た目もメリーそっくり。
ただし、娘の無断外出についてはしっかり怒っているようです。




