第23話 人魚の旋律
巨大な触手が、頭上から振り下ろされた。
「フール、伏せろ!」
オラクルに肩を引かれ、私は石畳へ転がった。
直後。
ドゴォォン!!
さっきまで立っていた場所が、大きく抉れる。
砕けた石が雨みたいに降り注いだ。
「こんなの当たったら終わりじゃん!」
「だから当たるな!」
「簡単に言わないでよ!」
ネレウスが低く唸った。
魚のような巨大な胴体。その下には何十本もの黒い触手がうごめき、吸盤に埋め込まれた無数の目が、それぞれ別々にこちらを見ている。
そして何より異様なのは、身体の中だった。
半透明の皮膚の奥で、無数の小さな光がもがいている。
赤。
青。
緑。
黄色。
捕らえられた精霊たち。
『王女……』
ネレウスの巨大な口が開く。
『歌え……』
その視線が、ミレアだけを捉えた。
水色の長い髪を揺らしながら、ミレアが一歩後ずさる。
「……嫌」
『歌え』
「嫌よ!」
今まで静かだった彼女の声が、初めて強く響いた。
ネレウスが咆哮する。
『ならば――奪う!』
何本もの触手が一斉に伸びてきた。
「ミレア!」
私は彼女の腕を掴んで走った。
オラクルが二本の短剣を抜き、私たちの後ろへ回る。
「先行け!」
黒い毛並みをなびかせ、地面を蹴った。
一枚。
二枚。
三枚。
触手の吸盤へ短剣を叩き込む。
「こっち見ろ、タコ野郎!」
『猫……』
「誰が猫だ!」
私は走りながら振り返った。
「猫でしょ!」
「今そこ突っ込むな!」
ネレウスの触手がオラクルを追う。
速い。
けれどオラクルは、それ以上に素早かった。
柱を蹴り、建物の壁へ飛び移り、触手の隙間を縫うように走る。
アルセウスで屋根から屋根へ逃げ回っていた時以上だ。
「オラクル、すごい……!」
「見直したか!?」
「盗賊じゃなかったら!」
「まだ言うか!」
その瞬間。
横から伸びた触手がオラクルの腹へ直撃した。
「ぐっ!」
黒い身体が吹き飛ばされ、石壁へ叩きつけられる。
「オラクル!」
「……生きてる!」
身体を起こしながら叫んだ。
でも。
口元には血が滲んでいる。
笑ってる場合じゃない。
私は《真実のカード》を取り出した。
「ネレウスは、《人魚の旋律》を手に入れるために精霊を捕まえた!」
カードが光る。
【TRUE】
「やっぱり!」
ミレアが驚く。
「精霊を?」
「次!」
私はカードを握る。
「精霊たちは、《人魚の旋律》を使えば解放できる!」
眩しい光。
【TRUE】
「ミレア!」
私は彼女を見る。
「歌えば助けられる!」
「……できない」
「え?」
ミレアの手が震えていた。
「私には……歌えない」
ネレウスがゆっくり近づいてくる。
『歌え……』
「ミレア?」
彼女の青緑色の瞳が、苦しそうに伏せられた。
「《人魚の旋律》は、リーリエ王家に代々受け継がれる歌。でも……最後まで歌えるのは、王位を継ぐ者だけ」
「じゃあ第一王女のミレアなら――」
「私は逃げたの!」
声が震えた。
「三ヶ月前。ネレウスが現れた夜、私は……」
彼女は拳を握った。
「怖くなって、リーリエから逃げた」
風もない海底都市で、水色の髪だけが小さく揺れていた。
「お父様も、お母様も、みんな街に残ったのに。私は王女なのに……一人で地上へ逃げた」
「……」
「だから歌えない」
ミレアが自嘲するように笑う。
「王女失格だから」
私は何も言えなかった。
ネレウスが精霊たちを捕まえた理由。
ミレアが街へ戻りたがらなかった理由。
ようやく繋がった。
『お前の歌を――』
ネレウスが大きく口を開く。
『寄越せぇぇぇぇ!!』
黒い液体が口の中へ集まる。
「まずい!」
オラクルが駆けてくる。
「避けろ!」
黒い水が放たれた。
私はミレアを突き飛ばす。
バシャァァァン!!
黒い水が石畳へ広がった。
触れた部分が、みるみる腐っていく。
「うそ……!」
「あれ浴びたら骨まで溶けるぞ!」
「先に言って!」
「今分かったんだよ!」
逃げながら。
私はミレアを見る。
王女失格。
逃げた。
怖かった。
でも。
「ミレア!」
「何!?」
「怖かったんでしょ!」
「……!」
「だったら逃げるよ!」
ミレアが目を見開く。
「私だって逃げる!」
「フール?」
「怖いもの!」
TIMEのNo.1に殺されそうになった時。
三匹を失った時。
呪われた絵に吸い込まれた時。
メビウス村で記憶を奪われそうになった時。
何度も。
怖かった。
「逃げたことがあるから王女じゃないなんて、誰が決めたの?」
「でも私は――」
「今、戻ってきたじゃん!」
ミレアが黙った。
私は叫ぶ。
「精霊たちを助けたいから戻ってきたんでしょ!」
《真実のカード》が勝手に光った。
【TRUE】
ミレアの瞳が揺れる。
「ほら!」
「……そのカード、こういう時まで」
「便利だから!」
オラクルが触手を避けながら叫ぶ。
「感動してるところ悪いけど、早くしてくれぇぇぇ!」
「オラクルが死にそう!」
「ずっとそう言ってんだろ!」
ミレアが思わず笑った。
ほんの少し。
でも。
確かに笑った。
「……変な人たち」
「よく言われる」
「俺まで一緒にすんな!」
ミレアは胸へ手を当てた。
目を閉じる。
「私……歌えるかな」
私は答えた。
「歌ってみないと分からないよ」
静かな沈黙。
やがて。
ミレアが息を吸った。
――♪……
最初の声は。
とても小さかった。
でも。
海底都市全体が反応した。
道を照らしていた青い石が、一斉に輝く。
珊瑚の塔。
閉ざされた家々。
街を包む透明な膜。
全部が、ミレアの声に合わせて淡く光った。
「……すごい」
歌が続く。
言葉の意味は分からない。
けれど。
寂しい。
優しい。
ずっと誰かを待っていたような。
そんな歌だった。
ネレウスが苦しみ始める。
『やめろ……』
身体の中。
捕らえられていた精霊の光が激しく輝く。
一つ。
また一つ。
ネレウスの身体から飛び出した。
「出てきた!」
赤い小さな光。
青い光。
黄色。
緑。
何十もの精霊が、空へ舞い上がっていく。
『やめろぉぉぉ!!』
ネレウスが触手をミレアへ伸ばす。
「歌を止めるな!」
オラクルが間に飛び込んだ。
ザシュッ!
短剣で触手を切り裂く。
でも。
一本ではない。
次。
次。
次。
「多すぎる!」
「オラクル!」
私も何か。
何かできない?
武器もない。
魔法もない。
カードは真実を示すだけ。
その時だった。
小さな青い光が。
私の前で止まった。
「……?」
精霊。
手のひらくらいの大きさ。
ぼんやりとした人の形。
その子が私へ小さな手を伸ばした。
続いて。
別の精霊。
また一人。
また一人。
「みんな……?」
光が私の周りへ集まってくる。
聖なるマップが輝いた。
【精霊との共鳴を確認】
【一時接続】
「何これ……」
精霊たちの光が、私の両手へ集まる。
温かい。
頭の中へ。
声が聞こえた。
――助けてくれた。
――だから今度は。
――私たちが。
光が一つになる。
「フール!」
オラクルが叫ぶ。
私は両手を前へ突き出した。
「いっけえええええ!!」
光の奔流が放たれた。
ドオオオオオッ!!
触手をまとめて吹き飛ばす。
『グオオオオオオッ!!』
ネレウスが後退した。
「私、魔法使えた!?」
聖なるマップ。
【一時接続終了】
光が消えた。
「終わった!」
「喜ぶの早ぇよ!」
ネレウスはまだ生きている。
でも。
ミレアの歌は止まらない。
そして。
最後の精霊が。
ネレウスの胸から飛び出した。
その瞬間。
怪物の身体に大きな亀裂が走った。
「……弱くなった?」
真実のカードを掲げる。
「ネレウスは、捕まえた精霊の力で身体を維持していた!」
【TRUE】
オラクルがニヤリと笑う。
「なら」
短剣を逆手に持つ。
「今なら斬れる!」
ネレウスの胸。
精霊たちが抜けた場所に、一つだけ黒い結晶が露出していた。
「そこだ!」
オラクルが走る。
触手を一本。
二本。
三本。
かわす。
壁を蹴る。
空中へ。
金色の瞳が鋭く光った。
「終わりだ!」
短剣が。
黒い結晶へ突き刺さる。
パキン。
小さな音。
そして。
巨大な亀裂。
『――ッ!!』
ネレウスの身体が崩れ始めた。
「オラクル、離れて!」
「分かってる!」
飛び退く。
次の瞬間。
ドオオオオオオオン!!
巨大な身体が。
黒い水となって弾けた。
しばらく。
何も聞こえなかった。
やがて。
一つ。
二つ。
家の扉が開く。
「……終わったの?」
住民たち。
人魚族。
魚人。
海の獣人。
地下へ隠れていた人たちが、少しずつ街へ出てくる。
空には。
解放された精霊たちが無数に舞っていた。
まるで星みたいだった。
「ミレア様……」
誰かが呟いた。
ミレアの歌が終わる。
静寂。
その直後。
街中から歓声が上がった。
「王女様!」
「ミレア様が戻った!」
「精霊たちが!」
「助かったんだ!」
ミレアは。
泣いていた。
両手で口元を押さえながら。
「私……」
私は横へ並んだ。
「歌えたね」
「……うん」
その時。
一人の小さな精霊が。
私の頭へ落ちてきた。
「わっ!」
ぽすん。
柔らかい感触。
「何!?」
頭から下ろす。
手のひらより少し大きい。
人間の女の子みたいな姿。
淡い桜色の髪は綿毛のようにふわふわで、腰まで伸びている。瞳は大きな翠色。背中には、透明な花びらのような四枚の羽。
小さな白いワンピース。
裸足。
頬はぷっくり。
そして。
ものすごく眠そうな顔。
「……かわいい」
精霊が私を見る。
口を開く。
「おなか……すいた」
「第一声それ!?」
オラクルが笑う。
「お前と気が合いそうだな」
「なんで私!?」
小さな精霊は私の手のひらへ座る。
「パン」
「え?」
「パン食べたい」
「精霊ってパン食べるの!?」
「食べる」
「即答!」
ミレアが驚いた顔で近づいてきた。
「あなた……」
「知ってる精霊?」
「ええ。でも」
ミレアが小さな精霊を見る。
「この子は《精霊の塔》にいるはずなの」
「精霊の塔?」
その言葉に。
小さな精霊の笑顔が消えた。
翠色の瞳が。
少しだけ悲しそうになる。
「塔……」
そして。
私の指を。
ぎゅっと掴んだ。
「帰らなきゃ」
「……?」
「みんなが待ってる」
聖なるマップが光る。
海底都市リーリエの北。
今まで何もなかった場所に。
一本の塔が現れた。
【NEW AREA】
【精霊の塔】
その下に。
新しい表示。
【精霊異常を確認】
【原因:不明】
オラクルがため息をついた。
「……休めると思ったのに」
小さな精霊が彼を見る。
「猫」
「オラクルだ」
「黒猫」
「オラクル」
「泥棒猫」
「誰に教わった!?」
私は吹き出した。
この子。
結構好きかもしれない。
「名前は?」
精霊は私を見る。
少し考えて。
にこっと笑った。
「メリー!」
こうして。
海底都市リーリエで。
私たちは――。
後に旅を共にすることになる小さな精霊、メリーと出会った。
そして次の目的地は。
精霊たちの故郷――。
**《精霊の塔》**へ。
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回はついに《人魚の旋律》が登場しました。
逃げてしまった自分を「王女失格」だと思っていたミレアですが、戻ってきたこと、そしてもう一度歌ったこと自体が彼女の答えになっています。
ネレウスに囚われていた精霊たちも無事解放。
そして最後には、新キャラの小さな精霊――メリーが登場しました。
ふわふわの桜色の髪、翠色の瞳、花びらのような羽。そして第一声は「おなかすいた」。
次の舞台は《精霊の塔》。
メリーがどうしてリーリエにいたのか、精霊の塔で何が起きているのか。次話からさらに精霊たちの物語へ入っていきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回はついに《人魚の旋律》が登場しました。
逃げてしまった自分を「王女失格」だと思っていたミレアですが、戻ってきたこと、そしてもう一度歌ったこと自体が彼女の答えになっています。
ネレウスに囚われていた精霊たちも無事解放。
そして最後には、新キャラの小さな精霊――メリーが登場しました。
ふわふわの桜色の髪、翠色の瞳、花びらのような羽。そして第一声は「おなかすいた」。
次の舞台は《精霊の塔》。
メリーがどうしてリーリエにいたのか、精霊の塔で何が起きているのか。次話からさらに精霊たちの物語へ入っていきます。




