第20話 次の私へ
工房の奥から、何かが落ちる音がした。
――カタン。
私とオラクルは同時に顔を上げる。
老人が消えた、薄暗い廊下の奥。
そこから漂ってくるのは、絵の具に似た甘い匂いだった。
「……行く?」
私が小声で聞くと、オラクルは短剣の柄に手を添えた。
「ここまで来て帰れると思ってんのか?」
「私はちょっと帰りたい」
「奇遇だな。俺もだ」
「じゃあ帰る?」
「それで帰れる性格なら苦労してねぇよ」
「誰のこと?」
「お前だよ」
分かってる。
怖い。
でも、壁には私自身が残した言葉がある。
【次の私へ】
【まず、オラクルを信用して】
【この村では、嘘を見抜いても意味がない】
【みんな、本当だと思って話してる】
【鐘は三回目で止まる】
【四回目まで動かない】
【白い人に触られないで】
そして、その先。
【一回目の私は――】
最も重要そうな部分だけが、赤い絵の具で塗り潰されている。
過去の私は何かを知った。
だから、忘れた後の自分へ残そうとした。
だったら。
今の私が、ここで諦めるわけにはいかない。
「行こう」
「ああ」
私たちは工房の奥へ進んだ。
◇ ◇ ◇
廊下は短かった。
突き当たりまで進むと、さっきの老人が一人で立っている。
目の前には大きな木製の棚。
「お爺さん!」
呼びかけると、老人がゆっくり振り返った。
「来たか」
「急にいなくならないでくださいよ!」
「来ると思っていたからね」
「だったら一言言ってよ!」
「元気だな、お前さんは」
「誰のせいですか!」
横でオラクルが笑っている。
「お前、爺さん相手でも変わんねぇな」
「オラクルは黙ってて!」
老人は私たちのやり取りを気にする様子もなく、棚へ手をかけた。
「知りたいんだろう?」
その一言で、空気が変わった。
私は口を閉じる。
「この村で、何が起きているのか」
老人が棚を横へ押した。
重い音を立てて棚が動く。
その後ろから現れたのは――小さな鉄の扉だった。
「隠し扉……」
オラクルの金色の目が輝く。
「いいな」
「何で嬉しそうなの?」
「盗賊はこういうのを見ると落ち着くんだよ」
「病気みたいに言わないで」
「職業病だ」
「もっと駄目じゃん!」
老人が鉄扉を開いた。
冷たい空気が、地下から吹き上がってくる。
その先には、暗い階段。
「ついてきな」
老人は迷わず降り始めた。
私とオラクルは顔を見合わせる。
「……罠じゃないよね?」
「分かるわけねぇだろ」
「そこは安心させてよ」
「じゃあ大丈夫だ」
「適当すぎる!」
それでも私は、老人の後を追った。
◇ ◇ ◇
地下へ降りるにつれて、空気が冷たくなっていった。
壁には小さな魔法灯が等間隔に埋め込まれている。
そして――。
「すごい……」
左右の棚に、数え切れないほどの瓶が並んでいた。
赤。
青。
黄色。
紫。
緑。
名前すら分からない、不思議な色まである。
光の角度によって色が変わるもの。
瓶の中で煙のように揺れているもの。
星空を閉じ込めたように、小さな光が瞬いているもの。
「これ全部、絵の具?」
私が尋ねる。
老人は一本の瓶を手に取った。
中身は――透明だった。
「昔はね」
「昔?」
老人は瓶を魔法灯へ透かした。
「メビウス村は、彩色職人の村だった」
私たちは老人の話を聞きながら、地下通路を進んでいく。
「中でも、この村にしか作れない特殊な顔料があった」
老人が透明な瓶を軽く振った。
「《記憶染め》と呼ばれていた」
「記憶……染め?」
聞いたことのない名前だ。
「人間の記憶に強く残っている色を、絵へ写し取るための顔料さ」
オラクルが眉を寄せた。
「記憶から色を?」
「ああ」
老人は目を細めた。
「たとえば、亡くなった母親の瞳の色。火事で失われた故郷の夕焼け。子供の頃に一度だけ見た海――」
その声が、少しだけ優しくなる。
「二度と見ることのできない景色でも、人の心には残っている。《記憶染め》は、その記憶から色を取り出して絵へ残す技術だった」
私は透明な瓶を見る。
「……素敵ですね」
思わず、そう言っていた。
忘れたくない人。
もう会えない人。
二度と戻れない場所。
それを絵の中に残せるなら。
きっと救われる人もいたはずだ。
「最初はね」
老人が言った。
その一言で。
胸の奥に嫌なものが広がった。
「最初は……?」
老人は瓶を棚へ戻す。
「人間は欲張りだからね」
足音だけが地下へ響く。
「記憶から色を写すだけでは、満足できなくなった」
「どういうこと?」
「より美しく」
老人が答える。
「より鮮やかに」
さらに一歩。
「誰にも作れない色を」
嫌な予感がする。
「そのために職人たちは、もっと強い記憶を求め始めた」
私は足を止めかけた。
「まさか……」
老人がこちらを見る。
「気づいたかい?」
「記憶から色を写すんじゃなくて……」
言いたくなかった。
でも。
「記憶そのものを、材料にした?」
「ああ」
老人の返事は短かった。
背中が冷たくなる。
「強い思い出ほど、鮮やかな色になる」
初めて恋をした日の記憶。
大切な人との別れ。
人生で一番嬉しかった瞬間。
一番悲しかった瞬間。
そういう大切なものほど――良い材料になる。
「そんなの……」
私は拳を握った。
「絵を描くために、誰かの大切な思い出を奪ったってこと?」
「最初は本人の同意があった」
老人の声に苦さが混じる。
「忘れたい記憶を差し出す者もいた。辛い過去を消せて、そのうえ金にもなる。悪い話ではないと、みんな思った」
「でも、それで終わらなかった」
オラクルが言う。
老人は頷いた。
「より深い記憶ほど価値が上がった」
私は黙ってしまった。
なんとなく。
この先が分かる。
最初は人を救うための技術だった。
忘れたくないものを残すための魔法。
それが。
いつの間にか――。
「人の記憶に、値段がついたんだ」
老人の言葉が地下へ響いた。
「……」
「高く売れる記憶を求める者が現れた。自分の記憶だけでは足りなくなり、他人の記憶に手を出す者まで出てきた」
オラクルの表情から、いつもの軽さが消えている。
「それで村がおかしくなったのか?」
「それだけなら、まだ止められた」
老人はさらに奥へ歩く。
「本当に取り返しがつかなくなったのは――五十年以上前だ」
その数字に、私は顔を上げた。
「五十年……?」
「村中の職人が、それぞれ集めていた記憶を一つにまとめようとした」
「何のために?」
「より完璧な色を作るためだよ」
老人の顔が歪む。
「誰か一人の記憶では作れない色。何十人、何百人もの人生を混ぜ合わせた、世界に一つしかない色をね」
理解できない。
そんなもののために。
人の人生を混ぜる?
「当然、失敗した」
老人の足が止まった。
通路の先。
そこだけ、何の光もない。
真っ暗な空間が広がっている。
「いや」
老人が訂正した。
「ある意味では――成功してしまった」
その言葉と同時に。
《聖なるマップ》が震えた。
「え?」
勝手に開く。
白紙だった部分に文字が浮かび上がる。
【未登録魔術構造を検知】
続いて。
【危険度:測定不能】
「測定不能……?」
そんな表示、今まで見たことがない。
オラクルが短剣を抜いた。
「爺さん。この先に何がある?」
老人は答えず、暗闇へ入っていく。
私たちも後を追った。
一歩。
二歩。
三歩。
やがて魔法灯の光が届いた瞬間――。
「…………なに、これ」
私は立ち尽くした。
巨大な地下空洞。
壁から床、天井にまで。
黒い根のようなものが無数に張り巡らされている。
すべての根は。
空洞の中央にある――一つの巨大な塊へ繋がっていた。
最初は、岩だと思った。
でも違う。
赤。
青。
黄色。
黒。
白。
見る角度によって、絶えず色が変わっている。
まるで。
何百色もの絵の具を、無理やり一つに混ぜたような塊。
そして。
その表面に。
「……顔?」
人の顔が浮かんだ。
小さな男の子。
泣いている女性。
笑っている老人。
知らない男。
知らない少女。
現れては消え。
また別の顔が浮かぶ。
何十人。
何百人。
「これが……?」
老人が、その塊を見つめた。
「《メビウスの核》だ」
《聖なるマップ》に文字が走る。
【名称:《メビウスの核》】
【機能:記憶循環】
私は息を呑んだ。
「記憶……循環?」
老人が頷く。
「五十年以上、この村を縛り続けているものだ」
「これが、私たちの記憶を消したの?」
「ああ」
「時間がおかしくなったのも?」
「ああ」
老人が黒い根を指差した。
「こいつは村中から記憶を吸い上げ、混ぜ合わせ、そして再び村へ戻している」
「戻す?」
「ただし、元の持ち主へ正しく戻るとは限らない」
私は言葉を失った。
だから。
同じ場所にいた私とオラクルで、記憶が違った。
誰も嘘をついていないのに。
それぞれが、違うことを真実だと思っていた。
「じゃあ……」
私は核を見つめる。
「この村の人たちは、他人の記憶まで自分の記憶だと思ってるかもしれないってこと?」
「そういうことだ」
老人の声が重く響いた。
「そして、核が繰り返しているのは人間の記憶だけじゃない」
「どういう意味?」
「村そのものだよ」
老人が天井を見上げる。
「道も」
「家も」
「鐘も」
「時間さえも」
「メビウス村そのものが――五十年以上、記憶を繰り返している」
私は何も言えなかった。
真っ直ぐ歩いているのに同じ場所へ戻る。
数分しか経っていないはずなのに、何時間も過ぎている。
同じ工房へ何度も来ているのに、それを覚えていない。
全部。
これが原因だった。
その時。
一つの疑問が浮かんだ。
「……鐘は?」
老人を見る。
「三回目の鐘が鳴った時、何が起きてるんですか?」
老人の表情が変わった。
「核が、村中の記憶を回収している」
私は息を止めた。
「じゃあ、あの白い人たちは……」
「《回収者》だ」
核の表面に、また一つ顔が浮かぶ。
「鐘が三回鳴ると現れ、止まっている人間から記憶を回収する」
「……え?」
私は耳を疑った。
「今、何て?」
「止まっている人間から記憶を回収する」
頭の中で。
老婆の言葉が蘇る。
――三回目の鐘が鳴ったら、どこにいても止まりな。
――何が見えても。何を聞いても。絶対に動くんじゃないよ。
私は壁に残されていた、自分自身の言葉を思い出した。
【鐘が鳴っても――】
そこから先だけが。
赤い絵の具で塗り潰されていた。
「……嘘」
オラクルも気づいたらしい。
「じゃあ、あの婆さん……」
私は☆3《真実のカード》を取り出した。
「お婆さんは私に言いました」
老人を見る。
「鐘が三回鳴ったら、絶対に動くなって」
カードが淡く光る。
そして。
浮かび上がった文字は――。
【FALSE】
「…………」
私はカードを握り締めた。
ようやく分かった。
過去の私が。
赤い絵の具で消される前に書こうとした言葉。
【鐘が鳴っても――】
その続きは。
きっと。
「……止まらないで」
私は、塗り潰されていた言葉を口にした。
【鐘が鳴っても――止まらないで】
二回目の私は、ここまで辿り着いていた。
鐘が三回鳴った時に止まれば、《回収者》に記憶を奪われる。
だから、次の私へ伝えようとした。
それを――誰かが赤い絵の具で消した。
「じゃあ、村の人たちは……」
私は《メビウスの核》に浮かんでは消える無数の顔を見た。
「毎日、鐘が鳴るたびに記憶を奪われてるんですか?」
「ああ」
老人の声は重かった。
「同じ会話を繰り返し、同じ畑を耕し、同じ洗濯物を干す。そして昨日と今日の境目すら、少しずつ分からなくなっていく」
村へ入った時の光景を思い出す。
誰も話さず。
誰も私たちを気にせず。
ただ黙々と、それぞれの行動を続けていた村人たち。
あれは、この村では当たり前の光景なんかじゃなかった。
当たり前だったことすら、忘れてしまった結果なのかもしれない。
「でも……」
まだ一つ分からない。
「どうして、井戸にいたお婆さんは私に『止まれ』って教えたんですか?」
老人が黙った。
私は老人を見る。
「知っていますよね?」
返事はない。
「……あの人は誰なんですか?」
長い沈黙のあと。
老人は《メビウスの核》から目を逸らした。
「私の妻だ」
「え?」
思わず聞き返した。
「名はエレナ」
井戸のそばに座っていた老婆。
白い人影が現れる前に、私の手首を強く掴んだ人。
「エレナさん……」
「妻は《メビウスの核》を守っている」
今度こそ、意味が分からなかった。
「どうして!?」
これがあるから、村の人たちは記憶を失っている。
時間までおかしくなっている。
だったら壊した方がいい。
そう思った。
けれど。
老人の返事は、私が考えていたほど単純なものではなかった。
「核を壊せば、この村から失われた五十年分の記憶が――全部、一度に戻るからだ」
「……全部?」
「ああ」
「それって……」
私は言いかける。
「いいことじゃないんですか?」
老人が悲しそうに私を見た。
「そう思うかい?」
「だって、自分の記憶なんですよね?」
「五十年だぞ」
その一言に、言葉が止まった。
「亡くなった者の記憶もある。失った家族の記憶もある。争った記憶も、憎んだ記憶も、忘れたからこそ耐えられた悲しみもある」
老人は核を見つめる。
そこには今も、知らない誰かの顔が浮かんでは消えている。
「五十年間で失われたものが、一度に全員へ戻る」
「…………」
想像してみる。
五十年分。
嬉しい記憶だけじゃない。
悲しみ。
後悔。
恐怖。
別れ。
それらが全部、何の準備もないまま一気に戻ってきたら。
「耐えられない人も……いる?」
「いるだろうな」
老人は否定しなかった。
オラクルが腕を組む。
「だから壊せねぇってわけか」
「妻は、そう考えている」
私は老人を見る。
「あなたは?」
老人の目が僅かに揺れた。
「あなたも、核を残した方がいいと思ってるんですか?」
「私は――」
――カァン。
突然。
鐘の音が、地下空洞にまで響いた。
「……え?」
老人の顔色が変わる。
――カァン。
二回目。
「早すぎる……!」
老人が声を上げた。
「何が!?」
「まだ鐘の時間じゃない!」
嫌な予感がした。
そして。
――カァン。
三回目。
地下空洞全体が激しく揺れた。
「きゃっ!」
足元が大きく揺れ、私は咄嗟に壁へ手をついた。
中央の《メビウスの核》が脈打つ。
ドクン。
ドクン。
生き物の心臓みたいに。
「フール、見ろ!」
オラクルが叫んだ。
核の表面が波打っている。
そこから。
ずるり、と。
白い腕が生えた。
「……!」
一体。
二体。
五体。
十体。
次々と、人の形をした白い影が核から這い出してくる。
《回収者》。
「こんなに……」
村で見た数とは比べものにならない。
老人が叫んだ。
「動け!」
私は反射的に身体を固めかけた。
でも。
すぐに思い出す。
【鐘が鳴っても――止まらないで】
「フール!」
オラクルが私の腕を掴んだ。
「今度は止まるな!」
「うん!」
白い《回収者》が一斉にこちらを向いた。
顔はない。
目もない。
なのに。
確実に――私たちを見ている。
「出口へ!」
老人の声を合図に、私たちは走った。
◇ ◇ ◇
地下通路へ飛び込む。
「速く!」
「走ってるよ!」
背後から無数の気配が追ってくる。
ちらりと振り返って、息を呑んだ。
《回収者》は走っていない。
床を滑る。
壁を這う。
天井にまで白い影が広がり、染み込むようにこちらへ迫ってくる。
「何なのあれ!?」
「俺に聞くな!」
「こういう時くらい何か知っててよ!」
「無茶言うな!」
その時。
胸元の《聖なるマップ》が強く震えた。
「また!?」
走りながら開く。
【記憶回収開始】
その下に。
【対象:フール】
「え?」
さらに。
【対象:オラクル】
ここまでは分かる。
でも。
次に浮かんだ文字を見て、私は目を疑った。
【優先回収対象】
【☆3《真実のカード》所有者】
「私、狙われてる!」
「何でだよ!?」
「知らないよ!」
私は鞄の上から☆3《真実のカード》を押さえた。
どうして?
このカードが何か関係している?
考える暇はない。
白い腕が背後から伸びてきた。
「フール!」
オラクルが私を引き寄せる。
指先が、髪のすぐ横を通り過ぎた。
「ひっ!」
「触られんな!」
「分かってる!」
階段が見えた。
「あそこ!」
一気に駆け上がる。
工房へ飛び出した。
「外へ!」
扉へ向かおうとして――。
私は急停止した。
「……え?」
出口の前。
一人の老婆が立っている。
紫色の頭巾。
小柄な身体。
古びた杖。
井戸のそばで会った人。
「エレナさん……」
老人も階段から飛び出してくる。
「エレナ!」
老婆――エレナさんは、夫の声にも答えなかった。
私だけを見ている。
その手は、杖を握り締めたまま震えていた。
怒っているようには見えない。
むしろ。
悲しそうだった。
「……やっぱり」
掠れた声が落ちる。
「動いたんだね」
私は一歩前へ出た。
「どうして……」
胸の中に溜まっていた疑問が、一気に溢れた。
「どうして私に『止まれ』って教えたんですか!」
エレナさんは答えない。
「止まったら、《回収者》に記憶を奪われるんですよね?」
沈黙。
私は☆3《真実のカード》を握った。
「私たちの記憶を消すためだったんですか?」
エレナさんが、ゆっくり頷いた。
「そうだよ」
カードが光る。
【TRUE】
胸の奥が熱くなった。
「どうして!」
「お前さんは知りすぎた」
「だからって!」
思わず声を荒らげる。
「勝手に人の記憶を消していい理由にはならないでしょ!」
エレナさんが杖を床へ叩きつけた。
ドンッ!
「きゃっ!」
工房中の窓が一斉に閉じる。
バタン!
バタン!
バタン!
出口の扉まで勢いよく閉まった。
「まずい!」
オラクルが短剣を抜く。
床から。
壁から。
天井から。
白い《回収者》たちが、染み出すように姿を現した。
一体。
また一体。
逃げ道を塞ぐように増えていく。
「この村はね」
エレナさんが低い声で言った。
「忘れることで、生きてるんだよ」
「……忘れることで?」
「全部思い出せば、壊れる人間がいる」
杖を握る手が震えている。
「もういない家族を、もう一度失う者もいる。忘れていた憎しみを取り戻す者もいる。自分が何をしたのか思い出して、生きられなくなる者だっている」
言っている意味は分かる。
簡単に否定できることじゃない。
だけど。
「だったら」
オラクルが私の前へ出た。
「忘れたい奴だけ勝手に忘れりゃいいだろ」
金色の瞳が鋭くなる。
「忘れたくねぇ奴の頭まで勝手にいじる理由にはならねぇ」
エレナさんがオラクルを見る。
「若いねぇ」
「年寄りみたいに言うな。俺は猫だ」
「そこ関係ないよ!」
こんな時なのに、思わず突っ込んでしまった。
「いや、重要だろ」
「どこが!?」
ほんの一瞬。
いつものやり取りに戻る。
でも。
すぐに私はエレナさんを見た。
オラクルの言っていることは間違っていない。
悲しい記憶。
苦しい記憶。
忘れてしまった方が楽なことだって、きっとある。
それでも。
誰かが勝手に。
「あなたは忘れた方が幸せだから」
そう決めていいはずがない。
そして。
もう一つ。
さっきから引っかかっていることがあった。
老人は言った。
――妻はそう考えている。
村のみんなのために。
五十年分の記憶を戻さないために。
本当に、それだけ?
私は☆3《真実のカード》を握り直した。
「エレナさん」
老婆の黒い瞳が私を見る。
「あなた、本当に――」
少し怖かった。
聞いてはいけないことなのかもしれない。
それでも。
ここで聞かなければ、何も変わらない。
「この村のみんなのためだけに、《メビウスの核》を守ってるんですか?」
エレナさんの顔が強張った。
「フール……」
老人が息を呑む。
私はもう一歩踏み込んだ。
「エレナさん自身が」
《真実のカード》を掲げる。
「どうしても思い出したくないことが、あるんじゃないですか?」
「…………」
長い沈黙。
エレナさんは答えない。
でも。
カードは。
強く輝いた。
【TRUE】
「……!」
エレナさんの手から、杖が僅かに下がった。
黒い瞳が揺れる。
そして。
皺の刻まれた頬を、一筋の涙が流れた。
「……」
私は何も言えなかった。
やっぱり。
村のためだけじゃない。
エレナさん自身にも――忘れていたい何かがある。
その瞬間。
空気が震えた。
「フール!」
オラクルが叫ぶ。
周囲を埋め尽くしていた《回収者》たちが、一斉にこちらを向いた。
白い腕が持ち上がる。
一体ではない。
十体でもない。
工房を埋め尽くすほどの《回収者》が――。
私たちへ一斉に襲いかかってきた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!




