第19話 メビウス村
アルセウスを出て、半日ほど歩いた頃。
賑やかだった街道は次第に細くなり、左右には背の高い木々が増えていった。絡み合う枝葉が空を覆っているせいで、まだ昼間だというのに森の中は薄暗い。
私は歩きながら《聖なるマップ》を開いた。
【目的地:メビウス村】
地図に浮かんだ一本の細い道が、森のさらに奥へと続いている。
「もうすぐみたい」
「そうだな」
隣を歩くオラクルはそう答えたものの、アルセウスを出てから妙に周囲を警戒していた。黒い猫耳も時々ぴくりと動き、風で枝が揺れるたびに視線を向けている。
「そんなに危ない村なの?」
「危ないっていうより……気味が悪ぃんだよ」
「何が?」
オラクルは少し考えてから、前を向いたまま口を開いた。
「昔、アルセウスに来た旅人から聞いたことがある。そいつはメビウス村に入ったあと、三日経ってから戻ってきた」
「三日? それだけなら普通じゃない?」
「本人はな、『一時間しか村にいなかった』って言ったんだ」
思わず足が止まった。
「……え?」
「別の奴は一晩泊まっただけのつもりが、村の外じゃ十日経ってたらしい。それだけじゃねぇ。村を出ようと歩き続けたのに、気づいたらまた入口に立ってたって話もある」
「時間も、道もおかしいってこと?」
「噂が本当ならな」
私は嫌な予感を覚えながら、《聖なるマップ》へ視線を戻した。
すると、まるで今の会話を聞いていたかのように、新しい文字が浮かび上がる。
【警告】
【同じ場所を二度通った場合――】
【自分の記憶を疑ってください】
「……帰ろうかな」
「さっきまで行く気満々だっただろ」
「怖いものは怖いの! こんな警告見せられたら普通は怖くなるよ!」
「呪いの絵の中まで入った奴が、今さら何言ってんだ」
「そういうのって慣れるものだと思う!?」
言い合いながら歩いていると、やがて森の先が明るくなってきた。
木々の隙間から、小さな村が見えてくる。
「……あれ?」
石造りの家々に、よく手入れされた畑。村の中央には小さな井戸があり、その向こうでは古びた風車がゆっくり回っていた。
想像していたような不気味な場所ではない。
入口には、木製の看板まで立っている。
【ようこそ メビウス村へ】
「普通じゃん」
私が言うと、オラクルも村を眺めながら頷いた。
「そう見えるな」
「アルセウスより百倍まとも」
「比較対象が悪すぎんだろ」
少し安心しながら、私たちは村の中へ足を踏み入れた。
けれど。
数歩進んだところで、すぐに違和感を覚えた。
◇ ◇ ◇
静かすぎる。
人がいないわけではない。
畑では老人が鍬を振るい、家の前では女性が洗濯物を干している。子供たちも道を走り回っていた。
なのに、誰一人として喋っていない。
笑い声も。
呼びかける声も。
世間話さえ聞こえない。
「……なんか変だね」
私が声を出すと、それだけで妙に大きく響いた。
近くにいた村人たちが一度だけこちらを見る。しかし、すぐに何事もなかったように作業へ戻ってしまった。
「旅人に慣れてないのかな?」
「さぁな。ただ、歓迎されてる感じはしねぇ」
オラクルが小声で答える。
「とりあえず情報を集めるぞ。ナナから預かった荷札の出所が、この村なら何か知ってる奴がいるはずだ」
「うん」
私たちは村の中央にある井戸へ向かった。
そこに、小柄な老婆が一人立っている。
白髪を一本の長い三つ編みにまとめ、頭には深い紫色の頭巾。しわの刻まれた顔とは対照的に、瞳だけは妙に黒く澄んでいた。
「すみません」
声をかけると、老婆はゆっくりこちらへ顔を向けた。
「……旅人かい」
「はい。ちょっと聞きたいことがあって」
「なら、早く聞きな」
思ったより普通に返事をしてくれたので、少しだけ肩の力が抜けた。
私は鞄から、ナナさんに渡された古い荷札を取り出す。
「この村で、魔法の絵の具が作られてるって聞いたんです。この荷札にも《メビウス彩色工房》って書いてあって……」
その瞬間。
老婆の表情が変わった。
本当に一瞬だった。
けれど、確かに見えた。
「知らないね」
私は何も言わず、懐へ手を入れる。
☆3《真実のカード》が、淡い光を放っていた。
【FALSE】
「……」
私と老婆の視線が、同時にカードへ落ちる。
老婆が深いため息をついた。
「面倒なものを持ってるねぇ」
「やっぱり、知ってるんですね?」
「何をだい?」
再び。
【FALSE】
私は困ってカードを見る。
老婆も額を押さえた。
「……本当に嫌なカードだね、それは」
「すみません。でも、人が消えてるんです」
「……」
「この村から運ばれた魔法の絵の具が使われた絵に関わって、何人も姿を消したって聞きました。原因を調べたいんです」
老婆の黒い瞳が細くなる。
しばらく私を見つめたあと、諦めたように口を開いた。
「村の北に、古い工房がある」
「工房?」
「もう誰も使っちゃいないよ」
私の手の中で、《真実のカード》がまた光った。
【FALSE】
「……使われてるんですね」
老婆は、ものすごく嫌そうに私を見る。
「謝るくらいなら、そのカードをしまいな」
「ご、ごめんなさい」
言われた通り、私はカードを鞄へ戻した。
それでも、もう十分だった。
工房は今も使われている。
「北ですね?」
「行くなら勝手にしな」
老婆は私たちから視線を外し、井戸の方へ向き直った。
私は礼を言って離れようとした。
すると、背後から声が飛んでくる。
「ただし」
振り返る。
老婆は、こちらを見ていなかった。
「鐘が三回鳴ったら、どこにいても止まりな」
「止まる?」
「一歩も動いちゃいけない」
オラクルが眉をひそめる。
「何でだ?」
老婆は答えない。
代わりに、低い声で続けた。
「四回目が鳴るまでだよ」
◇ ◇ ◇
「絶対何かあるよね」
村の北へ向かいながら、私は言った。
「そりゃあるだろ」
「オラクル、もっと驚いてよ」
「俺はアルセウス育ちだぞ。怪しい婆さんに意味深なこと言われたくらいじゃ驚かねぇよ」
「それ、自慢になってないからね」
道の両側には、小さな石造りの家が並んでいた。
赤い屋根。
丸い窓。
玄関脇に置かれた植木鉢。
どれもよく似ている。
しばらく歩いたところで、私は一軒の家を見て足を緩めた。
「……ねえ」
「何だ?」
「さっき、この家通らなかった?」
「どれだ?」
「あれ」
玄関の横には青い花の鉢。
窓の下には、小さなひびが一本入っている。
オラクルは少し家を眺めた。
「似たような家が多いからな。別の家じゃねぇか?」
「そうかな……」
私は《聖なるマップ》を開いた。
現在地を示す光は、きちんと北へ進んでいる。
「地図は進んでる。じゃあ大丈夫かな」
私たちは再び歩き始めた。
そして十数分後。
私は立ち止まった。
道の脇に。
青い花の鉢。
窓の下には。
同じ場所に、同じ形のひび。
今度はオラクルも黙った。
「……さっきの家だよね?」
「ああ」
「でも、ずっと真っ直ぐ歩いてきたよ?」
「俺も一度も曲がった覚えはねぇ」
慌てて《聖なるマップ》を開く。
現在地を示す光は――。
さっきと同じ位置に戻っていた。
「地図まで……」
その瞬間。
村中に、大きな鐘の音が響いた。
カァン――。
私は顔を上げる。
老婆の言葉が頭をよぎった。
鐘が三回鳴ったら。
どこにいても止まれ。
カァン――。
二回目。
私とオラクルが顔を見合わせる。
カァン――。
三回目。
「止まれ!」
ほとんど同時に声を上げ、私たちはその場で足を止めた。
◇ ◇ ◇
静寂が訪れた。
村人たちも。
全員、止まっている。
畑で鍬を振り上げていた老人は、その姿勢のまま動かない。洗濯物を抱えた女性も、走っていた子供も、まるで彫像のように固まっていた。
風まで消えたように感じる。
「……何、これ」
私は口だけを動かして、小さく呟いた。
オラクルも身体を動かさず答える。
「分からん。とにかく婆さんの言う通りにしろ」
その時だった。
家と家の隙間を、何かが横切った。
白い影。
人間と同じくらいの大きさ。
でも。
歩いてはいない。
地面の上を、音もなく滑るように移動している。
一体だけではなかった。
二体。
三体。
いつの間にか村中の路地を、白い人影が行き交っている。
顔もない。
服もない。
ただ人の形だけをした、真っ白な何か。
そのうちの一体が。
こちらへ向きを変えた。
心臓が跳ねる。
影は音もなく近づいてくる。
私たちは動けない。
逃げた方がいいのかもしれない。
でも、老婆は言った。
三回目から四回目までは、一歩も動くな。
白い影が、私の目の前で止まった。
近い。
顔のない頭が、ゆっくり横へ傾く。
まるで。
私を観察しているみたいに。
「オラクル……」
「動くな」
白い腕が持ち上がった。
細い指先が、私の頬へ伸びてくる。
あと少し。
触れる。
そう思った瞬間。
カァン――。
四回目の鐘が鳴った。
白い影が、跡形もなく消えた。
◇ ◇ ◇
次の瞬間。
世界が動き出した。
止まっていた洗濯物が風に揺れ、子供たちが何事もなかったように走り始める。鳥の声まで一斉に戻ってきた。
本当に。
何も起きなかったみたいに。
「……今の、見た?」
「見た」
オラクルの尻尾が、普段の倍くらいに膨らんでいた。
私は思わず指差す。
「怖かったんでしょ」
「これは警戒だ」
「尻尾は正直だね」
「見るな!」
少しだけ笑った。
あまりにも怖かったから、笑えるだけで少し楽になった。
けれど。
すぐに、その笑いは消えた。
《聖なるマップ》の表示が変わっている。
【現在地:メビウス村】
その下。
【経過時間:3時間】
「……え?」
オラクルがこちらを見る。
「どうした?」
「鐘が鳴ってから……一分くらいしか経ってないよね?」
「ああ。長くてもそのくらいだ」
私は地図を見せた。
オラクルの表情から、完全に笑みが消える。
「三時間……?」
空を見上げた。
村へ入った時には高い位置にあった太陽が、いつの間にか西へ傾き始めていた。
「本当に、時間が飛んでる……」
メビウス村。
噂じゃなかった。
この場所では。
本当に何かがおかしい。
◇ ◇ ◇
それでも、工房へ行かないわけにはいかない。
今度は同じ道へ戻っても分かるよう、印を残しながら進むことにした。
オラクルが短剣を取り出し、道沿いの木へ一本ずつ傷をつけていく。
「これなら、同じ場所に戻ればすぐ分かる」
「頭いい」
「もっと褒めろ」
「盗賊じゃなかったらね」
「そこ関係ねぇだろ!」
一本。
二本。
三本。
何度も後ろを確認しながら、村の北端へ近づいていく。
そしてようやく。
木々の向こうに、一軒の古びた建物が見えてきた。
屋根は一部が崩れ、石壁には蔦が絡みついている。長い間放置されているように見えるのに、完全な廃墟という感じもしない。
扉の上には、色褪せた看板。
【メビウス彩色工房】
「ここだ」
オラクルが呟いた。
私は扉へ近づこうとして。
ふと。
振り返った。
さっきまで来た道。
木の幹。
「……オラクル」
返事はなかった。
でも。
オラクルも同じものを見ていた。
一本ずつ。
確かに付けてきたはずの傷が。
全部。
消えている。
「誰かが消したのかな……?」
「それだけじゃねぇ」
オラクルが地面を指差した。
私たちの足跡まで。
どこにもなかった。
まるで。
ここまで歩いてきたこと自体が――最初から存在しなかったみたいに。
「この村……何なの?」
その問いに、オラクルが答えることはなかった。
代わりに。
工房の中から。
老人の声が聞こえた。
「また来たのか」
私は身体を固くした。
「……また?」
ギィィ……。
古びた扉が、内側からゆっくり開いていく。
そこに立っていたのは、背の高い老人だった。
痩せた身体に、腰まで届く白い髭。右目には丸い片眼鏡をかけ、灰色の作業着には赤や青、黄色の絵の具が何層にもこびりついている。
老人は私の顔を見た。
そして。
まるで今日何度も交わした挨拶でもするように、平然と言った。
「今日はこれで――三回目だな、お嬢ちゃん」
指が三本立てられる。
私は言葉を失った。
「……え?」
この人に会った記憶なんてない。
一度も。
「初めまして……ですよね?」
老人は静かに笑った。
「それも」
少し間を置いて。
「三回目に聞いたよ」
その瞬間。
《聖なるマップ》が激しく光った。
【WARNING】
【記憶欠損を検知】
「……記憶?」
頭へ手を当てる。
私。
忘れてる?
この工房へ。
もう二回来ている?
老人の向こう。
工房の壁に、一枚の紙が貼られていた。
そこに書かれている字を見た瞬間。
背筋が冷たくなった。
見覚えがある。
私の字だった。
【次の私へ】
【オラクルを信用して】
【鐘が鳴っても――】
その先だけが。
真っ赤な絵の具で、完全に塗り潰されていた。
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