2.調査
「お嬢様……お嬢様」
柔らかな声が耳に届いた。クリステアが瞼を開くと、見慣れた白い天井が目に入った。窓から差し込む朝の光が、薄いカーテンを揺らしている。牢ではない。毎朝目を覚ましてきた、自分の寝室だった。
「……え?」
上体を起こすと、専属メイドのアナが水差しを抱えて立っていた。
「お気分はいかがですか?」
冷たい石壁も、鉄格子もない。
クリステアは差し出された水を受け取った。震える手の中で、水面が細かく揺れる。
「……法廷は?」
アナが目を瞬かせた。
「法廷、でございますか?」
「昨日、裁判があったでしょう?」
「何のお話でしょう?」
本当に何も知らない顔だった。クリステアは掛布をはねのけた。
「今日は何日?」
アナが答えた日付を聞き、息をのむ。六か月前。死刑を言い渡された日から、六か月も前だった。
「お嬢様は昨夜、遅くまで帳簿をご覧になっていて、執務室で倒れられたのです」
「帳簿……」
クリステアは寝間着の上から羽織をまとい、部屋を飛び出した。運命改ざんによって過去へ戻ったのだろうか。けれど、何が起きるかは誰にも分からない。時間だけが巻き戻ったとは限らなかった。
執務室へ入ると、机の上には何冊もの帳簿が積まれていた。クリステアは一番上の帳簿を開き、不正な取引や隣国への送金につながる記録を探した。
何もない。法廷で証拠とされた裏帳簿は、まだ存在していないらしい。代わりに、別の違和感が見つかった。去年、西部地方で起きた不作の原因は干ばつだったはずだ。しかし帳簿には、長雨による病害と記されている。
薬草の仕入れ先も違っていた。数量も、価格も、取引を変更した理由さえ、クリステアの記憶とは一致しない。
「世界そのものが、少しずつ変わっている……」
運命改ざんは、ただ六か月前へ戻しただけではない。それ以前の出来事まで書き換えている。何が、どこまで変わったのか。クリステアには確かめる術がなかった。
扉が軽く叩かれ、アナが顔をのぞかせた。
「旦那様が朝食の席でお待ちです。このあと商会へ出かけられるそうです」
胸が大きく跳ねた。ダレン。法廷で、悲しむ夫を演じながら冷たい目でクリステアを見ていた男。今すぐ問い詰めたい。けれど、今のクリステアには証拠がない。
六か月後、あなたは私を国家反逆者に仕立てるつもりなの?そう尋ねたところで、警戒されるだけだ。
「すぐに行くわ」
身支度を整えて食堂へ向かうと、ダレンはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「おはよう、クリステア。もう起きて大丈夫なのかい?」
「少し疲れていただけです」
「倒れるまで仕事をするなんて、もっと体を大切にしないと」
優しい口調だった。以前なら、その気遣いを嬉しく思っただろう。けれど今は、すべてが演技に見える。
ダレンは自然な手つきで紅茶をクリステアの前へ置いた。誰が見ても、妻を思いやる理想的な夫だった。だからこそ恐ろしい。
「今日は商会へ?」
「ああ。午後には戻るよ」
クリステアは何げない会話を続けながら、ダレンの顔を観察した。疑わしいものは何も見つからない。
食事を終えたダレンは、いつもどおり穏やかに別れを告げ、屋敷を出ていった。馬車が門の向こうへ消える。運命が変わっても、ダレンの本質まで変わったとは思えなかった。
あの未来が存在した以上、彼はすでに何かを始めているはずだ。六か月ある。その間に真実を突き止めなければいけない。
父母は伯爵位をクリステアへ譲り、今は領地の北にある屋敷で暮らしている。兄は家督を辞退し、王立学院の研究者となった。
ダレンは婿入りと同時に、伯爵家が所有する商会の運営を任されていた。もし商会を利用して何かを進めているのなら、帳簿を管理するクリステアにも気づかれない方法を用意しているのだろう。
家族へ相談することも考えた。しかし、今の段階で示せる証拠は何もない。まずは事実を確かめる必要がある。
そこで、以前兄から聞いた調査事務所を思い出した。表沙汰にできない依頼を扱い、貴族の秘密も決して漏らさないという。
翌朝、クリステアは一人で屋敷を出た。馬車は旧市街の外れで止まった。看板もなく、普通の商家にしか見えない建物だった。扉を叩くと、年配の男が顔を出した。
「ご依頼ですか」
男はクリステアを質素な応接室へ案内した。
「ヴィクトルと申します。この事務所を預かっています」
「クリステアです」
姓は名乗らなかった。
「調べていただきたい人物がいます」
「ご主人ですか」
思わず目を見開く。ヴィクトルは肩をすくめた。
「この仕事を長くしておりますと、依頼人の表情で分かるものです」
「夫です」
「何を調べましょう」
「浮気をしているかどうか。それから、誰と会い、どこへ出入りしているのか。金の流れもお願いします」
「かなり広い調査になります」
「構いません。できるだけ詳しく」
ヴィクトルはクリステアを見つめた。
「危険なことに関わっているかもしれないと?」
「分かりません。だから確かめたいのです」
法廷のことを話しても、信じてもらえるはずがない。
「一週間ほどいただければ、最初の報告はできます」
「できるだけ早くお願いします」
契約を終えて屋敷へ戻ると、ダレンはまだ帰っていなかった。クリステアはそのまま夫の書斎へ向かった。机の引き出しや書棚を調べる。契約書も、商会との書簡も、表向きは何の問題もない。
諦めかけたとき、書棚と机の間に隠れるように置かれた小さな金庫が目に入った。番号錠と鍵穴が付いている。結婚して二年になるのに、こんなものがあることさえ知らなかった。無理に開ければ、すぐに気づかれる。クリステアは金庫の位置だけを記憶し、書斎を出た。
調査事務所から連絡が届いたのは、それから五日後だった。
ヴィクトルは一冊の報告書を机へ置いた。
「ご主人は商会へ向かうと言って屋敷を出ていますが、午後になると南区へ移動しています」
地図の上に示された建物には、若い女性が住んでいた。
エミリア・ローデン。二十一歳。
ダレンが家賃や生活費を支払い、頻繁に部屋を訪れているという。
二人の関係を示す記録を見ても、クリステアは泣かなかった。法廷で裏切りを知ったときに、涙まで失ってしまったのかもしれない。
「それだけではありません」
ヴィクトルは報告書をめくった。
「週に一度、東門近くの酒場で三人の男と会っています」
「身元は?」
「まだ分かりません。ただ、この国の者ではない可能性があります。訛りが隣国の言葉に近いそうです」
クリステアの胸が大きく脈打った。法廷、国家反逆罪、隣国への物資の横流し。やはり、すべては悪夢ではなかった。六か月前に戻ったことで、計画が完成していないだけなのだ。
「引き続き、男たちを調べてください。それから、ダレンの金の出どころも」
「承知しました」
クリステアは少し迷ってから付け加えた。
「危険だと判断したら、すぐに手を引いてください」
屋敷へ戻ると、父と兄へ手紙を書いた。愛人の存在。隣国の者らしき男たちとの密会。書斎に隠された金庫。判明したことをすべて記し、最後に一文を添えた。
『伯爵家が乗っ取られようとしている可能性があります』
今度こそ、手遅れになる前に止めなければならない。




