1.冤罪
「被告、クリステア・エヴァンス。隣国への内通、および国家機密の漏洩による国家反逆の罪に問う」
裁判長の声が、高い天井に冷たく響いた。法廷は静まり返り、傍聴席からも物音一つ聞こえない。
何かの間違いだ。そう訴えたかったのに、喉が張りつき、声が出なかった。証拠台には何冊もの帳簿や取引記録が並べられている。どれも見覚えがない。しかし、その頁を埋める文字は、誰が見てもクリステアの筆跡だった。
「こちらは被告が二年間にわたり、隣国へ物資を横流ししていた記録です」
検察官が帳簿を開く。小麦、魔鉱石、薬草。取引の日付、数量、金額、受け渡し場所まで細かく記されていた。
クリステアは伯爵家の帳簿をすべて管理していた。だから断言できる。そんな帳簿は存在しない。
「違います」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「私は、このようなものを書いていません」
「では、この筆跡についてはどう説明されますか」
「誰かが偽造したのです」
そう答えた瞬間、自分でもまともな反論になっていないと分かった。文字の癖も、数字の書き方も、すべて自分そのものだった。
専門家まで本物と認めた筆跡を、ただ偽造だと言っても信じてもらえるはずがない。
続いて証人が呼ばれた。料理長、庭師、執事。十年以上伯爵家に仕えてきた者たちだった。
「奥様の命令で、深夜に荷馬車を裏門から出入りさせました」
「奥様が隣国の男と会っているところを見ました」
「この帳簿を書いている姿も何度か目にしております」
一人、また一人と証言を重ねていく。全部、嘘だった。それなのに、誰一人としてクリステアと目を合わせようとはしなかった。長年信頼してきた使用人たちが、今は皆、敵になっていた。
クリステアはゆっくりと傍聴席へ目を向けた。そこにダレンがいた。二年前、政略結婚によってエヴァンス伯爵家へ婿入りした夫。
女性当主の夫には爵位の継承権が与えられる。クリステアが死ねば、ダレンが伯爵家のすべてを継ぐ。これまで一度も彼を疑ったことはなかった。ダレンは表面的には悲しみに耐える夫の顔をしていた。だが、クリスティアには分かる。彼の瞳の奥は冷たく、何の感情も映していなかった。その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
すべて、この人だったのだ。裏帳簿を用意し、使用人を買収し、自分を国家反逆者へ仕立て上げた。そして今なお、愛する妻を失う夫を演じている。
「被告クリステア・エヴァンスを、国家反逆罪により死刑に処する」
裁判長の宣告だけが、何度も頭の中で響き続けた。処刑は二日後。重い鉄扉が閉まり、クリステアは薄暗い牢へ閉じ込められた。クリステアはその場へ崩れ落ちた。
どうして。何度考えても、その言葉しか浮かばない。法廷で読み上げられた帳簿はすべて偽物だった。けれど、それを証明する術はもう残されていない。使用人たちまでダレンの側についてしまった今、誰も信じてはくれない。
結婚して二年。政略結婚だったとはいえ、ダレンはいつも穏やかだった。仕事で帰りが遅くなれば温かいお茶を淹れ、疲れた日には優しく声を掛けてくれた。あれも、すべて演技だったのだろうか。
「嘘だったの……」
返事はない。
聞こえるのは見張りの足音だけだった。
二日後には処刑される。伯爵家はダレンのものになり、自分は国家反逆者として歴史に残る。父や兄にまで、その汚名は及ぶだろう。
そのとき、不意に幼い日の記憶がよみがえった。
父と母が、真剣な表情でクリステアを見つめている。
『クリステア。この力だけは、決して使ってはいけない』
『運命は一本の糸ではないの』
母は静かに続けた。
『世界中の人の人生が織り重なって、一枚の布になっている。一本の糸を動かせば、どこまで変わるか誰にも分からない』
『だから、どんなことがあっても使ってはいけない』
その言葉の意味は、幼い頃には理解できなかった。ただ、両親が心から恐れていたことだけは覚えている。クリステアが持つ唯一つのスキル。運命改ざん。過去に例がなく、何が起こるのか、誰にも分からない。だから二十五年間、一度も使わなかった。
だが――
クリステアは静かに顔を上げた。このまま処刑されれば、すべて終わる。伯爵家も、家族も、自分の人生も奪われる。今使わずに、いつ使うというのか。
クリステアは目を閉じ、両手を強く握り締めた。
「お願い……」
震える声で祈る。
「私が死ななくてすむ運命に変えて」
何を変えればいいのかは分からない。裁判か、ダレンの計画か、それとも、もっと前なのか。
ただただ、強く願った。生きたい。真実を知りたい。伯爵家を守りたい。
その瞬間、世界から音が消えた。視界が漆黒に染まり、果てのない闇へと沈んでいく。
次の瞬間、クリステアの意識は完全に途切れた。




