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また、春

また、春が来ている。


駅前の並木の下を、高槻颯太が歩いていく。隣に、日傘の似合う女の子。何の翳りもない歩幅で、二人は角を曲がって、人混みに混ざって、見えなくなる。


大学のサークル棟の前で、聞き覚えのある声がする。


「いや、俺は言いたいんだけど。メイド服より魔法少女の方がシコい。これは真理」


「はいはい」


新歓のビラを配りながら、伊藤和真が言い、鈴木悠介が受け流す。四年前と、一語も変わらない。変わらないまま、春の風に混ざって流れていく。


別の街の、別の店の控え室で、星斗が新人に教えている。


「継続意向っすよ。式があるんで、それ」


新人は熱心にメモを取っている。星斗は、新人の名前をまだ覚えていない。


公民館の和室で、月影るかが子どもたちの前に座っている。学校に行っていない子、行けない子、九人。畳の上に、低い机が三つ。教材は寄付されたもので、揃っていない。揃っていないなりに、今日の分は今日できる。るかは九人の名前を、初日から全員、覚えている。


「せんせー、これ芸名?」


「本名です」


「じゃあ、ほんとに月の影なんだ」


「そう。だから夜に強い」


嘘である。子どもたちは半分だけ信じた顔をして、プリントに戻る。るかは机の間を回りながら、一人ずつ、名前で進み具合を訊いていく。名前で呼ばれた子は、名前の分だけ、顔を上げる。


撮影会の隅で、悠介がカメラを構える。ファインダーの先に、入ったばかりの新人の子。レンズが、少し下がって、下りる。悠介はカメラを首に掛け直し、「衣装、自分で作った?」とだけ言って、離れていく。


支援団体の事務所は、雑居ビルの二階の一室で、昼は電話番が要る。風岡あかりは週三でそこにいる。かかってくる電話の半分は間違い電話で、四分の一は行政の案内で、残りが、本題だ。本題の電話は、最初の十秒が無言のことが多い。無言の十秒を、切らずに待つのが仕事だと、ここで教わった。


夜は、アパートの部屋で帳簿をつけている。支援団体の、小さな会計。横文字は、もうどこにもない。行方不明者届の控えと、支援窓口の一覧と、りあのページの写しが、同じファイルに入っている。ファイルの一番前は、ローンの契約書の写しだ。ああいう契約は、あとから争える場合があると、無料相談の弁護士が教えてくれた。本人が、戻ったら。内ポケットには、ビー玉が一つ、入っている。


深夜、スマホが一度だけ震える。


鍵のかかったアカウントに、更新が一件。


中身は、見えない。どのアカウントの通知かも、画面を開くまでは分からない。あかりは画面を開かずに、しばらくスマホを両手で持っている。それから、開く。


繁華街の外れのビルに、鳳ゆずきがいる。夜の相談窓口の、待合の長椅子。壁のパンフレットは、何度も補充された角の丸まり方をしている。家は、この件を恥として静かに片づけたがった。その沈黙の外に鳳が出たのは、二ヶ月前だ。鳳がここに座るのは、週に一度。できることは少ない。書類の項目を一緒に読む。読み方の分からない項目に、印をつける。それだけのことの隣に、いる。


今夜の隣には、目の腫れた女の子が座っている。初めて来た子だ。書類の書き方が分からなくて、泣きそうになっている。


鳳は何も訊かない。紙袋から、自分の分の温かいたい焼きを一つ出して、黙って差し出す。


女の子は、少し迷ってから、頭から食べる。半分ほど食べて、小さく言う。


「……あんこ、尻尾まで入ってますよ」


「知ってる。計画性の問題よ」


鳳は、少しだけ笑う。笑うと、威厳のない顔になる。その顔で、隣に座り続けている。


遠い街に、新しい店がある。


看板には、Rebirthとある。開店祝いの花が、まだ廊下に並んでいる。店内は新品の匂いがする。ソファの革、床のワックス、袋から出したばかりの布の匂い。歴史のない匂いの真ん中で、初めて見る顔の男が、若いスタッフの相談を聞いている。整った、記憶に残らない顔だ。男は最後まで聞いて、手元のカップの取っ手の向きを、指先で一度だけ直して、それから言う。


「ふーん、面白いね。でも、君はどう思ってる?」


——


前の日、のんは駅二つ先の美容室にいる。


雑居ビルの二階、椅子は二つ。めぐみさんは六年前と同じ速さで鋏を動かす。明日、イベントなんだ、と言うと、そう、とだけ返ってくる。何のイベントかは訊かれない。訊かれないまま、仕上がりは明日のためのものになっている。


会計のとき、店の奥の小上がりに、雑誌を読んで待っている女性がいるのが見える。めぐみさんがその人に「あと十分ね」と声をかける。店の声と、少しだけ違う声で。


のんは何も訊かない。ドアの鈴が鳴って、外は春だ。


小さなイベント会場に、のんがいる。


フォロワーの数字は、もう誰にも配られていない。控え室の鏡の前で、支度をする。ウィッグ。カラコン。最後に、ペンダントを——


握らずに、着ける。


めぐみさんに直してもらったばかりの金髪の上から、ウィッグを整えて、あの戦士の衣装の襟を正す。いまの身体に、寸法を引き直した衣装。誰の指名でもない。誰の依頼でもない。


客席は、五十人も入れば一杯になる。今日いるのは三十人ほどで、年配の写真好きと、学生のグループと、子どもを連れた家族が一組。誰も番号札を持っていない。


ステージともいえない、小さな段の上で、マイクを渡される。


「えー、っと。『のん』です。男とか女とか、どっちでもないので、のん、って呼んでください。……名前だけ、覚えて帰って」


客席が、あたたかく笑う。拍手は、まばらで、値段がつかない。


その客席の一番後ろの隅に、鳳が立っている。誰に頼まれたのでもなく、自分で電車に乗って、自分で来た。いま名乗った名前の、下に何があるかを、この会場でただ一人知っている観客として、まっすぐ立って、見ている。


終演後、会場は三十分で畳まれていく。パイプ椅子が重ねられ、長机が壁に寄せられ、養生テープが剥がされる。主催の人が「来月もやるんで」と言って回っている。来月もある、という規模の会だ。


会場の隅に、中学生くらいの子が一人、竦んでいる。


手作りと分かる衣装。合っていないウィッグ。誰にも声をかけられず、誰にも写真を頼めず、帰るタイミングだけを探している。四年前、画面の向こうでDMを打っていた子と、同じ年頃だ。


のんは、歩み寄る。しゃがんで、目の高さを合わせる。


「衣装、自分で作った?」


その子は、こくりと頷く。


のんは、首の後ろに手を回して、鎖を外す。青い石の、横倒しの星。掌にのせて、差し出す。


「あげる。……天王星ってね、革命の星なんだ」


その子が、おそるおそる受け取る。掌の星を見て、のんを見て、もう一度星を見る。その往復を、三回する。


その子は星を握った。握り方は、正しかった。


会場の扉が開いて、春の風が通る。


帰り道の商店街は、夕方の買い物の時間で、パン屋の前に自転車が三台停まっている。八百屋の店先の値札が風にめくれて、めくれたまま、誰も直さない。春の埃と、揚げ物の匂いと、遠くの校庭の掛け声。


風は、衣装の裾を鳴らし、ビラの束をめくり、街へ抜けていく。どこかの部屋で、誰かの新しい衣装の、ミシンの音がしている。

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