↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/55

⑩ 帳簿の夜

記者に原本を渡す前の晩、のんは借りた車の中で、帳簿を最初から読んだ。


事務所は、もう信用していなかった。部屋も、信用していなかった。コインパーキングの車の中だけが、その週、彼女の金庫だった。


りあのページは、六月から始まっていた。


初個撮。場代。指名。クリニック。ローン。眼帯の衣装の行。数字は上がって、折れて、落ちて、十一月の末で、行が終わっていた。終わりの行の余白に、あかりの蛍光ペンの印が残っていた。


「……露草、りあ」


声に出して、読んだ。


この帳簿の中で、この子はずっと、IDと数字だった。名前で読んだのは、書いた本人たちの中で、今夜が最初だった。名前は、いつでも読めた。読まなかったのは、読まないと決めていたからだ。


翌日、受け渡しの三時間前に、車上荒らしに遭った。


割られたのは窓ではなく、鍵だけだった。座席の下の紙袋から、帳簿の原本だけが消えていた。現金は、残っていた。財布も、機材も、残っていた。仕事は完璧で、完璧さが署名だった。


警察は呼ばなかった。呼んで説明できる持ち物ではなかった。


記者とは、それでも会った。写しは、渡してあった。


十日後、駅前の喫茶店で、記者は先に座っていた。四十分読んだ日と同じ席で、今日は、何も読んでいなかった。


「載らない」


「……写しがあるじゃん。カルテだって、ローンの会社だって」


「載らない。理由は聞くな」


記者は、コーヒーを一口飲んだ。


「聞くなっていうのは、俺が答えを知らないからだ。原稿は上げた。デスクも通った。その上のどこかで、消えた。どこの誰が消したのか、俺の位置からは見えない。……あんたの帳簿が盗まれた話と、俺の原稿が消えた話は、多分、別々の作業だ。別々に、両方、済まされた」


「アタシ、自分の分も載せてって言ったよね」


「言ったな」


「加担も、取り分も、全部書いていいって。……それごと、消えたわけ」


「そうなる」


記者は、伝票を取って立ち上がり、立ち上がってから、名刺をもう一枚、テーブルに置いた。裏に、手書きの番号があった。


「会社の回線は、ああいうことになる。こっちは、ならない。……何か出たら、いつでも」


「……載らないのに?」


「載らない、が、いつまで続くかは、誰にも決められてない」


その夜、部屋に戻って、のんは電卓も開かずに、チラシの裏で算術をした。


場代と紹介料で、月に二十と少し。二年で、ざっと五百。りあのページは、収入の行を足すと七十と少しで、支出の行は百を超えていた。差は、どの行にもない。行にならない場所に流れた分だ。帳簿を盗む作業は、慣れた人間なら一人と車一台。記事を消す作業は、多分、電話一本。電話の通話料は、向こうの帳簿にすら載らない。


数字は、粗くても揃った。揃った答えは、単純だった。のんの二年は、向こうの帳簿では、回収済みの投資と、少額の処理費用だった。裁判も、報復も、要らなかった。経理で、済んだ。


アタシの反乱は、経費で落ちた。


窓の外で、一月の月が、電線の上にあった。


アタシは、誰に負けたんだろう。


答えは、来なかった。来ないことが、答えの形をしていた。


机の上に、一枚だけ残っていた。原本を読み返した晩、膝の上に出して、そのまま鞄に入れっぱなしだった、りあのページの写し。数字の行の頭に、名前の欄があった。


翌日、のんはそれをあかりに渡した。


「捜すなら、これ」


あかりは、両手で受け取った。受け取り方が、賞状みたいだった。


「……のんは、どうするの」


「アタシは」


言いかけて、のんは、続きを今日決めるのをやめた。


「……畳む。まず、それから」


帰り道の電車は、空いていた。膝の上の鞄は、写しが一枚出ていった分だけ、軽かった。


空いた分から、自分の分を始める。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。