⑩ 帳簿の夜
記者に原本を渡す前の晩、のんは借りた車の中で、帳簿を最初から読んだ。
事務所は、もう信用していなかった。部屋も、信用していなかった。コインパーキングの車の中だけが、その週、彼女の金庫だった。
りあのページは、六月から始まっていた。
初個撮。場代。指名。クリニック。ローン。眼帯の衣装の行。数字は上がって、折れて、落ちて、十一月の末で、行が終わっていた。終わりの行の余白に、あかりの蛍光ペンの印が残っていた。
「……露草、りあ」
声に出して、読んだ。
この帳簿の中で、この子はずっと、IDと数字だった。名前で読んだのは、書いた本人たちの中で、今夜が最初だった。名前は、いつでも読めた。読まなかったのは、読まないと決めていたからだ。
翌日、受け渡しの三時間前に、車上荒らしに遭った。
割られたのは窓ではなく、鍵だけだった。座席の下の紙袋から、帳簿の原本だけが消えていた。現金は、残っていた。財布も、機材も、残っていた。仕事は完璧で、完璧さが署名だった。
警察は呼ばなかった。呼んで説明できる持ち物ではなかった。
記者とは、それでも会った。写しは、渡してあった。
十日後、駅前の喫茶店で、記者は先に座っていた。四十分読んだ日と同じ席で、今日は、何も読んでいなかった。
「載らない」
「……写しがあるじゃん。カルテだって、ローンの会社だって」
「載らない。理由は聞くな」
記者は、コーヒーを一口飲んだ。
「聞くなっていうのは、俺が答えを知らないからだ。原稿は上げた。デスクも通った。その上のどこかで、消えた。どこの誰が消したのか、俺の位置からは見えない。……あんたの帳簿が盗まれた話と、俺の原稿が消えた話は、多分、別々の作業だ。別々に、両方、済まされた」
「アタシ、自分の分も載せてって言ったよね」
「言ったな」
「加担も、取り分も、全部書いていいって。……それごと、消えたわけ」
「そうなる」
記者は、伝票を取って立ち上がり、立ち上がってから、名刺をもう一枚、テーブルに置いた。裏に、手書きの番号があった。
「会社の回線は、ああいうことになる。こっちは、ならない。……何か出たら、いつでも」
「……載らないのに?」
「載らない、が、いつまで続くかは、誰にも決められてない」
その夜、部屋に戻って、のんは電卓も開かずに、チラシの裏で算術をした。
場代と紹介料で、月に二十と少し。二年で、ざっと五百。りあのページは、収入の行を足すと七十と少しで、支出の行は百を超えていた。差は、どの行にもない。行にならない場所に流れた分だ。帳簿を盗む作業は、慣れた人間なら一人と車一台。記事を消す作業は、多分、電話一本。電話の通話料は、向こうの帳簿にすら載らない。
数字は、粗くても揃った。揃った答えは、単純だった。のんの二年は、向こうの帳簿では、回収済みの投資と、少額の処理費用だった。裁判も、報復も、要らなかった。経理で、済んだ。
アタシの反乱は、経費で落ちた。
窓の外で、一月の月が、電線の上にあった。
アタシは、誰に負けたんだろう。
答えは、来なかった。来ないことが、答えの形をしていた。
机の上に、一枚だけ残っていた。原本を読み返した晩、膝の上に出して、そのまま鞄に入れっぱなしだった、りあのページの写し。数字の行の頭に、名前の欄があった。
翌日、のんはそれをあかりに渡した。
「捜すなら、これ」
あかりは、両手で受け取った。受け取り方が、賞状みたいだった。
「……のんは、どうするの」
「アタシは」
言いかけて、のんは、続きを今日決めるのをやめた。
「……畳む。まず、それから」
帰り道の電車は、空いていた。膝の上の鞄は、写しが一枚出ていった分だけ、軽かった。
空いた分から、自分の分を始める。




