45/55
⑥ 換気扇
年の瀬に、母から電話が来た。二年ぶりだった。
「元気にしてるの」
「うん」
「お父さんがね、最近、腰が悪くて」
「そう」
換気扇の音が、電話の向こうでしていた。あの台所の換気扇は、冬でも回しっぱなしだった。音の記憶だけが、正確に戻ってきた。
「あんたも、いろいろあるだろうけど」
母は、何も知らずに言った。何も知らないことに、多分、努力は要らなかった。この人は知らないでいることを、呼吸と同じ速さでやる。
「あんたは強い子だから、大丈夫よね」
のんは、天井を見た。
昔なら、この一言で電話を切っていた。切って、三日は使いものにならなかった。強い子。免責の言葉。娘を強い子にしたのは誰の家か。
今夜は、切れなかった。
換気扇の音の向こうにいるのは、怪物ではなかった。回しっぱなしの換気扇と、腰の悪い夫と、二年かけた一本の電話の中に住んでいる、逃げ場の設計を一度も思いつかなかった人だった。
軽蔑は、長いあいだ、のんの燃料だった。燃料が、手の中で静かに湿っていくのが分かった。憎むより先に、見えてしまった。
「……うん。大丈夫」
用が済むと、電話は向こうから切れた。のんは部屋の鍵を見た。内鍵、二つ。




