④ 育てた中で
十二月に入ってから、匂いが読みにくくなっていた。
新規の顔合わせで、甘いのか饐えているのか、決めきれないことが二度あった。二度とも、断った。断る判断が遅れたこと自体が、初めてだった。古い柔軟剤の匂いが、しないはずの場所で、した。
そういう冬だった。
桐生に呼ばれたのは、クリスマスの装飾が出揃った頃だった。ホテルのラウンジ。彼はいつも通り、時間ぴったりに現れた。スーツに皺はなく、指には何もはめていない。席につくと、運ばれてきたカップの取っ手の向きを、指先で一度だけ直した。それから、いつも通り、急がない声で話し始めた。
「例の記者の件、聞いてるよ」
「……そう」
「怒ってないよ。ただ、事務の話をしに来た。君の商売、今月で一回、畳もう」
「は?」
「畳む、って言い方が悪いか。凍結。ほとぼりの問題だから」
「アタシの商売を、なんであんたが」
桐生は、コーヒーに口をつけた。
「のんちゃん。土曜夜の枠、誰が押さえてると思う? 場代の値引き、誰の紹介? 変な客が消えるの、誰が片付けてる? 君んとこのトラブル、この二年で表に出たの、何件?」
数字が、順番に、のんの中で棚から落ちた。
ゼロ件。出なかったのではない。出させなかった誰かがいた。土曜の枠。二割の値引き。出禁になった男。心当たりのない追い風。帆を張ったのは自分だった。風を吹かせていたのは。
「……最初から?」
「最初から、っていうのは、君の帝国の最初から、って意味ならそうだね」
彼は、事もなげに言った。
「君は僕が育てた中で、一番見込みのある子だよ」
育てた中で。
複数形が、静かに床に落ちて、転がった。
「……アタシは」
「うん?」
「アタシは、あんたを使ってるつもりだった」
「知ってる。そう思ってもらうのが、僕の仕事だから」
桐生は、責める顔も、勝ち誇る顔もしなかった。経費の説明をする顔だった。
「そんな顔しないでよ。君は優秀だった。嗅覚だけで、あそこまで作った子は初めて見た。……途中で枯れた子も、何人もいたけどね。だから君には、資本を入れた。それだけの、普通の話」
説明の順番に、よどみはなかった。育成の話も、枯れた子の話も、資本の話も、同じ均された声で続く。どれも、彼が考えたというより、ずっと前から順番の決まっている話のように聞こえた。
窓の外で、ビルの赤い航空障害灯が、一定の間隔で点いては消えた。桐生はふと、その光を見て、続けた。
「母はね、死の際にいても、あの頃の霊名で僕を呼ぶよ」
事務連絡と同じ平坦さだった。親密の一言を、天気の話と同じ重さで置く。のんは、これも道具かもしれないと思った。思ったそばから、確かめる鼻が自分にないことも、分かっていた。
「——で、凍結の間の在庫の話なんだけど。衣装と機材、倉庫はこっちで持てる。——といっても、その倉庫も、僕が誰かから借りてる場所なんだけどね。君はどう思う?」
のんは、目の前の男の匂いを探した。何度目かの、いつもの癖だった。
何も、匂わなかった。最初の日から、この男は何も匂わなかった。それを安全と読んだのは、どこの誰の鼻だったか。
「……在庫は、自分で持つ」
声は、思ったより普通に出た。普通に出たことだけが、その日の収穫だった。
ラウンジを出て、エレベーターの鏡に、自分が映った。金髪と、コートと、いつもの顔。いつもの顔をしている、と確認して、確認したこと自体が今日の敗北の続きだと分かった。鏡は一階に着くまで、ずっと同じものを映していた。
外は、乾いた冬の匂いがした。排気と、どこかの店の揚げ油と、冷えた鉄の匂い。全部、ちゃんと匂った。読めなかったのは、あの男一人だけだった。会う前から、ずっと。
上等。
と、そこで止まった。続く言葉が、来なかった。いつも来る続きが、呼んでも、来なかった。
信号が変わって、のんは横断歩道を渡った。




