⑩ 鍵を置く
図書館のカウンターで、名前を呼ばれた。
「風岡さん、でしょう。返却、こっちで受けます」
嘱託の職員の名札に、月影とあった。附属で騒いで、いなくなったという先生だ。そこまで思い出して、足が止まった。コスプレ部の顧問だった月影先生を、あたしはもう、噂の形でしか思い出せなくなっていた。
「……先生」
「あなたたちのこと、覚えてるだけ。附属の頃から」
月影るかは、返却の本にスタンプを押しながら、顔を上げずに言った。
「露草さん、最近見ないね。春頃、よく二人で来てたでしょう。……あの子ね、夏に借りた本が返ってきてないの。督促を三回出して、三回とも戻ってきた。宛先不明で」
スタンプの音が、一回鳴った。
「昔ね、似たようなことがあったの。私は、気づくのが遅くて、気づいてからのやり方も間違えた。だから今のあなたに言えるのは一つだけ。気づいてるなら、遅いなんてことはないよ」
二回目のスタンプが鳴って、それで会話は終わりだった。あたしは礼を言ったのか言わなかったのか、覚えていない。閲覧室の出口で振り返ると、月影るかはもう次の学生の本を受け取っていた。
その足で、のんの部屋へ行った。
言うことは、来る道で並べてきた。りあの件。バンの意味。クリニックの領収書の行が、何の順番で増えていくか。督促の葉書が、宛先不明で戻る住所のこと。自分たちの帳簿が、あの会議室でグラフになって映っていたこと。
のんの部屋は、相変わらず片付いていた。衣装のラックが壁一面にあって、生活の物が少ない。ケトルでお茶を淹れてくれるあいだ、あたしは並べてきた言葉の順番を、もう一度確かめていた。
のんは、最後まで聞いた。聞き終わって、お茶を一口飲んだ。
「……で?」
「で、って」
「りあのことは、気の毒だったと思ってる。ほんとに。でも、あの子は自分で選んで店に行った。アタシたちの規約の外の話でしょ」
「外に出る道を舗装したのは、うちだよ」
「舗装しなくても、道はある。うちがやめても、別の誰かが仕切るだけ。だったら、ちゃんと管理できる側が持ってた方がマシ。……あかりだって、ずっとそう言ってたじゃん」
言っていた。その通りだった。自分の持論が、自分の声のまま、向かいの席から返ってきた。持論というのは、手放そうとした瞬間に、いちばんよくできて聞こえる。
「のん。うちの客筋も、場所も、トラブルの片付けも、あの人の息がかかってる。うちはもう、うちじゃない。あんたが管理してるんじゃなくて、あんたごと管理されてる」
のんの顔から、表情が一段消えた。
「——もう少し、様子を見る」
「様子を見てる間に、次のりあが入ってくる」
「あかり」
のんの声は、低くならなかった。営業の声のまま、静かだった。
「アタシは、降りない。ここで降りたら、今までのが全部、ただの搾取になる。上まで行って、作り替える。そのために積んできた」
「……そう」
あたしは、鞄から帳簿の一式とサークルの鍵を出して、テーブルに置いた。鍵は、小さい音を立てた。置いてから、鍵にまだ自分の家の鍵と同じリングの痕がついているのに気づいた。
「あたしは、降りる」
のんは、鍵を見て、あたしを見て、何も言わなかった。引き留めの言葉の在庫が、この人にないのは知っていた。引き留めというのは、この人の帳簿にない項目だった。帳簿にない項目をこの部屋で最初に口にしたのが誰だったのか、あたしはドアを閉めてから考えて、途中でやめた。考えて楽になる種類の問いではなかった。
外階段を降り切ったところで、スマホが鳴った。
《あかりちゃん、お疲れさま。最近ちょっと疲れてるって聞いたよ。よかったら今度、ご飯でも。ゆっくり話そう》
差出人の名前を見なくても、文面で分かった。句読点まで、清潔だった。誰から「聞いた」のかは、書かれていなかった。書かれていないことが、この文面のいちばん大きな情報だった。
返信はしなかった。画面を消して、ポケットに入れて、それでも手はポケットの中でスマホを握ったままだった。十一月の夜風が、外階段の下を音だけ残して通っていった。自転車の鍵を外す指が、少しだけ冷たかった。
冬期講習の申込書は、まだ机の引き出しにある。月曜の夜、あたしは新しい手帳の最初のページに、四十二万八千円と書いた。書いただけで、下に足す数字は、まだ一つもなかった。




