↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/55

⑦ 弟の願書

セミナーの週の日曜、弟が冬期講習の申込書を持ってきた。


「ここ、保護者のとこ、母さんでいい?」


「いいよ。金額のとこ、見せて」


四十二万八千円。願書の字で見ると、手帳の中で見るより、少し大きい数字に見えた。弟はそれと一緒に、講習のパンフレットを机に置いた。合格実績のページに、折り目がついていた。折り目をつけて何度も見たページを、本人は無造作に扱う。高二の男子の照れ方は、だいたいそうなっている。


「志望、変えてないの」


「変えてない。……無理そうなら言って。夏期は行かなくても、なんとかなったし」


「無理じゃない。あんたは金の心配すんな。心配して伸びる成績なら心配してもらうけど、違うでしょ」


弟は笑って、自分の部屋に戻っていった。


台所で、母の夜勤の弁当を詰めた。詰めながら、頭の隅で、いつもの計算が回った。講習の四十二万。家賃の口座。あたしの口座。口座の中の数字の、どこからどこまでが、どの仕事の分か。


数字に、色はついていない。


振り込まれた瞬間に、金は金になる。誰の指名料でも、どの現場の場代でも、口座の残高の桁に混ざれば、同じ数字だ。同じ数字が、弟の講習になり、母の夜勤を一日減らし、うちの冬を暖かくする。色がついていないことに、ずっと助けられてきた。色がついていないことが、今週から、別の意味を持ち始めている。


弁当箱の蓋を閉めて、輪ゴムを二重にかけた。母は十時に出ていった。玄関で「あかり、あんた最近ちゃんと寝てるの」と言って、返事を聞く前にドアが閉まった。夜勤の人の会話は、いつも尻切れになる。尻切れの分は、朝に回される。朝に回されたものが、積もっている家だ。


机に戻って、申込書の保護者欄の隣、振込人の欄に、自分の名前を書いた。


書いた字を、しばらく見た。


セミナーのアンケートに書いた字と、同じ字だった。当たり前だ。同じ手で書いている。同じ手で書いたものが、片方は弟の冬になり、片方は、あの会議室の資料の裏に綴じられている。


書き直しはしなかった。申込書を封筒に入れて、口を閉じた。


*


羽根 その三


いい日だった。今日は、いい日だった。団体をやめてから、そう思える日が、増えた。


髪を明るくした。桐生さんのお店の、系列の美容室。似合うと言われた。鏡の中が、別の人みたいだった。前より、ずっと明るい人に見えた。演説の原稿ばかり書いていた頃の私より、ずっと。


お店にも、少し慣れた。みんな優しい。名前を覚えてもらえた。呼ばれると、嬉しい。


今月は、たくさん応援できた。私が、助けてあげられるのが、嬉しい。役に立てる場所が、ある。


お金のことは、心配しなくていいと言われた。三十万は、立て替えてもらった。すぐ返せる額だと思う。働き口も、桐生さんが決めてくれた。私に向いてる仕事だって。人に信頼される顔だから、って。


そんなふうに言われたのは、初めてだった。


家には、帰っていない。帰る理由が、思いつかない。こっちには、話を聞いてくれる人がいる。向こうには、いない。それだけのこと。


今日は、開店前のお店の掃除を、手伝った。グラスを拭くの、得意になった。拭き上がったグラスが棚に並ぶと、きれいで、達成感がある。生徒会の書類仕事と、ちょっと似てる。どこでも、私は、こういうのが得意だ。


夜は、眠れるようになった。お薬を、出してもらえるようになったから。ちゃんとしたクリニック。桐生さんの紹介。初診なのに、待たなかった。先生も、優しかった。


帰りに、名刺をもらった。白い名刺。銀色の字。夜間の連絡先が、書いてある。困ったら、いつでも、って。


いい人ばかりだ。


帰り、コンビニで、肉まんを買った。ひとつだけ。食べながら歩いた。行儀が悪い。悪いけど、誰も見ていないから、いい。


名刺は、お財布のいちばん前に入れた。お守りみたいで、少し、笑った。


*

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。