⑦ 弟の願書
セミナーの週の日曜、弟が冬期講習の申込書を持ってきた。
「ここ、保護者のとこ、母さんでいい?」
「いいよ。金額のとこ、見せて」
四十二万八千円。願書の字で見ると、手帳の中で見るより、少し大きい数字に見えた。弟はそれと一緒に、講習のパンフレットを机に置いた。合格実績のページに、折り目がついていた。折り目をつけて何度も見たページを、本人は無造作に扱う。高二の男子の照れ方は、だいたいそうなっている。
「志望、変えてないの」
「変えてない。……無理そうなら言って。夏期は行かなくても、なんとかなったし」
「無理じゃない。あんたは金の心配すんな。心配して伸びる成績なら心配してもらうけど、違うでしょ」
弟は笑って、自分の部屋に戻っていった。
台所で、母の夜勤の弁当を詰めた。詰めながら、頭の隅で、いつもの計算が回った。講習の四十二万。家賃の口座。あたしの口座。口座の中の数字の、どこからどこまでが、どの仕事の分か。
数字に、色はついていない。
振り込まれた瞬間に、金は金になる。誰の指名料でも、どの現場の場代でも、口座の残高の桁に混ざれば、同じ数字だ。同じ数字が、弟の講習になり、母の夜勤を一日減らし、うちの冬を暖かくする。色がついていないことに、ずっと助けられてきた。色がついていないことが、今週から、別の意味を持ち始めている。
弁当箱の蓋を閉めて、輪ゴムを二重にかけた。母は十時に出ていった。玄関で「あかり、あんた最近ちゃんと寝てるの」と言って、返事を聞く前にドアが閉まった。夜勤の人の会話は、いつも尻切れになる。尻切れの分は、朝に回される。朝に回されたものが、積もっている家だ。
机に戻って、申込書の保護者欄の隣、振込人の欄に、自分の名前を書いた。
書いた字を、しばらく見た。
セミナーのアンケートに書いた字と、同じ字だった。当たり前だ。同じ手で書いている。同じ手で書いたものが、片方は弟の冬になり、片方は、あの会議室の資料の裏に綴じられている。
書き直しはしなかった。申込書を封筒に入れて、口を閉じた。
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羽根 その三
いい日だった。今日は、いい日だった。団体をやめてから、そう思える日が、増えた。
髪を明るくした。桐生さんのお店の、系列の美容室。似合うと言われた。鏡の中が、別の人みたいだった。前より、ずっと明るい人に見えた。演説の原稿ばかり書いていた頃の私より、ずっと。
お店にも、少し慣れた。みんな優しい。名前を覚えてもらえた。呼ばれると、嬉しい。
今月は、たくさん応援できた。私が、助けてあげられるのが、嬉しい。役に立てる場所が、ある。
お金のことは、心配しなくていいと言われた。三十万は、立て替えてもらった。すぐ返せる額だと思う。働き口も、桐生さんが決めてくれた。私に向いてる仕事だって。人に信頼される顔だから、って。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
家には、帰っていない。帰る理由が、思いつかない。こっちには、話を聞いてくれる人がいる。向こうには、いない。それだけのこと。
今日は、開店前のお店の掃除を、手伝った。グラスを拭くの、得意になった。拭き上がったグラスが棚に並ぶと、きれいで、達成感がある。生徒会の書類仕事と、ちょっと似てる。どこでも、私は、こういうのが得意だ。
夜は、眠れるようになった。お薬を、出してもらえるようになったから。ちゃんとしたクリニック。桐生さんの紹介。初診なのに、待たなかった。先生も、優しかった。
帰りに、名刺をもらった。白い名刺。銀色の字。夜間の連絡先が、書いてある。困ったら、いつでも、って。
いい人ばかりだ。
帰り、コンビニで、肉まんを買った。ひとつだけ。食べながら歩いた。行儀が悪い。悪いけど、誰も見ていないから、いい。
名刺は、お財布のいちばん前に入れた。お守りみたいで、少し、笑った。
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