⑥ 自分の字
駅と反対の方へ、あたしは歩いていた。
気づいたのは三つ目の信号で、気づいてからも、足は戻らなかった。コートのポケットの中で、丸めたアンケートの控えが、歩くたびに乾いた音を立てた。
大変勉強になりました。
自分の字だった。誰かに書かされた字ではなかった。ペンを持ったのも、丸をつけたのも、提出したのも、全部この手だった。
風が、正面から吹いた。街路樹の葉が路面を走って、ヒールの先に一枚引っかかって、剥がれて、飛んでいった。コートの前を合わせても、風は襟の隙間から入ってきた。寒い、と思った。寒いという感想が出てくる自分が、少し不思議だった。今日のあたしに、まだそんな普通の感覚が残っているのが。
目の奥で、映像が三枚、順番に落ちた。
バンの窓の、こちらを見なかった横顔。会議室の、温かい拍手。帳簿の、蛍光ペンの印と、自分の字。
三枚目が、いちばん長く残った。
『みんなやってるから大丈夫』。優秀ですよ。覚えて帰ってください。
あの台詞を、あたしは教材で知ったんじゃなかった。言われて、覚えた。高一の秋、最初の撮影の前、控え室の鏡の前で震えていたあたしに、先輩が言った。安心した。世界のどこかに、自分の入っていい列があると思えた。だから、使った。りあに使ったとき、りあも安心した顔をした。あの顔は、鏡の前のあたしの顔だった。
頬が濡れていることに気づいて、立ち止まった。
泣くのは、変だと思った。泣いていい側ではないと思った。りあのことを、いつものように数字の話にしようとした。軽さが、来なかった。喉の奥だけがいつも通り渇いて、今度は、烏龍茶を取りに立っても消えないのだと、立つ前から分かった。涙は、拍手を受けた側の顔を伝って落ちている。袖で拭くと、ファンデーションの色が袖口に移った。汚れは、こうやって物に移る。移った先で、落ちにくくなる。
怪物って、店とか、あの人とか、ああいうもののことだと思っていた。ドアの外の、名指せるもののことだと。
帳簿の中に、あたしの字で、住んでいた。
私は、りあに何をした。
問いに、疑問符はついていなかった。答えを知っている問いだった。知っている答えを、知らないふりで運んできたのが、この半年だった。
風がもう一度吹いて、涙の筋だけが冷たくなった。あたしは濡れた顔のまま、来た道を戻り始めた。戻る先を決めてからではなく、歩きながら決めるために。ポケットの中で、アンケートの控えがまた鳴った。捨てなかった。捨てていいものではなかった。




