⑤ 温かい拍手
会場は、駅前の貸し会議室だった。
エレベーターを降りると、複合機のリース会社の説明会と同じ階で、廊下の案内板には「経営勉強会」とだけあった。受付で名前を照合される。配布資料はホチキス二箇所留め、左上。長机にひとり分ずつ、資料とミネラルウォーターが置いてある。ペットボトルのラベルの向きまで、揃っていた。
出席は十四人。ホストが半分、管理側が半分。学生はあたし一人だった。呼ばれたこと自体が評価だと分かっていたから、前から二列目に座った。二列目は、やる気があって、目立ちすぎない席だ。そういう計算をしている自分に、少しだけ機嫌が良くなった。
開始前の十分、会議室は雑談の音をしていた。前の席のホスト二人は、車の話をしていた。斜め後ろの管理側の男は、子どもの運動会の動画を隣に見せていた。どこの会社の研修前とも、同じ音だった。同じ音の中に、あたしは座っていた。
「じゃ、始めましょうか。今日は数字の読み方の話です」
桐生さんの講義は、定時に始まる。最初の十五分は、正直、退屈だった。リピートの構造、客単価と頻度の分解、新規獲得コストの話。どこの企業研修でも聞ける内容を、どこの企業研修よりも整った声で進めていく。眠くなる種類の退屈さだった。手元の資料の一枚目は、用語の定義だった。
用語は、半分くらい、知っている単語だった。あたしがセミナーで拾って、得意になって使っていた横文字が、ここでは定義つきで、正式に並んでいた。
「うちで見る指標は、突き詰めると三つだけ。顧客側の継続意向。時間あたりの売上。それから、維持コストが回収を上回る分岐点。……一般の商売で言うLTVってやつです。うちは名前を変えてるだけ」
桐生さんは、少し間を置いて続けた。「対象が生む額から、動かし続ける固定費——家賃と、食い扶持——を引く。残りが、限界利益。うちの指標は、そこから測る」
ボードに、三行が並んだ。
忠誠度 94.3% 稼働効率 3.33万円/時 リサイクル基準値 4.71万円
「忠誠度は、その限界利益のうち、どれだけこっちへ戻るか。稼働効率は、押さえた一時間あたりの売上——実働じゃなく、拘束した時間で割る。資産の考え方です。リサイクル基準値は、損益の分岐線。ただし絶対額じゃない。在庫の、下のほうから引く線。代わりが利くかどうか。より低いのから、落とす」
三行の下に、桐生さんはもう一行、書き足した。
「数値化できない項目は、査定に含めない。——ここまでが前提です」
読み上げる声は、板書と同じ速さだった。誰もメモを取り損ねない速さで、講義は進む。
「今日はケーススタディを一件。直近の事例です」
スクリーンに、グラフが出た。
あたしは、そのグラフの形を知っていた。横軸に月、縦軸に売上。六月から立ち上がって、秋に急な山を作って、山の右側で折れて、落ちる。自分が蛍光ペンで印をつけた形だった。
「新規獲得から高付加価値帯までの育成が、約半年。業界平均より早い。初期の定着で何が効いたか。——現場の声かけです。録音じゃないけど、報告から引用しますね」
桐生さんは、資料を見ずに言った。
「『みんなやってるから大丈夫』。……これ、優秀ですよ。所属の提示と不安の除去を一文でやってる。皆さん、覚えて帰ってください」
会議室に、温かい笑いと、感心の息が流れた。何人かが、あたしの方を見た。桐生さんが掌で、静かにあたしを示した。
拍手が、起きた。
温かい、拍手だった。
あたしは、頭を下げた。下げた頭の中で、スクリーンのグラフが続いていた。山の頂点の座標。注記の小さい字。事例ID。稼働終了。移送先。
どこにも、名前はなかった。事例ID——それが、この部屋でのあの子の呼ばれ方だった。番号で呼ぶ待合と、同じ作法だった。
(あれは、りあの線だ)
呼ばれない名前を、あたしの頭だけが、勝手に足していた。足したところで、スクリーンの何も、変わらなかった。
分かってから顔を上げても、拍手はまだ続いていた。あたしの両手も、いつの間にか、机の上で小さく拍手の形をしていた。手は、勝手にそうしていた。
「衰弱期に一時的に単価が跳ねる山、ここ、質問がよく来るんですけど」と桐生さんは続けた。「これは商品特性です。深追いすると回収不能域に入るので、山の頂点で見切るのが正解。今回の見切りは、ほぼ最適でした」
後ろの席で、手が挙がった。星斗だった。
「タイミング逃したら、どうなるんすか」
「基準値を割ります。割らせないのが管理です、って話ですね」
「っす」
星斗はペンを走らせていた。ペン先が、資料の事例IDの行の上で、一瞬、止まった。
止まって、また動いた。
質疑は他に二件。単価改定の告知のタイミングと、紹介経路の記録の付け方。どちらも、まっとうな質問に、まっとうな答えが返った。終業は定時だった。出口で配られたアンケートに、あたしは「大変勉強になりました」と書いた。書いた字は、いつもの自分の字だった。
ビルを出ると、外はもう暗かった。十一月の風が、ビルの間を抜けて、駅の方へ流れていた。駅までの人の流れに混ざって、あたしは資料の入った鞄を、胸の前で抱え直した。抱え直す理由は、なかった。ないのに、そうした。




