④ ただの裏通り
十一月に入って、りあと連絡が取りにくくなった。
《体調どう? 無理してない?》
既読が、つかない。一日目は気にしなかった。二日目に電話をして、留守電にした。三日目、クリニックの受付の子に確認だけ入れた。予約は、来ている、とのことだった。四日目の朝に返信が来た。
《ぜんぜん大丈夫です! ご迷惑おかけしました_(._.)_》
絵文字の位置まで、いつも通りだった。いつも通りであることの気持ち悪さを、あたしはそのとき、うまく言葉にできなかった。できなかったので、手帳には「連絡遅延・要観察」とだけ書いた。
十一月の帳簿は、行の種類が変わった。
クリニック分院 治療(性感染症) 22,000 クリニック 処置 110,000 同・処方(睡眠・抗不安) 2週分 9,000 ローン返済 月々 28,600(残22回)
各行の領収書は、揃っていた。揃えるのが、あたしの仕事だった。
行の外にも、あったらしい。もう領収書の出ない種類のもの。行にできないものは、帳簿に載らない。
数字は、十一月の半ばで折れた。
指名率 61% → 24% 単価 据え置き不可・二段階下げ
細いままなのに、写真の反応が落ちた。影は増えているのに、跳ねなくなった。客の側の言葉で言うなら、刺さらなくなった。グラフのどこで折れたのか、後から何度見ても、線は一本のままだった。折れ目に印はなかった。印のない折れ目を、あたしはそれまで見たことがなかった。
月次の会議は、店の入っているビルの五階でやる。社名のないドア、長机、ウォーターサーバー。桐生さんは、あたしの出した数字の画面を三秒だけ眺めて言った。
「もうこの子は、限界だな」
声に、温度の上下はなかった。
「メンテで戻る範囲は超えてるでしょ。……壊れたテレビをさ、いつまでも部屋に置いておかないよね。リサイクルに出す。それだけの話」
あたしは、議事のメモを取る係だった。次の議題のファイルを開いた。開く手は、止まらなかった。りあの処遇は「先方に紹介」とだけ決まって、会議は十二分で終わった。議事メモの「先方に紹介」の五文字は、今も、あたしの字で残っている。
その週の金曜、店の裏の通りに、黒いバンが停まっていた。
黒といっても、艶のある特別な黒ではない。営業車の、埃をかぶった普通の黒だった。りあは、自分の足で乗った。眼帯をしていた。腕に、包帯が見えた。ドアの前で一度だけ振り返って、あたしに小さく手を振った。振り方は、六月のパフェの店の前で別れたときと、同じ振り方だった。
ドアが、静かに閉まった。エンジンの音は、普通の車の音だった。ウインカーを出して、法定速度で、バンは角を曲がった。
見送りに出ていた星斗が、煙草に火を点けて、点けたまま吸わずに言った。
「りあちゃんって……」
言葉は、そこで止まった。煙草の灰が、一節分、落ちた。
「——次の担当の件なんすけど、火曜からでいいっすか」
「いいよ」とあたしは言った。
バンの停まっていた場所には、もう何もなかった。何もない場所は、ただの裏通りだった。自販機が一台と、店のダクトと、誰かの置き忘れた傘。
あたしは事務所に戻って、りあのフォルダを「稼働終了」の階層に移した。移す操作は、三秒で終わった。三秒で終わる操作を、あたしはその夜、家に帰ってからもう一度、指の中で繰り返していた。
帰り道は、店の表を通る。看板の灯はまだ入っていなくて、ガラスの内側だけが明るかった。開店前の光の中で、髪の明るい女の人が、グラスを一つずつ拭いては棚に並べていた。見たことのある顔だ、と思った。どこでだったかは、出てこなかった。
次の週は、何も起きなかった。
火曜、星斗に新しい担当がついた。水曜、クリニックの予約枠が一つ空いて、木曜には別の名前で埋まった。金曜、りあのローン会社から、引き落とし口座の残高不足の通知が、緊急連絡先ではなくあたしの管理用のアドレスに転送されてきた。書式は、いつもの書式だった。滞納一回目のご案内。文面のどこにも、急いでいる様子はなかった。二十四回の契約は、りあがどこにいても、残り二十二回のままそこにあった。
土曜の撮影会は、満枠だった。誰かが休むと、誰かが入る。予約表は、埋まっているときがいちばん静かだった。




