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② ラムネのビー玉

のんに憧れて入部してきた一年の、りあ。その最初の半年は、優等生だった。


六月、初個撮。あたしが同席した。相手は感じのいい常連で、機材の話を三分だけして、時間どおりに始めて、時間どおりに終わった。帰りに駅ビルの地下のパーラーで、二人でパフェを食べた。りあは食べる前に写真を撮り、撮った写真をその場で表のアカウントに上げて、通知が来るたびに小さく「わ」と言った。長いスプーンの使い方が下手で、下手なことを恥ずかしがって、それでも最後のコーンフレークまで食べた。バイト代が入ったら今度はあたしが奢りますね、と言った。奢られるような金じゃないんだけどな、と思ったけれど、言わなかった。店の前で別れるとき、りあは数歩行ってから振り返って、小さく手を振った。


七月、指名が付き始めた。呼ばれ方が「新人の子」から「りあちゃん」になった。りあは呼ばれ方の変化に自分で気づいて、気づいたことを恥ずかしがった。


同じ月、りあは初めて配信をやった。二十人が見て、そのうちの何人かが、コメントと一緒に投げ銭を寄越した。金額の大小より、名前を呼ばれるとコメントが速く流れることに、りあは「わ」と言った。イベントの特典会では、一枚ずつチェキを撮って、相手の名前を余白に書き添えた。名前を書くと、その人がもう一度並んでくれる。りあは、覚えるのが得意だった。


あたしも、余白に名前を書いていた。撮られる側だった頃だ。書いたのは相手の名前ではなく、自分が着ている役の名前——あたしではない誰かの名前を、あたしの字で、丁寧に書いた。役の名前で呼ばれるのは、楽だった。特待生の子でも、奨学金の子でも、弟の塾代を出す子でもない、誰かになれた。あの頃の字を、まだ覚えている。手帳に単価を書く、いまの字と、同じ字だ。


同じ七月に、サークルの併せがあった。商売ではない方の、公園を借りた撮影会。誰かの衣装の肩の縫い目がほどけたとき、針箱を持って最初に動いたのはりあだった。頼まれる前に、しゃがんで、四、五針で留めてしまう。「部活で慣れてるんで」。留め直した肩は、元の縫い目よりまっすぐだった。りあは小道具係の子と、水道でラムネを冷やす係もやっていた。瓶が冷えるまでの十分間、二人でしゃがんで、瓶の中のビー玉の話をしていた。


青だと思ってたけど、取り出すと透明なんだって、とりあが言った。取り出せないのになんで入ってるんだろう、と続けて、取り出せないから入ってるんじゃない、と小道具係の子が言った。


ビー玉の話をしていたときのりあの声には、困った響きがひとつもなかった。瓶の中は、まだ、居心地がよかった。


撮影の順番が来て、りあは呼ばれて、走っていって、転びかけて、笑われて、笑った。その日のりあの写真は、数字は普通だった。数字が普通の日の顔を、あたしはこの秋、何度か思い出すことになる。


八月、単価を一段上げるかどうかの相談に、りあは三十分迷った。迷いの中身は金額ではなかった。値上げしたら、ファンの人にお金のことばっかり考えてると思われないか。りあが気にしていたのは、最後までそっちだった。


「みんなやってるから大丈夫。りあちゃんはもう、その段の子だよ」


りあは頷いた。頷くとき、この子は一回だけ息を吸う。素直な子は、伸びる。


八月の帳簿。


 撮影 6件 小計 96,000  クリニック 初回カウンセリング 0円  同・処方 3週分 12,000


クリニックは、駅裏の雑居ビルの三階にある提携先だ。受付には医大生のバイトの子が座っている。白衣ではなく、量販店のシャツ。仲介はこの子の担当で、書類の説明がやたら上手い。痩身のは最初みんなこれですね、と、進路相談みたいな声で言う。時給のいいバイトを見つけた、という顔をしていた。それ以上の顔は、していなかった。


りあは二週間で頬の線が変わった。ポストの反応の数字も変わった。


九月。


 撮影 8件 小計 132,000  施術(輪郭) 総額 660,000 ローン24回 頭金 50,000 月々 28,600  衣装新調 3着 88,000  クリニック処方 継続 12,000


ローンの書類の保証人欄は、空欄のまま通った。そういう商品設計の会社だった。月々の返済は、八月までのりあには払えない額で、九月からのりあには払える額だった。設計は、そういう順番でできていた。


同じ月、Club Abyssの名前が、りあの口から初めて出た。連れて行ってくれた客のことを、りあは「太い人」と、客の側の言葉で呼んだ。担当は星斗という源氏名の、二十一の子。あたしも一度、店の外で挨拶した。日焼けの残る顔に体育会系の軽い敬語で、名刺の出し方だけが妙に手慣れていた。


「りあちゃん、超いい子っすね。俺、ああいう素直な子、応援したくなるんすよね」


「うち、桐生さんが上にいるんで。怪物みたいな人っすよ。あ、変な意味じゃなくて」


感じのいい子だな、というのがそのときの感想だった。それ以上は、考えなかった。


撮影の現場は、悠介が入ることが増えた。腕は確かで、料金は良心的で、指示は的確だった。その指示が、半年前より一歩ずつ、際どい方へ寄っていることには、指示している本人がいちばん気づいていなかった。シャッターは、一回ずつしか鳴らない。一回分ずつなら、誰も、どこも越えた気がしない。


十月、指名の傾向が変わった。


生まれる前に出た古いゲームの少女の指名が、時候の挨拶つきの丁寧な文面で入るようになった。それとは別に、古いロボットアニメの少女——制服に眼帯、腕に包帯の、痛々しい姿——の指名が、集まり始めた。りあ本人が、昔から好きだと公言しているキャラクターだった。好きな役の指名が増えたことを、りあは素直に喜んだ。喜んで、《大事に着ます》と表のポストに書いた。


十月の半ば、あたしは一度だけ、りあの現場に立ち会った。眼帯の衣装の回だった。客は五十がらみの、腰の低い人で、差し入れの焼き菓子を持ってきた。衣装の縫い目を確かめて、髪の分け目に注文をつけて、その注文の全部が、あたしの知らない何かの再現のためにあった。撮影のあいだ、客はりあを、あのキャラクターの名前で呼んだ。りあは、その名前に返事をした。返事をするたび、写真の出来が良くなった。九十分、りあの名前は、部屋の中で一度も呼ばれなかった。


帰り際、客は「今日もありがとうございました」と、りあにではなく、衣装に向かって頭を下げるような角度で言った。丁寧な人だった。丁寧さの宛先だけが、ずっと不在だった。


そして、数字が上がり始めた。


上がり方が、あたしの知っている伸び方と違った。稼働は減っているのに、単価と指名が上がる。写真の中のりあは前より細く、前より白く、目の下に落ちない影が入るようになっていて、その影の入った写真ほど、反応の数字が跳ねた。表のポストは変わらず明るいままで、明るい文面の下の顎の線だけが、少しずつ更新されていった。


 10月 総売上 前月比 +38%  眼帯衣装の指名率 61%  稼働 前月比 -20%


あたしはその行に、蛍光ペンで印をつけた。伸びている商品には印をつける。それが管理というものだった。


あたしは、子どもの頃、ラムネの瓶を割って、中のビー玉を弟にやったことを思い出した。出してしまえば、青くなかった。ただのガラスだった。


印をつけた手が、一瞬だけ、次の行に進まなかった。理由を考える前に、店の閉店の音楽が鳴って、あたしは帳簿を閉じた。

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