⑧ 折り目
ステージの裏は、機材の匂いがした。
パイプと暗幕の隙間に、折り畳みの椅子が一脚だけあって、鳳はそこに座っていた。スマホは鞄の底に沈めた。震えは、布越しにも伝わってきた。彼女は震えを数えるのをやめるために、暗幕の皺を数えていた。
靴音が、近づいてきた。急がない音だった。
「こんなところにいた」
知らない男だった。銀色の髪。皺のないシャツ。関係者の通行証を首から提げている。
「協賛の関係の者です。桐生といいます。……座ったままでどうぞ」
立ちかけた鳳を、掌で静かに制して、男は少し離れた機材箱に浅く腰を掛けた。距離の取り方が、丁寧だった。
「演説、聞きました」
「……多様なご意見、でしたけど」
「うん。それで、最後まで聞いたのは僕くらいかもしれない。——数字は、つけられた側の中に残ります。いい言葉だ。一語ずつ、覚えてます」
男は笑わなかった。冗談の顔でも、同情の顔でもなかった。
「強い人だと思った。本当に」
その一言が、どこに刺さったのか、鳳は自分でも分からなかった。分からないまま、目の縁が熱くなった。今日一日、実行委の前でも、司会の声の中でも、出なかったものだった。
「……強くは、ないです」
「強い人は、みんなそう言いますね」
男が差し出したのは、折り目の崩れていないハンカチだった。清潔で、香水の匂いもしなかった。
受け取らない理由を、鳳は探した。知らない人だから。関係者だから。探している間に、手が先に受け取っていた。
「洗って返します」
「いつでも。……話を聞くくらいなら、いつでもできますから。困ったときに、思い出してください」
男は名刺を出さなかった。連絡先も言わなかった。ただ立ち上がり、来たときと同じ速さで、機材の間を戻っていった。靴音は最後まで、急がなかった。
暗幕の向こうで、ミスコン本選の歓声が上がった。順位が、発表されたらしかった。
鳳はハンカチを膝の上で畳み直した。四つ折りの角が、きれいに揃った。今日、彼女の手の中で、きれいに揃ったものはそれが最初だった。
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羽根 その二
眠れない日が続いているけれど、でも、それは仕方のないことだと思う。方眼のノートは、最初の頁で止まったまま。調査の続きは、もう書いていない。
団体には、もう行っていない。あの人たちは、私の顔を見ると、気の毒そうな顔をする。気の毒そうな顔は、責める顔より、ずっと重い。だって、返す言葉が、どこにもないから。
——の件は、もう書かない。書こうとすると、名前のところで、手が止まるから。あの日から、何度か、電話は来た。出なかった。だって、何を聞いても、聞かなくても、同じだから。
桐生さんは、コーヒーの好みを、覚えていてくれた。二回目に会ったとき、もう、砂糖なしのカフェオレが、先にテーブルに置いてあった。覚えていてくれる人の前だと、話は、勝手に続く。だって、覚えてもらえることが、こんなに珍しいことだと、知らなかったから。
桐生さんは、最後まで聞いてくれる。
途中で遮らないで、意見も言わないで、最後まで聞いてから、一つだけ、質問をしてくれる。その質問は、いつも、私が考えたかったことと、同じ場所にある。不思議な人だと思う。あんなに忙しい人が、どうして私なんかの話を、と思うけど、でも、桐生さんは、時間は作るものだと言う。
夜は、長い。長い夜に、部屋の電気を全部つけておくようになった。暗くすると、考えなくていいことまで、考えてしまうから。電気代のことは、考えないことにしている。考えることが、一つ減るなら、安いと思う。
昨日は、桐生さんに、家の話をした。母からの電話の話。誰にも言ったことのない話だったのに、桐生さんの前だと、言葉になった。桐生さんが、初めてですね、と言った。こういう話を人にするのは、初めてですと私が言ったら、光栄です、と笑っていた。
三好さんからは、連絡が、来ない。来ないことを、責める気持ちには、ならない。だって、私があの子の立場でも、きっと、そうするから。正しいと思います、と書いてくれただけ、あの子は、誠実だった。誠実な人から、順番に、離れていく。そういう順番に、なっている。
あの人たちには、私の話は、もう届かない。大学の中に、私の話を最後まで聞く人は、いない。でも、大学の外に、一人だけ、いる。
一人いれば、足りるのだと思う。
今日も、遅くまで付き合わせてしまった。申し訳ないと言ったら、僕が好きでやっていることです、と言われた。
ありがたい、と思う。こんなときに、あの人に会えたことだけは、本当に、ありがたいと思う。
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