⑤ 送信の前に
団体の申し入れ書がタイムラインに載った翌日から、風向きが変わった。
反論は、来ると思っていた。表現の自由、本人の自由、伝統。想定した反論には、想定した答えを返せばいい。想定していなかったのは、反論の主語だった。
《働いたことのない人に、働き方を裁かれる筋合いはないです》
金色の髪の後輩の、短いポストだった。引用が伸び、数字が伸び、夕方には団体の申し入れより遠くまで届いていた。
《自分の身体と自分の才覚で生活費を稼ぐ子を、実家の太い人が上から「保護」する構図、誰か疑問に思わないの?》
文面の向こうに、顔は浮かんだ。入学式の廊下で、地毛です、と言い張っていた金色の一年生。あの日の生意気を、面白がって見ていたのは、私の方だった。
鳳は反論を三度書いた。三度とも、送信の前に消した。
一度目は、論点のすり替えだと書いた。消したのは、すり替えという指摘自体が「余裕のある側の語彙」として読まれる予感がしたからだ。二度目は、安全の問題だと書いた。消したのは、安全という言葉を、彼女が誰の金で守られて発しているのかを、自分で説明できなかったからだ。三度目は、短く、事実だけを書いた。消した理由は、もう思い出せない。
彼女は生まれてから一度も、学費の心配をしたことがない。その事実は、彼女の主張の正しさを一ミリも減らさないはずだった。しかしタイムラインの上では、主張は発話者の口座と一緒に読まれる。反論のたびに、彼女の家が彼女の言葉の前に立った。
「令嬢の道楽」という言い方を、彼女は初めて自分宛てに見た。
団体のアカウントへの引用も、種類が変わった。《言ってることは分かるけど、言われ方でこっちが惨めになる》というのがあった。《あなたに守ってもらわなくても働けます》というのがあった。反論よりも、その二つが長く残った。どちらも、悪意の文面ではなかった。悪意なら、処理の仕方を知っていた。
実行委との面談は、二十分で終わった。担当の三年生は感じのいい男子で、感じのいいまま、一つも約束をしなかった。「今年は多様な意見の紹介という形で、枠を設けようと思ってて」。枠、という言葉が出た時点で、申し入れの中身は枠の外に置かれることが決まっていた。設けられた枠は、閉めたドアに開けた小窓である。
メールの文面も、変わった。先週まで「検討します」だった返事が、「多様なご意見として承ります」になった。承る、は、閉まるドアの丁寧語だった。それは調査で覚えたばかりの手触りと、同じ種類のものだった。
会議の空気も、変わっていた。発言の前に、全員が一拍、間を置くようになった。この発言は切り取られたらどう読まれるか。その見直しを、全員が頭の中でやってから口を開く。見直しの分だけ、会議は遅くなり、言葉は薄くなった。
夜、颯太に電話で少しだけ愚痴を言った。愚痴の途中で、自分の声が原稿の声に戻っていくのが分かって、途中でやめた。
「向いてないな、私は。愚痴も」
「知ってた」
「……ミスコンの日、演説の枠が取れた。多様な意見の紹介、という枠だけど」
「出るの?」
「出る。枠の名前が何であれ、マイクはマイクだから」
電話を切って、彼女は原稿の一行目を書いた。書き出しは、決めてあった。数字の話でも、制度の話でもなく、会場にいる一人一人の目の話から始める。目を見て話せば届く、ということを、彼女はまだ信じていた。
七月祭まで、あと六日。




