③ ノックの回数
七月の初め、証言を約束してくれていた子から、短い連絡が来た。
《すみません。あの話、なかったことにしてください》
電話をかけると、三回目で出た。声が、先週と別人だった。
「事実じゃなかったということ? それなら、それでいいの」
「事実です。事実ですけど……ゼミの先生に相談したら、やめておきなさいって。あなたのためにならないって。推薦とか、就活とか、あるでしょうって」
「その先生は、内容を聞いた上でそう言ったの?」
「聞く前から、言われました」
礼を言って、電話を切った。鳳はノートに、日付と、経緯と、固有名詞を書いた。感情は書かなかった。感情を書き始めると、記録が武器でなくなる。
ノートは方眼のものを使っている。日付、相手、要旨、次の行動。四列で一行。この様式は高校の生徒会で覚えた。様式が決まっていれば、動揺した日でも手が動く。手が動けば、次の行動の欄が空欄のままでも、空欄という記録が残る。
学生課には、面談を申し込んだ。応対したのは相談窓口を担当する准教授で、話は最後まで穏やかだった。
「問題意識は立派だと思います。ただ、証拠のない段階で大学として動くと、学生を傷つける可能性がある。慎重に、ね」
「証拠を集めようとすると、学生が証言を止められます。止めているのが学内の先生方である場合、どこに持ち込むのが正しい手順ですか」
「……そういう言い方は、敵を作りますよ」
准教授は最後まで笑顔だった。廊下に出てから、鳳は今の面談の記録を書き、書き終えてから、自分が何と戦っているのかを初めて考えた。悪意なら、指させる。しかし今日あったのは悪意ではなく、閉まっているドアの連続だった。誰が閉めたのかを訊くと、皆、自分ではないと言う。
保健室にも、行った。養護教諭は話を最後まで聞いてくれた数少ない一人で、聞き終わってから、湯呑みを両手で包んで言った。「気づいてる子は、いると思う。でも私の立場で言えるのは、体調の話までなの。ごめんなさいね」。謝られる筋合いはなかった。ないのに謝る人が、この件ではいちばん誠実な側だということが、調べるほど分かってくる。
卒業生への電話取材も、二件かけた。一件目は留守電のまま返ってこなかった。二件目は出てくれて、三分だけ話せた。在学中のことを訊きかけたところで、「ごめんなさい、いま就活の面談前で」と言われ、電話は切れた。面談は、何時からだったのだろう。訊かなかった。訊いても、答えは面談だっただろう。
団体の部屋に戻ると、資料整理をしていた後輩が、雑談の続きのように言った。
「そういえば、うちの学園、前にもあったらしいですよ。こういうの。附属で騒いだ先生がいたって。……いつの間にか、いなくなったらしいですけど」
「いなくなった、って」
「さあ。辞めたんじゃないですか、普通に」
普通に、という言葉を、鳳はノートの隅に書き留めた。書き留めた理由は、自分でもまだ説明できなかった。
夜、彼女は集めた断片を並べ直した。証言の撤回が三件。撤回の前に全員が「相談」をしている。相談の相手は、別々の教員。並べると、模様のようなものが見える気がする。しかし模様の中心には、まだ誰の顔もない。
顔のないものと戦う方法を、鳳はまだ知らない。だから知っている方法で進むことにした。記録を続ける。手続きを踏む。七月祭のミスコンには、正面から申し入れる。
閉まっているドアは、ノックの回数を数えられていることを知らない。
七月祭まで、あと十二日。




