⑪ 追い風
一週間、のんはその客の枠を空けたまま放っておいた。
十日目に、スタジオのオーナー経由で妙な話が届いた。例の客が、界隈のスタジオ全部で出禁になったらしい。理由は誰も知らなかった。のんは、誰にも何も言っていなかった。
その週のうちに、二つ、続いた。半年待っても取れなかった土曜夜の枠が、すんなり取れた。場代が、値上げの季節なのに二割下がった。
「常連さんの紹介なんで」とオーナーは言った。のんに、そういう常連はいなかった。
他にも、細かいことが続いていた。機材のレンタル屋の対応が急に良くなった。隣のブースの騒がしい団体が、いつの間にか来なくなった。一つずつは、偶然で説明がつく。偶然が三つ並ぶと、説明の側が苦しくなる。のんは説明を保留にして、保留にしたまま、空いた土曜の枠を埋めた。
土曜、機材を返しに行くと、ロビーのソファに男が座っていた。
銀色の髪。作り物みたいに整った顔。皺のないスーツ。年は二十代の半ばに見えた。
「花村さん? ……ああ、『のん』さんの方がいいか」
立ち上がっても、彼は名刺を出さなかった。手ぶらで、鞄も持っていなかった。
「桐生といいます。この店の常連の、知り合いの、知り合い。……遠いね」
声は静かで、急がなかった。
「君の商売、面白いね」
「商売ってほどのものじゃないです」
「そう? 場所を押さえて、人を繋いで、間で手数料を取る。立派な商売だと思うけど。——ねえ、いま一番、困ってることって何」
「別に」
「ふーん」
「困ってないなら、いいんだ。困ったら、ここのオーナーに言って。僕に届くから」
「……あの、何なんですか、あなた」
「何だと思う?」
質問には質問が返ってきた。のんは彼の匂いを探した。甘くもなく、饐えてもいない。強いて言えば、何も欲しがっていない匂いがした。値札の匂いも、欲の温度もない。
それをのんは、安全と読んだ。
「……暇な金持ちの道楽、だと思っときます」
「あはは。いいね、それで」
彼は笑って出口へ歩き、ドアの手前で半分だけ振り返った。
「うん。——また、こういう子に会えた」
独り言の音量だった。ドアが閉まってから、のんは「また」の意味を三秒だけ考えて、やめた。考えても、金にならない。
その夜、ノートの数字は先月より素直に増えていた。増えた分の半分に、心当たりのない追い風が吹いている。
追い風の出所を探すべきだと、頭のどこかが言った。探してどうする、と別のどこかが言った。
のんは首元の鎖を握った。石の角が、掌に食い込んだ。
上に立つ。使えるものは全部使って、オレが使う側に回る。
握っていた鎖を離すと、掌に浅い跡が残っていた。




