会社の後輩との二人飲み――「先輩」だった私が、「莉央ちゃん」になる夜
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白石からメッセージが届いたのは、木曜の夕方だった。
《桐生さん、明日の夜、空いてます? 久しぶりに飲みに行きませんか》
莉央は画面を見て、少しだけ口元を緩めた。
白石とは、二か月に一度くらいの間隔で、こうして二人で飲みに行くことがあった。決まった約束ではない。どちらかがふと思い出した頃に声をかける。そのくらいの距離だった。
《いいよ》
短く返すと、しばらくして店の名前が送られてきた。
翌日の十九時過ぎ。
店は会社から少し離れた路地にあった。
木を多く使った小さな和食ダイニングで、照明はやや暗い。金曜の夜らしく席は埋まっていたが、騒がしいほどではなかった。
「ここ、前から気になってたんです」
白石が案内された席を見て言った。
壁際に長いソファがあり、その前に小さなテーブルが置かれている。二人が横に並んで座る、少し変わった造りの席だった。
「隣なんだ」
莉央が言うと、白石が笑った。
「嫌ですか?」
「別に」
白石が奥に入り、莉央もその隣に腰を下ろした。
肩が触れない程度の間隔が残った。
「何にします?」
「ビール」
「じゃあ私も」
グラスが運ばれてくる。
軽く合わせて、一口飲む。
「やっと一週間終わりましたね」
白石が息をついた。
「今週、忙しかったもんね」
「桐生さんもですよ」
それからしばらくは、いつもの二人飲みだった。
仕事のことを少し。最近行った店のこと。白石が買ったものの話。
取り立てて意味のない話をしながら、料理をつまむ。
料理がいくつか運ばれ、二杯目に入った頃だった。
白石がふと箸を止めて、莉央の横顔を見た。
「……桐生さん、最近、何かありました?」
莉央もグラスを置いて、白石を見る。
「何かって?」
「うーん……なんて言えばいいんだろう」
白石は少し考えてから、莉央を見直した。
「前より、ちょっとイキイキしてるというか」
「そう?」
「はい。あと……」
そこで一度言葉を切る。
「少し、色っぽくなった気がします」
莉央は思わず笑った。
「なにそれ」
「いや、ほんとですって」
白石は笑わなかった。
冗談で言っているわけではないらしい。
「髪とか服とかが変わったわけじゃないんですけど。なんとなく」
莉央はグラスに残ったビールへ目を落とした。
「自分じゃ分からないな」
「恋愛とか?」
「違う違う」
答えが少し早かった。
白石が小さく笑う。
「じゃあ、何か新しいこと始めたとか?」
「新しいことっていうほどじゃないけど……」
莉央はグラスに手を添えた。
「最近、ちょっと自分のことを考えることが増えたかな」
「自分のこと?」
「うん。普段だったら絶対しないようなことをしたら、自分ってどうなるんだろう、とか」
白石が少しだけ身体をこちらへ向けた。
「それ、やってみたいってことですか?」
「どうなんだろうね」
莉央は笑った。
「怖いと思うこともあるし。でも、ちょっと興味はある」
「へえ……」
白石はそう言ったきり、少しのあいだ莉央を見ていた。
「桐生さんから、そういう話が出てくるとは思わなかったです」
「意外?」
「はい。ちょっと」
白石はグラスを持ち上げたが、すぐには飲まなかった。
「でも……もう少し聞いてみたいです」
「聞いても、たぶん面白くないよ」
「それは私が決めます」
白石がそう言って、少し笑った。
莉央も笑った。
料理を少しつまんでから、グラスを置く。
「……昔ね、ちょっと変な動画を見たことがあって」
白石が顔を向けた。
「変な動画?」
「海外のやつ。たぶんアメリカかどこかだったと思う」
白石は箸を置いた。
「白石さん、ちょっと生々しい話になるけど……大丈夫?」
白石が一瞬だけ目を丸くする。
「はい」
「農場みたいなところで、女の人が……裸で、家畜みたいに扱われてる動画だったの」
白石は少し驚いた顔をした。
けれど、視線は莉央から外れなかった。
「動きとか、表情とかも、本当に動物みたいで。もちろん、叩かれたりもしてたんだけど」
白石は口を挟まず、莉央の方へ少し身体を向けた。
その距離が、さっきより近い。
莉央はそれに気づきながら、グラスの縁を指でなぞった。
「……見てるうちにね」
少しだけ声が落ちる。
「その女の人が、普段はどんなふうに暮らしてるんだろうって、考えるようになったの」
白石は黙ったまま聞いている。
「ちゃんと服を着て、会社に行って、電車に乗って。周りから見たら、普通の人なのかもしれないのに」
莉央は視線を落とした。
「そこでは、全部違ってて」
言葉にした途端、あの映像の感触が少しだけ戻ってくる。
「見られてることも、扱われ方も、恥ずかしいはずなのに……」
莉央は小さく息を吐いた。
「なんか、目が離せなかった」
白石の気配が近い。
「怖いっていうより……身体の奥が、少し熱くなる感じで」
そこまで言って、莉央は自分でも恥ずかしくなったのか、わずかに笑った。
「……正直、ちょっとドキドキしてた。そういう意味でも」
白石は何も言わない。
ただ、莉央を見る目だけが、さっきより少し真剣になっていた。
莉央はその視線から逃げるように、グラスへ目を落とす。
「もしかしたら、私……自分を重ねてたのかもしれない」
白石が、ほんの少しだけ息を止めた。
「自分を重ねてたってことですか?」
「うん。たぶん」
莉央がそう言うと、白石はしばらく黙っていた。
莉央の横顔を見ながら、何かを考えている。
「……桐生さんって」
白石がゆっくり口を開いた。
「ずっと、ちゃんとしてますもんね」
莉央は少し笑った。
「そんなことないよ」
「あります」
白石はすぐに返した。
「仕事でもそうだし、人に弱いところ見せないし。自分で決めて、自分でちゃんとやる人っていうか」
莉央は何も言わなかった。
白石が少し身体の向きを変える。
それまで正面を向いていた膝が、莉央の方へ向いた。
「だから……たまには、そこから降りたくなるのかな」
莉央が白石を見る。
「何も考えなくてよくて、ちゃんとしてなくてもよくて。いつもの桐生さんじゃなくてもいい時間が欲しいとか」
その言葉に、莉央はすぐには返せなかった。
白石はそんな莉央を見たまま、もう少しだけ距離を詰める。
二人の肩の間にあった隙間が、ほとんどなくなる。
「……なんとなく、分かった気がします」
莉央は白石の近さを意識しながら、グラスに目を落とした。
「でも……」
白石の声が、さっきより近い。
莉央が顔を上げる。
白石はもう、正面から莉央を見るというより、その横顔を覗き込む位置にいた。
「そういう桐生さんって、どんなふうになるんだろう」
莉央は動かなかった。
「いつもの服も、いつもの顔も、全部なくなって」
白石の視線が、ゆっくり莉央をなぞる。
「もっと無防備で、もっと素直で……誰かに可愛がられてる桐生さん」
そこまで言うと、白石はさらに少しだけ顔を寄せた。
声を落とす。
もう、莉央の耳のすぐそばだった。
「……見てみたいです」
耳元でそう言われて、莉央はわずかに息を止めた。
白石の声が近い。
近すぎて、返事をするより先に、首筋が熱くなる。
白石は離れなかった。
そのまま、莉央の耳元で少しだけ声を落とす。
「莉央ちゃん」
胸の奥が、大きく跳ねた。
たったそれだけの呼び方なのに、いつもの自分から一枚、何かを剥がされたような気がした。
白石の腕が、そっと莉央の肩に回る。
「私の前では、そんなにちゃんとしてなくてもいいんですよ」
莉央は何も言えなかった。
白石の声だけが、すぐそばにある。
「甘えたくなったら、甘えていいし」
一拍置く。
「……私のペットになっても、いいんだよ」
背中に細い震えが走った。
莉央は思わず白石の袖をつかむ。
白石は何も言わなかった。
その手を振りほどかず、肩を抱いたまま、しばらくそばにいた。
やがて莉央は、ゆっくり指を離した。
「……ありがとね。変な話、聞いてくれて」
少しだけ無理に笑って、グラスへ手を伸ばす。
「そういえば、あの案件どうなった? 昨日ちょっと揉めてたやつ」
白石は一瞬、莉央の顔を見た。
それから、いつもの調子に戻る。
「まだです。先方から返事なくて」
そこからは、別の話をした。
仕事のこと。店のこと。どうでもいい話。
けれど、さっきまでの距離だけは、なぜか少し残ったままだった。
「今日は、楽しかったです」
白石が言う。
「うん。私も」
駅まで並んで歩いて、改札の前で別れた。
「じゃあ、また月曜に」
「うん。おやすみ」
白石の姿が人波に消える。
莉央はその場に少しだけ立っていた。
それから、ゆっくり歩き出す。
夜の空気は冷たかった。
――莉央ちゃん。私のペットになっても、いいんだよ。
その声は、まだ耳のすぐそばに残っていた。




