↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/11

リリーという名前の夜――別人になったはずなのに、私らしくいられました

壁のイベントから、二週間が経った。


夜、莉央が自宅でスマートフォンを見ていると、蓮からメッセージが入った。


《次の MISSION》


莉央は画面を開いた。


《指定された店に、一人で行ってください》


《店の指示に従ってください》


《最後まで店にいること》


《以上を達成条件とします》


莉央は、もう一度最初から読み返した。


画面を下へ送ると、店の住所と日時だけが記されていた。


店名を検索してみる。


けれど、ほとんど情報が出てこない。


公式らしいページには、黒い背景に店名と住所。あとは「MEMBERS ONLY」の文字があるだけだった。


「……何のお店?」


莉央はもう一度検索した。


それでも、詳しい説明は見つからない。


蓮に聞こうかと思った。


けれど、指は止まった。


《店の指示に従ってください》


そこだけ、もう一度読む。


「……行けば分かるってことか」


莉央はスマートフォンを置いた。


二週間後の夜。


莉央は、指定された住所の前に立っていた。


目の前にあるのは、看板らしい看板もない建物だった。


スマートフォンの住所と、入口の番号を見比べる。


間違ってはいない。


「……ここ?」


挿絵(By みてみん)


少しためらってから、インターホンを押した。


短い電子音のあと、女性の声がした。


「桐生莉央さんですね」


「はい」


「お待ちしていました。どうぞ」


ロックの外れる音がした。


莉央は扉を開け、中へ入った。


すぐ先で、一人の女性が待っていた。


「こんばんは。こちらへどうぞ」


何の説明もないまま、女性は廊下の奥へ歩き始めた。


莉央はその背中を追った。


案内されたのは、小さな更衣室だった。


鏡と椅子。その横に、黒い衣装が用意されている。


莉央は足を止めた。


「……これを?」


女性が頷いた。


莉央は手を伸ばし、黒い生地に触れた。


布ではない。


指先に吸いつくような、独特の感触。


「ラバーです。全身を覆うタイプになります」


広げられたそれを見て、莉央は眉を寄せた。


首から足首まで、ほとんど逃げ場がない。


しかも、どう見ても自分の身体より細く見える。


「これ……本当に入るんですか?」


女性が少し笑った。


「大丈夫です。ただ、一人で着るのは大変なので、お手伝いします」


莉央はもう一度、黒いラバーを見下ろした。


「では、着替えましょうか」


女性はそう言って、ラバーを手に取った。


莉央は一瞬、女性を見る。


「……ここで、ですか?」


「はい。着るときにお手伝いが必要なので」


「あ……はい」


莉央は少し迷ってから、上着に手をかけた。


女性は特に気にする様子もなく、ラバーの準備をしている。


その平然とした態度が、かえって恥ずかしい。


一枚ずつ洋服を脱いでいく。


いつもの更衣室なら何でもないことなのに、知らない女性がすぐそばにいると思うと、妙に落ち着かなかった。


最後まで脱ぐと、莉央は反射的に身体の前へ腕を寄せた。


女性が振り返る。


「では、こちらへ」


黒いラバーを持って、莉央の前にしゃがんだ。


「足から入れていきますね」


莉央は小さく頷いた。


足を入れたところから、もう普通の服とは違った。


少しずつ身体を収めていくたびに、ひやりとしたラバーが肌に密着してくる。


太腿まで上がったところで、莉央の手が止まった。


「……きつい」


「ここから少し大変ですよ」


女性が手を添え、引っかかっている部分を少しずつ整えていく。


腰を収め、腕を通す。


莉央が動くたび、女性も手を動かし、ラバーを身体に沿わせていった。


ようやく肩まで収まる。


「はい。立ってみてください」


莉央は身体を起こした。


さっきまで冷たかったはずのラバーが、もう肌の温度を帯びている。


女性が背中側を整え、最後の部分を閉じた。


「できました」


莉央は、そこで初めて鏡を見た。


「……え」


肌は、どこにも見えていない。


首から下は、すべて黒で覆われている。


それなのに、隠された感じがしなかった。


布のような余りが、どこにもない。


肩から胸、腰へ。

さらにヒップから太腿へ。


身体の起伏が、一枚の艶のある黒い輪郭になって、そのままつながっている。


莉央がわずかに身体を動かすと、照明の白い光が、その曲線に沿って滑った。


まるで、黒い第二の皮膚をまとっているようだった。


隠しているのに、身体だけは隠せない。


肌は一切見えていない。

なのに、普段の服を着ているときより、身体そのものを見られている感じがする。


黒い光沢に包まれた鏡の中の姿は、いつもの自分より艶っぽく、どこか近寄りがたいほどだった。


莉央は、しばらく目を離せなかった。


「いいえ。まだです」


女性が別の箱を開けた。


中から取り出したのは、同じ黒いラバーでできたものだった。


莉央は、それが何なのか分かるまで数秒かかった。


「……これ、顔に?」


「はい。フルフェイス・フードです」


女性が両手で広げる。


目と口の部分だけが開いた、黒いラバーのマスク。


莉央は思わず自分の顔に触れた。


身体を覆うのとは、まるで意味が違う気がした。


「これも……着けるんですか?」


「はい」


莉央は、黒いマスクと、鏡に映るまだいつもの自分の顔を交互に見た。


「少しきつく感じるかもしれません」


女性が莉央の髪をまとめた。


それから、黒いラバーを頭の上からゆっくりとかぶせていく。


額を越え、頬を包み、顎まで覆われる。


顔の周囲にぴたりとラバーが密着した瞬間、莉央の肩がわずかに強張った。


「……すごい」


自分の声なのに、いつもより近くで響くように感じた。


女性が位置を整える。


髪はすべて黒の中へ消えた。


莉央は恐る恐る鏡を見た。


一瞬、誰を見ているのか分からなかった。


さっきまでそこにあった自分の顔が、ない。


黒い頭部。その下には、艶のある黒い身体だけが続いていた。


髪も、表情もない。


会社で毎日見せている顔も、きちんと化粧をした桐生莉央も、鏡の中から消えている。


自分で選んだ髪型も、化粧も、表情も。人から「桐生莉央」と認識されるためのものが、黒いラバーの下へ強制的に押し込められていた。


顔だけを奪われて、身体だけを残されたみたいだった。


自分はここにいるのに、外から見える「桐生莉央」だけがない。


人格を取り上げられて、身体だけをそこに立たされている。


こんな格好をする人がいることは知っていた。


けれど、それは莉央にとって、自分とはまったく別の世界にいる人たちだった。


特殊な趣味を持つ人。普通とは少し違う人。


そんな姿を、いま自分がしている。


私、何してるんだろう。


怖い。異様だとも思う。


それなのに――思っていたよりずっと綺麗だった。


見ていたかった。


人格を取り上げられ、こんな異様な姿にされているのに。


その姿を綺麗だと思ってしまう自分がいる。


そのことの方が、莉央には怖かった。


女性が鏡越しに莉央を見た。


「綺麗ですよ」


莉央は思わず振り返った。


「……顔、見えないのに?」


女性は鏡の中の莉央を見たまま、微笑んだ。


「だから、綺麗なんです」


女性は、今度は細い黒の首輪を取り出した。


中央には、小さなプレートが付いている。


「最後に、これを」


莉央は鏡越しにそれを見た。


女性が首元へ回し、留める。


かちり。


黒いラバーに覆われた首に、さらに黒い首輪が重なった。


莉央はプレートに目を落とした。


そこには、白い文字で書かれていた。


LILY


「……リリー?」


「はい。今夜のお名前です」


莉央はもう一度、鏡を見た。


顔を隠され、髪も消え、全身を黒いラバーで覆われている。


そして今度は、名前まで違う。


「……名前まで」


自分が少しずつ別の何かにされていく。


その感覚に、背中がぞくりとした。


莉央は鏡の中の LILY の文字を見つめた。


桐生莉央の顔は見えない。

名前まで、もうそこにはない。


全身を黒いラバーに包まれた、異様な女が立っているだけだった。


もし会社の誰かにこんな姿を見られたら――。


そう考えた瞬間、身体が強張った。


絶対に知られたくない。


こんなのは、自分じゃない。


そう思うのに、鏡から目が離れなかった。


そして、ふと別の考えが浮かんだ。


この姿なら。


顔も名前も桐生莉央ではない、この姿なら。


普段の自分なら絶対にできないことまで、してしまえるかもしれない。


その考えに自分で驚いて、莉央は鏡の中の黒い女をじっと見つめた。


挿絵(By みてみん)


女性が扉に手をかけた。


「では、リリー。行きましょうか」


初めてそう呼ばれた。


莉央は一瞬遅れて、女性の方を向いた。


女性は莉央のすぐ横に立つと、黒いラバーに包まれた腰へ手を回した。


「こちらです」


腰を抱くように手を添えたまま、身体を寄せて歩き出す。


莉央も促されるまま、その隣を歩いた。


ラバー越しの腰に、女性の手の感触がある。


まるで、自分で歩いて店へ入っていくのではなく、今夜のリリーとして連れていかれるようだった。


扉が開いた。


その先は、莉央が想像していたよりずっと広かった。


中央には大きく空間が取られ、周囲にはソファと低いテーブルが並んでいる。照明は暗いが、店内全体を見渡せないほどではない。


二十人ほどの男女が、思い思いに話していた。


女性が莉央の腰を抱いたまま、中へ入る。


近くにいた何人かが、こちらを見た。


「あ、あの子じゃない?」


「リリー?」


「たぶん」


男が莉央を目で追った。


「へえ……全身なんだ」


隣の女性も莉央を見る。


「あのスーツ、身体の線がすごく出るね」


「うん。腰のライン、かなり綺麗に出てる」


「スタイルいいんだね。顔が見えないぶん、余計に身体に目がいく」


莉央の足が、一瞬止まった。


すぐそばにいるのに、まるで自分ではなく、黒いラバーに包まれた身体だけを眺めながら話されている。


自分の知らないところで、この人たちはもう「リリー」という名前を知っている。


女性は莉央の腰に手を添えたまま、客たちへ向き直った。


「皆さん。今夜お手伝いしてくれる、リリーです」


「よろしく、リリー」


「似合ってるよ」


莉央はどう返していいのか分からず、小さく頭を下げた。


「緊張してる?」


誰かが笑う。


女性が莉央の腰を軽く撫でた。


「まだ初めてですから。優しくしてあげてくださいね」


女性は莉央の腰から手を離した。


カウンターの中では、スタッフが酒を作っていた。


「七番、ウイスキーのソーダ割りと赤ワイン」


出来上がったグラスが、カウンターの端へ置かれる。


莉央はトレーを取り、二つのグラスを載せた。


スタッフが奥のソファを指した。


「七番。あちらです」


莉央は小さく頷き、トレーを持って客の間を歩いた。


向かったのは、七番のテーブルだった。


奥のソファから、男がこちらを見た。


「あ、リリーが持ってきてくれた」


莉央がテーブルへグラスを置く。


男は間近に立った莉央を見上げた。


「近くで見ると、ほんとに身体のライン出るね」


隣の女性も莉央へ目を向ける。


「ラバーってすごい。隠してるのに、全然隠れて見えない」


莉央の手が、ほんの少し止まった。


挿絵(By みてみん)


カウンターへ戻ると、次のグラスが用意されていた。


「三番」


スタッフが短く告げる。


莉央はトレーを持ち、三番のテーブルへ向かった。


グラスを置くと、ソファにいた男が莉央を見上げた。


「ちょっと待って。すぐ戻らないで」


莉央の足が止まる。


「正面、見せて」


莉央は男の方へ身体を向けた。


男はしばらく眺めてから、指を動かした。


「今度、横」


莉央が九十度向きを変える。


「ああ、横からだと腰のラインがよく分かるね」


向かいにいた客も身体を少し乗り出した。


「後ろも見たい」


莉央は黙ったまま背を向ける。


「そのまま、少し振り返ってみて」


莉央は肩越しに客たちを見た。


「うん。それ、いいね」


「リリー、今度は両手を腰に置いてみて」


莉央の両手が、ゆっくり腰へ動いた。


そのまま両手を腰に当てる。


そして、腰を少し前へ突き出した。


一瞬、客たちが黙った。


男が吹き出す。


「そこまで言ってないよ、リリー」


周りから笑い声が上がった。


「サービスいいな」


「この子、意外とやる気あるんじゃない?」


莉央の腰が、すっと元の位置へ戻った。


カウンターへ戻ると、スタッフが次の注文を示した。


「四番、お願いします」


次に向かったのは、四番のテーブルだった。


四番のテーブルには、女性が三人座っていた。


莉央がグラスを置くと、そのうちの一人が手招きした。


「リリー、ちょっとこっち」


最初の女性は莉央の正面に立った。


両手を莉央の腰の左右へ添える。


「ちょっと失礼」


そのまま莉央を手前へ引き寄せた。


正面から、二人の身体が重なる。


莉央の肩がわずかに動いた。


女性はその反応に気づき、少し笑った。


「あら、嫌じゃないのね」


腰に置いた両手をそのままに、今度は自分からもう一歩近づいた。


莉央の身体も、ほんの少しそれに応える。


「そう。こっちの方が分かる」


隣で見ていた女性が笑った。


「私もあとでやってみたい」


女性三人の席を離れ、莉央がカウンターへ戻ろうとしたときだった。


最初に莉央を案内した女性が、奥の扉の前から声をかけた。


「リリーさん、こちらへ来てください」


莉央は足を止めた。


女性の方を見る。


「こちらです」


莉央は黙って頷き、女性のところへ向かった。


扉が開く。


莉央はそのまま女性と一緒に、店の奥へ消えた。


扉が閉まり、莉央の姿が見えなくなった。


三番のテーブルでは、さっきの男がまだ奥の扉を見ていた。


「リリー、面白かったな」


「頼んでないところまでポーズ取ってたしね」


「あれは笑った」


四番のテーブルの女性たちも、その話を拾った。


「触った?」


「触ったどころか、抱きついちゃった」


「どうだった?」


女性はグラスを持ったまま笑った。


「すごかった。ラバーはつるっとしてるのに、その下はちゃんと柔らかいの」


「へえ」


「腰を抱いて身体をくっつけたら、ラバー越しにリリーの身体の弾力がそのまま返ってくる感じ」


隣の女性が笑った。


「そんなに?」


「うん。もう少しくっついていたかった」


「いいな。私もやればよかった」


「戻ってきたら、やってみたら?」


別のテーブルから男が口を挟んだ。


「もう終わりなのかな」


「どうだろう。わざわざ奥に呼ばれたからね」


「また出てくるんじゃない?」


グラスが空き、別の注文が運ばれてくる。


客たちの話題がいったん別のものへ移りかけたころ――


店の奥の扉が、もう一度開いた。


奥の扉から、女性が姿を現した。


リードは床近くへ斜めに伸びていた。


その先から、まず黒い犬耳のついたフルフェイスのラバーマスクが現れた。


リリーは立っていなかった。


両手と両膝を床につき、四つん這いになっている。


首には、さっきと同じ黒い首輪。


LILY


けれど、さっきまで身体を包んでいた黒いラバーは、もうどこにもない。


犬耳のついた黒いマスクと首輪だけを残し、リリーは裸のまま四つん這いになっていた。


女性がリードを軽く引く。


リリーは両手を一つ前へ出し、それから膝を進めた。


女性がリードを持ったまま、ゆっくり店内へ入ってきた。


リリーも四つん這いのまま、その後についていく。


「うそ、歩いてる」


「完全にワンちゃんじゃん」


「さっき普通にグラス運んでたのに」


客たちの視線が、四つん這いのリリーを追った。


挿絵(By みてみん)


「リリー、こっち」


女性の一人が呼んだ。


リリーが顔を向ける。


女性はソファに座ったまま、自分の足元を軽く叩いた。


「おいで」


リリーは四つん這いのまま女性のところへ向かった。


足元まで来ると、そこで止まる。


女性が片足を少し前へ出した。


「ワンちゃんになったんでしょ?」


リリーは差し出されたパンプスを見た。


少し顔を近づける。


女性がパンプスを動かすと、リリーの顔もそれを追った。


女性はそれを見て笑った。


そして脚を引くと、パンプスを脱いだ。


「じゃあ、こっちは?」


素足をリリーの前へ差し出す。


リリーは、その足を見た。


「ワンちゃんでしょ?」


女性が足先をもう少し近づける。


リリーはゆっくり顔を寄せた。


最初は、確かめるように一度だけ舌を触れさせた。


「そうそう」


もう一度。


今度はさっきより長く、足先を舐める。


「上手」


女性が足の向きを変えると、リリーの顔もそれを追った。


足先から甲へ。


舌を這わせては離し、また顔を寄せる。


いつの間にか、最初にあったためらいは見えなくなっていた。


「あら。本当にワンちゃんみたい」


リリーは答えない。


ただ、差し出された足を追いかけるように、また顔を寄せる。


挿絵(By みてみん)


女性が黒い犬耳の間を撫でた。


「初めてなのに、頑張っててえらいね。リリー」


リリーの顔が、わずかに上がった。


「いい子」


もう一度、犬耳の間をゆっくり撫でる。


その瞬間、リリーの腰が、ぱた、ぱた、と左右へ動いた。


女性がそれを見て笑った。


「ふふ。褒められるの、好きなのね」


その様子を見ていた店の女性が、声を上げた。


「あ、ちょうどいいのありますよ」


店の女性は奥へ行き、何かを持って戻ってきた。


手にしているのは、黒い棒状のものだった。


六十センチほどの長さがあり、根元は太く、先へ行くほど少しずつ細くなっている。


硬い棒ではない。


女性が持ち上げると、自重でゆるく弧を描き、手を動かすたびに先端が一拍遅れてしなる。


リリーの顔が、その動きを追った。


挿絵(By みてみん)


女性が持ち替える。


根元が客たちの方を向いた。


そこには、棒状の部分と一体になった挿入プラグが付いている。


「あ、尻尾だ」


客の一人が声を上げた。


「リリーの?」


店の女性が笑った。


「そうです」


そしてリリーの前へ持っていく。


「リリー。本当の尻尾、お尻につけて欲しい?」


リリーは女性の手にある黒い尻尾を見た。


そして、こくりと頷いた。


店の女性が客たちを見回す。


「どなたか、尻尾をリリーにつけてくださる方、いらっしゃいますか?」


「はい」


すぐに、一人の女性が手を上げた。


「私、やりたい」


「では、お願いします」


女性は立ち上がり、リリーの後ろへ回った。


リリーは四つん這いのまま動かない。


女性が腰の後ろへ手を伸ばす。


「リリー、そのままね」


女性の手が、リリーの腰に触れた。


「リリー、入れるよ」


リリーの肩が一度、小さく動いた。


やがて、女性が手を離す。


「はい。できた」


女性が一歩横へ退いた。


黒い尻尾が、リリーの後ろから長く伸びていた。


リリーが振り返る。


自分の後ろへ伸びた黒い尻尾を見つけると、腰を小さく左右へ動かした。


尻尾の先が、遅れてゆらりとついてくる。


もう一度、腰を動かす。


今度は大きく、尻尾をぶるんぶるんと振った。


「すごい。ほんとに振ってる」


周りから笑い声が上がった。


女性が黒い犬耳の間を撫でる。


「嬉しいの?」


リリーは尻尾を、ぶるんぶるんと振った。


「かわいい」


もう一人の女性も手を伸ばし、犬耳の間を撫でた。


「いい子、リリー」


リリーはまた、ぶるんぶるんと尻尾を振った。


「そんなに振ったら、お尻の穴から外れちゃうんじゃない?」


客たちが笑う。


それでもリリーは、尻尾をぶるんぶるんと振っていた。


店の女性がその様子を見て笑った。


「じゃあ、リリーにもドリンクをお出ししましょうか」


店の女性が、浅い水皿を床へ置いた。


「リリー、ドリンクよ」


リリーは四つん這いのまま、水皿へ顔を近づけた。


両手を水皿の左右へつく。


膝を少し後ろへ引き、腰を高くしたまま、肘を曲げて上半身だけを低くしていく。


黒い犬耳が、水面へ近づいた。


尻尾が上をむく


リリーはその姿勢のまま、さらに顔を下げた。


水面すれすれで止まり、一度、舌先を水につけた。


ぺろっ。


もう一度。


ぺろっ。


舌先についた水を口へ運ぶ。


けれど、一度に飲める量はほんのわずかだった。


「あら。リリー、ドリンク飲むの下手ね」


周りから笑い声が上がる。


リリーは顔を上げない。


ぺろっ、ぺろっ、と何度も水面へ舌を伸ばす。


少しずつリズムが速くなった。


水面が細かく揺れ、鼻先と顎から水滴が落ちた。


「そうそう。上手」


リリーはそのまま、夢中になって舌を動かし続けた。


やがて、リリーが顔を上げた。


鼻先も顎も、水で濡れている。


女性が黒い犬耳の間を撫でた。


「ちゃんと飲めたね。えらいね、リリー」


リリーは尻尾を、ぶるんぶるんと振った。


「リリー、こっちにもお水あるよ」


少し離れたところから、別の客が呼んだ。


リリーがぱっと顔を向けた。


床には、もう一つ水皿が置かれている。


リリーは尻尾をぶるんぶるんと振る。


すぐに身体の向きを変え、四つん這いのまま早足で、呼んだ客のところへ向かう。


水皿の前まで来ると、リリーはすぐに両手を左右についた。


腰を高くし、顔を水面まで下げる。


今度は最初から、ぺろっ、ぺろっ、と続けて舌を動かした。


「上手になったじゃない」


客が黒い犬耳の間を撫でる。


リリーは顔を上げると、尻尾をぶるんぶるんと振った。


「リリー、こっちも」


また別の場所から声が飛んだ。


リリーがぱっと顔を上げた。


呼ばれた方へ向きを変え、四つん這いのまま早足で向かう。


水皿を見つけると、その前で止まり、すぐに顔を下げた。


ぺろっ、ぺろっ、と水を飲む。


「いい子」


黒い犬耳の間を撫でられる。


「初めての子にしては、馴染み方がすごいわ」


「ほんと。さっきまで、あんな格好いいラバー姿で立ってたのにね」


リリーは顔を上げ、尻尾をぶるんぶるんと振った。


「もうすっかりワンちゃんだね」


客たちが笑う。


「リリー」


少し離れたところから、男が呼んだ。


リリーがぱっと顔を向ける。


男の手には、小さなボールがあった。


「これ、取ってこられる?」


男がボールを床へ転がした。


ボールは客たちの間を抜け、店の中央へ転がっていく。


リリーはすぐに身体の向きを変えた。


四つん這いのまま早足でボールを追いかける。


転がるボールに追いつくと、その前で止まった。


「リリー、持っておいで」


後ろから声が飛んだ。


リリーはボールへ顔を寄せた。


一度、口を開く。


うまく咥えられず、ボールがころりと前へ逃げた。


客たちが笑う。


リリーはすぐに追いつき、もう一度顔を下げた。


今度はボールを咥える。


「そう。それ持っておいで」


リリーはボールを咥えたまま向きを変え、四つん這いで男のところへ戻っていく。


「できたじゃん。えらい、リリー」


男が黒い犬耳の間を撫でた。


リリーはボールを咥えたまま、尻尾をぶるんぶるんと振った。


男がリリーの口からボールを受け取った。


「もう一回いくよ」


リリーは男の手にあるボールへ顔を向けた。


男が腕を振る。


ボールが床へ落ちた瞬間、リリーはもう動き出していた。


「お、早い」


ボールが転がっていく。


リリーは四つん這いのまま早足で追いかけた。


ボールが止まると、すぐに顔を下げて咥えた。


今度は声をかけられる前に身体の向きを変える。


ボールを咥えたまま、男のところへ戻ってきた。


「もう分かってるじゃん」


「リリー、上手」


リリーは尻尾をぶるんぶるんと振った。


男がもう一度ボールを手に取った。


リリーはその手元を見ながら、尻尾をぶるんぶるんと振っている。


「まだやる?」


男が笑いながらボールを転がした。


リリーはすぐに追いかけた。


ボールを咥え、戻ってくる。


けれど、男の前まで来たところで、リリーの動きが少し変わった。


ボールを床へ置く。


その場で身体の向きを変え、床へ鼻先を近づけた。


数歩進んでは止まり、また鼻先を床へ近づける。


「どうした、リリー?」


客の一人が声をかけた。


リリーはまた数歩進んだ。


けれど、すぐに止まる。


後ろ脚を内股に寄せ、腰をもじもじさせる。


「あれ?」


近くにいた女性がリリーを見る。


「もしかして……お水、飲ませすぎた?」


別の女性が笑った。


「リリー、ワンちゃんと同じようにおしっこできるんでしょ?」


リリーは女性を見上げた。


そして、こくりと頷いた。


その様子を見ていた店の女性が、


「じゃあ、試してみましょうか」


と奥へ向かった。


「ちょっと待っててね、リリー」


店の女性は大きな防水マットを持って戻ってきた。


店の中央へ広げる。


「リリー、こっち」


リリーは四つん這いのままマットへ向かった。


その上まで来ると、脚を少し開いてまたがり、そのまま腰を落とそうとする。


「あ、違う違う」


客の女性が笑った。


「マーキングだよね、リリー」


リリーが顔を上げる。


店の女性も気づいたように、


「あ、そうですね」


と頷いた。


もう一枚、吸水シートを取り出す。


そしてリリーの横へ回り、そのシートを床に対して縦になるように掲げた。


「リリー、こっちにマーキングして」


リリーは掲げられたシートを見た。


そのまま四つん這いで少し近づく。


そして、右膝を外側へ持ち上げようとした。


身体がぐらりと傾いた。


慌てて右膝を床へ戻す。


客たちから笑い声が上がった。


「リリー、頑張って」


リリーはもう一度、右膝を外側へ持ち上げた。


今度は両手でしっかり床を押さえ、三本の手脚で身体を支える。


少しずつ右脚を高くしていく。


近くで見ていた若い女性客が、思わず声を上げた。


「……あそこも、全開になっちゃってる」


一瞬、目を離せないように見つめる。


「発情してる犬みたい」


周りから笑い声が上がった。


それでもリリーは脚を下ろさない。


そのとき、リリーの身体がぴくっと止まった。


店の女性が気づいた。


「あ、痛かった?」


リリーが女性を見上げる。


女性はリリーの後ろへ目をやった。


「尻尾が横になると、お尻の穴に全部力がかかっちゃうのよね。大丈夫?」


リリーは一度、右脚を床へ戻した。


もう一人の女性が笑った。


「リリー、さっきから尻尾振りすぎよね」


「嬉しいたびに、ぶるんぶるん振ってたもの」


店の女性がリリーを見る。


「無理しなくていいのよ」


リリーはそのまま少し動かなかった。


それから、掲げられたシートを見る。


もう一度、右膝を外側へ持ち上げた。


「あら。まだやるの?」


リリーは両手で床を押さえながら、今度はゆっくり右脚を上げていく。


身体が小さく震えた。


ちょろっ。


一瞬途切れて、今度は勢いよくおしっこが出た。


「あ、出た」


女性の声に、周りの客たちが一斉にリリーを見る。


「ほんとだ」


「ちゃんと片脚上げたまましてる」


「すごい、リリー」


笑い声に混じって、ぱちぱちと拍手が起こった。


リリーは右脚を上げたまま、その声を聞いている。


おしっこはまだ続いていた。


「さっきまでボール追いかけてたと思ったら、今度はマーキングまで覚えちゃった」


「もう完全にワンちゃんじゃない」


女性がリリーの腰を撫でる。


「上手よ、リリー。そのままでいいからね」


リリーは腰を撫でられながら、右脚を上げた姿勢を保っている。


やがて勢いが弱くなり、最後にちょろっと出たあと、止まった。


リリーは右脚を床へ戻した。


「はい、おしまい」


女性がもう一度、犬耳の間を撫でる。


「いい子。ちゃんとワンちゃんみたいにできたね」


周りからもう一度拍手が起こった。


***


店の女性に連れられ、莉央はバックヤードへ戻った。


リリーの装備を一つずつ外してもらい、そのまま一人でシャワールームへ入る。


シャワーを浴び、莉央は身体を拭いた。


バスタオルを身体に巻き、先ほどの部屋へ戻る。


女性はそこで待っていた。


「お疲れさまでした。ご気分とか、体調は大丈夫ですか?」


「はい。ただ……」


莉央が少し言いよどむ。


女性はすぐに察した。


「あ、尻尾をつけていたところ、まだ痛みます?」


「……少し」


「じゃあ、念のため見せてもらってもいいですか?」


「はい」


女性は鏡の前の椅子を少し引いた。


「ここを使いましょう。座面に膝をついてください」


「……ここで?」


莉央は思わず女性を見た。


「ええ。後ろを確認したいので」


「……分かりました」


莉央は一瞬ためらってから、椅子の座面に両膝をついた。


そこまではよかった。


「もう少し、腰を後ろへお願いします」


莉央の動きが止まった。


「……こうですか?」


言われたとおり、見えやすいように腰を後ろへ引く。


自分がどんな姿勢になっているのか分かって、頬が熱くなった。


さっきまで大勢の客の前を裸で四つん這いで歩き回っていたのに、今は女性一人に身体を確認されることが妙に恥ずかしい。


女性は手袋をつけた。


「すぐ終わりますから。痛かったら言ってくださいね」


「……はい」


莉央は前を向いたまま答えた。


女性はまず目で、お尻の穴の周囲に出血や傷がないかを確認する。


莉央の肩にわずかに力が入った。


それから指先で周囲の皮膚を軽く押し、腫れや熱っぽさ、押したときの痛みがないかを順に確かめていった。


「ここは?」


「大丈夫です」


少し位置を変える。


莉央の身体がぴくっと動いた。


「ここは?」


「……そこは、少し痛いです」


女性はすぐに力を抜いた。


「分かりました。ここが一番擦れてますね」


莉央は前を向いたまま、唇を結んだ。


痛みの理由は分かっている。


誰かに無理をさせられたわけではない。


「いい子」と言われるたびに嬉しくなって、自分から尻尾をぶるんぶるんと振っていた。


ボールを持って帰ったときも。


水を飲めたと褒められたときも。


名前を呼ばれたときも。


振れと言われたわけでもないのに、お尻の穴に仕込まれた尻尾を、気持ちよさに任せて振っていた。


そして、お尻の穴を痛めて女性に看てもらっている。


そう考えた途端、莉央の頬がさらに熱くなった。


「どうしました?」


「……いえ」


莉央は少し間を置いた。


「これって……尻尾の形とか、仕組みのせいもあります?」


女性は少し考えるように莉央を見た。


「それより、振りすぎですね」


「……やっぱり?」


「はい。かなり激しく振ってましたから」


「……ですよね」


莉央はますます顔を上げられなくなった。


女性は入口の周囲を必要な範囲だけ確認した。


「出血もないし、大きな腫れもありません。ただ、入口の周りには少し赤みがありますね」


莉央は小さく息を吐いた。


「じゃあ、クリーム塗っておきますね」


「……お願いします」


女性はクリームを用意し、赤くなっている部分を刺激しないよう、必要なところだけ手早くケアした。


「はい。これで大丈夫です」


莉央はすぐに腰を戻した。


女性は手袋を外した。


莉央は椅子から降りた。


莉央は下着を身につけ、服を着ていく。


着替えを終えると、莉央は鏡の前に座った。


濡れた髪を指で整える。


鏡の中には、桐生莉央の見慣れた顔があった。


女性が後ろに立った。


そして、莉央の両肩にそっと手を置いた。


莉央が鏡の中の女性を見る。


女性の手は、そのまま両肩に置かれている。


挿絵(By みてみん)


しばらくして、莉央から口を開いた。


「私……途中から、喜んでワンちゃんになってましたよね」


女性が少し笑った。


「お客さん、すごく喜んでましたよ。初めての子があんなに盛り上げてくれるなんて、お店としても嬉しい限りです」


「……そうなんですか」


莉央は鏡の中の自分を見た。


「私、そんなに?」


「ええ」


女性の手が、両肩に置かれたまま少し動いた。


「途中からは、お客さんが何か言う前に、自分から喜んで動いてましたから」


莉央の頬が少し赤くなる。


「……尻尾も?」


「はい」


女性は少し間を置いた。


「マーキングも」


莉央の指が止まった。


「……おしっこも?」


「ええ」


莉央は鏡の中の自分を見た。


「楽しかったです」


少し間を置く。


「自分自身を、すごく素直に出していた感じがします」


女性は鏡の中の莉央をしばらく見ていた。


両肩に置いた手を、ゆっくり動かす。


「たぶん、それでいいんだと思います」


莉央が鏡越しに女性を見る。


「リリーになっている間、桐生さんは誰にどう見られるかとか、何をしたら恥ずかしいとか、そういうことを考えなくてよかったんじゃないですか」


莉央は黙って聞いている。


「だから、楽しかったら尻尾を振る。名前を呼ばれたら嬉しくて行く。褒められたらもっとやりたくなる」


女性が少し笑った。


「お客さんが喜んでくれたのも、桐生さんが楽しんでるのが伝わったからだと思いますよ」


莉央は鏡の中の自分を見た。


しばらくして、小さく頷いた。


「……そっか」


肩の力が、少し抜けた。


女性が両肩から手を離した。


「良かったら、また来てくださいね」


莉央は鏡越しに女性を見た。


「はい」


莉央は店を出た。


外の空気に触れ、足を止める。


バッグからスマートフォンを取り出した。


画面をつける。


蓮からメッセージが届いていた。


《どうだった?》


莉央はその文字を見た。


指を動かす。


《また来たい》


一度、文字を見つめた。


それから続ける。


《絶対来たい》


送信する。


すぐに既読がついた。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。