MISSIONリベンジ――自分の部屋が、こんなに遠いなんて
ベッドに入っても、なぜか眠れなかった。
ふと、あの夜のことを思い出した。
MISSION 3。
鍵を取るところまではできた。
でも解除できず、00:00で終わった。
莉央は天井を見たまま、少しだけ唇を噛んだ。
「……もう一回、やってみようかな」
成功したい、というより。
あの状態に、もう一度入りたかった。
誰にも言わずに。
少しだけ。
公園まで行って、帰ってくる。
それだけならできる気がした。
莉央はベッドから起き上がった。
クローゼットの奥から装具を取り出す。
解除用の鍵は、テーブルの上に置いた。
腰にハーネスを回し、前後の装具を固定する。
胸元のクリップを留めた瞬間、思わず肩に力が入った。
「……っ」
最後に口枷を装着する。
その上からマスクをつけ、ロングコートを羽織った。
鏡の前に立つ。
見た目だけなら、夜に少し出かける普通の女だった。
コートの下がどうなっているかは、誰にも分からない。
今回は、刺激を受けるつもりはなかった。
公園まで行って、そのまま戻ってくる。
それだけのつもりだった。
ただ、何もないのでは少し物足りない。
莉央は装具の開始タイマーを十五分後に設定した。
それまでに戻れば、刺激は始まらない。
「十五分なら、大丈夫」
本当に、少し緊張感が欲しかっただけだった。
玄関まで来ると、莉央はドアを開けた。
帰ってきたとき、後ろ手のままではドアノブを回せない。
だから、完全には閉めない。
莉央は玄関ドアの安全ロックを起こし、扉との間に噛ませた。
そのままドアをゆっくり戻す。
安全ロックに当たり、そこで止まった。
細い隙間が残る。
莉央はそれを確かめた。
これなら、帰ってきたときも中に入れる。
部屋へ戻る。
残っているのは、最後の拘束だけだった。
両腕を背中へ回す。
一瞬だけ手が止まる。
ここを留めれば、もう自分では外せない。
それでも、そのまま固定した。
カチッ。
小さな音がした。
莉央は腕を少し動かす。
外れない。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
そして、少し開いたままの玄関へ向かった。
莉央は玄関の前で一度立ち止まった。
マスクの奥で、ゆっくり息を吐く。
そのまま外へ出る。
廊下には誰もいない。
エレベーターを呼び、扉が開くと中へ入った。
一階のボタンなら、後ろ手のままでもなんとか届く。
背中側へ指を伸ばして押す。
扉が閉まった。
一人になると、急に静かになった。
まだ、刺激は始まっていない。
表示の数字が下がっていく。
9。
8。
7。
一階。
扉が開いた。
莉央はエレベーターを降り、そのままマンションの外へ出た。
夜の空気が、マスクの隙間から少し冷たく入ってくる。
公園までは二百メートルほど。
何度も歩いた道なのに、今夜は妙に遠く感じた。
やがて、公園の灯りが見えてくる。
莉央は少しだけ足を緩めた。
ブランコ。
ベンチ。
街路灯。
見覚えのある景色を目にした瞬間、あの夜の記憶が一気に蘇った。
蓮。
三人の男。
自分が膝をついたこと。
頭を撫でられたこと。
――ペットちゃん。
あの夜を思い出すと、今でも胸が高鳴る。
莉央はしばらく公園を眺めていた。
ふと、開始タイマーのことを思い出す。
もう五分以上は経っているはずだった。
あと十分もない。
――帰ろう。
莉央は公園をあとにした。
莉央は来た道を引き返した。
公園から離れると、少しずつ気持ちも落ち着いてきた。
マンションが見えてくる。
まだ刺激は始まっていない。
エントランスを抜けると、ちょうどエレベーターが一階に止まっていた。
――ラッキー。
莉央は背中側へ手を伸ばし、指先でボタンを押した。
すぐに扉が開いた。
中へ入り、ほっとする。
――間に合った。
けれど、十階のボタンを押そうとして、動きが止まった。
ボタンが、高い。
莉央は背中側の指を精一杯伸ばした。
届かない。
爪先立ちになり、さらに身体を反らせる。
それでも二十センチほど足りなかった。
「……んっ!」
思わず声が漏れる。
莉央は操作盤へ身体を寄せた。
肩なら高さは届く。
身体を横に向け、肩先をボタンに押しつけようとする。
反応しない。
もう一度。
肩の位置を少しずらして、強く押す。
だめだ。
ボタンの周囲には当たっているのに、肝心の十階だけが押せない。
莉央は焦った。
今度は顔を操作盤へ近づけた。
マスク越しに口元を押しつけようとする。
届かない。
背伸びをして、顎を突き出す。
それでも、あと少しが届かない。
「んんっ……!」
もう一度、肩。
身体をひねり、無理な姿勢で押しつける。
何度も。
何度も。
しかし、十階のランプは点灯しなかった。
莉央は荒い息をつきながら、操作盤を見上げた。
――嘘でしょ。
あと少しなのに。
部屋に戻れば、全部終わるはずだった。
なのに、その部屋へ帰るためのボタンが押せない。
十五分。
その数字が頭に浮かんだ。
莉央はもう一度、肩を操作盤へ押しつけた。
反応しない。
ようやく身体を離したとき、胸の中にあった焦りは、はっきりとした恐怖に変わっていた。
十階へ戻れない。
莉央は震える息を吐いた。
そのときだった。
エレベーターホールの方から、足音が聞こえてきた。
誰かが近づいてくる。
――助けてもらえば。
一瞬、そう考えた。
十階のボタンを押してもらうだけでいい。
けれど、どう頼む?
口枷のせいで、まともに話すこともできない。
それに、両腕を背中に固定したこの姿を見られたら。
事情を聞かれるかもしれない。
コートの下まで気づかれたら、どうなるだろう。
足音が近づいてくる。
莉央ははっと顔を上げた。
まずい。
こんなところを見られるわけにはいかない。
慌てて背中側の手を伸ばし、「開」ボタンを押す。
扉が開くと、莉央は急いで外へ出た。
足音はもうすぐそこまで来ている。
莉央はロビーの奥へ回り、柱の陰に身を隠した。
直後、誰かがエレベーターのボタンを押す音がした。
扉が開く。
少しして、閉まる。
エレベーターが上昇を始めた。
莉央は柱の陰から、そっと顔を出した。
誰もいない。
「……どうしよう」
莉央は柱の陰で立ち尽くした。
もし、さっきの住人に見つかっていたら。
後ろ手に固定された腕を見られ、事情を聞かれたら、どう説明する?
さらに、コートの下まで知られてしまったら。
――十階の桐生さん、あんな格好で歩いていたんですって。
噂が広まる様子が、妙に具体的に浮かんだ。
エレベーターで会う住人たち。管理人。いつも挨拶を交わす隣人。
誰も何も言わなくても、自分を見る目だけが変わっていく。
やがて管理会社から連絡が来る。
会社にまで知られたら、どうなるだろう。
あの、きちんとした桐生さんが。
仕事のできる、落ち着いた桐生さんが。
莉央は唇を噛もうとして、口元の装具に阻まれた。
――人生、終わっちゃう。
そこまで想像して、ぞっとした。
なのに、胸の奥が妙にざわついていた。
怖いはずだった。
今すぐ何もかも終わらせて、いつもの自分へ戻りたいはずだった。
それなのに、誰にも知られていない今と、すべてが知られてしまった後の落差を、頭の中で何度も思い描いてしまう。
どうして、こんなことまで想像するんだろう。
莉央は自分自身が恐ろしくなった。
そのとき、不意に装具が作動した。
「……っ!」
莉央の身体がびくりと跳ねた。
予想していなかった衝撃に、思わず一歩よろめく。
肩が壁にぶつかった。
「んっ……!」
声を抑えようとしても、口元からくぐもった音が漏れる。
莉央は壁に身体を預け、必死に姿勢を保った。
心臓が激しく鳴っている。
――十五分。
もう、そんなに経っていたのか。
呼吸を整えようとするが、焦るほど息が浅くなる。
廊下から足音が聞こえたような気がして、莉央は顔を上げた。
誰もいない。
それでも、いつ誰かが来るか分からない。
――だめ。こんなところにいたら。
莉央は壁にもたれたまま、目を閉じた。
考えろ、莉央。
帰る方法は、まだあるはず。
エレベーターが使えないなら。
そのとき、非常階段を思い出した。
――そうだ。階段。
十階まで上がればいい。
莉央は壁から身体を離した。
莉央は非常階段の扉を開けた。
ここに住み始めてから、非常階段を使うのは初めてだった。
ひんやりした空気が流れてくる。
莉央は慎重に一段目へ足をかけた。
両腕が後ろに固定されているため、手すりをつかめない。
膝を寄せ、かなり内股になりながら、一段ずつ上がっていく。
途中、身体がふらついた。
「んっ……!」
莉央は慌てて壁に肩を寄せ、バランスを取り戻した。
普段なら何でもない階段なのに、今は一段上がるだけでも神経を使う。
三階。
踊り場で立ち止まり、息を整える。
上から物音が聞こえた気がして、莉央は顔を上げた。
誰もいない。
――お願い。誰にも会いませんように。
莉央は再び階段を上り始めた。
十階まで、まだ遠かった。
四階。
莉央は踊り場で足を止めた。
息が上がっている。
口枷のせいで唾液をうまく処理できず、マスクはすっかり湿っていた。呼吸をするたび、不快な布が口元に張りつく。
階段を上がるたびに、装具の振動が気になった。
考えない。
今は、とにかく十階まで上がる。
莉央は膝を寄せ、内股のまま慎重に足を運んだ。
五階。
突然、身体がふらついた。
「んんっ……!」
壁に肩を押し当て、どうにか転倒を防ぐ。
後ろ手のままでは手すりもつかめない。
呼吸が落ち着くのを待った。
――お願い、誰も来ないで。
六階。
莉央は壁に肩を預け、荒い息を整えた。
コートの内側は蒸し暑い。
ふと、内腿を何かがゆっくり伝う感覚があった。
汗とは違う。
莉央は思わず目を伏せた。
こんな状況で、自分の身体に何が起きているのか。
考えたくなかった。
「……っ」
今は、そんなことを気にしている場合じゃない。
誰にも会わず、部屋へ帰る。
それだけを考えよう。
莉央は顔を上げ、七階へ続く階段に足をかけた。
七階へ続く階段を上りかけたとき、上から足音が聞こえた。
莉央は顔を上げた。
ゴミ袋を片手に、小太りの五十代半ばの女性が降りてくる。
化粧っ気のない、ごく普通の近所のおばさんといった感じだった。
莉央は慌てて壁際へ寄り、道を空けた。
「ありがとうね」
女性は気さくに声をかけ、莉央の横を通り過ぎかけた。
ふと、莉央の顔を見た。
「あら、顔が真っ赤よ。大丈夫?」
莉央は小さく首を振った。
「本当に? ずいぶん苦しそうだけど」
女性が一歩近づいた。
莉央は思わず顔を伏せる。
「ほら、こんなに汗かいてるじゃない」
その瞬間、装具が再び作動した。
「……っ!」
莉央の身体がびくりと跳ねた。
――今は、やめて。
反射的に膝が折れかけ、慌てて肩を壁に押し当てる。
女性がすぐ目の前にいる。
何でもない顔をしなければ。
莉央は必死に姿勢を戻そうとした。
けれど、息がうまく整わない。
「んっ……ん……」
押し殺した声が、マスクの奥でくぐもる。
――お願い。気づかないで。
女性の視線が、ますます心配そうになる。
「あら、マスクまでびっしょり。具合悪いんじゃないの?」
汗ではない。
口枷のせいで溢れた唾液が、マスクをすっかり濡らしていた。
莉央は大きく首を横に振った。
その拍子にまた身体がふらつく。
とっさに壁へ身を寄せた。
顔が熱い。
こんな場所で、こんな姿を見られている。
その事実まで意識してしまい、莉央は自分の思考を必死に振り払った。
――だめ。今は何も考えない。
ただ立っている。
それだけのことが、ひどく難しかった。
「ちょっと、あなた。本当に大丈夫?」
女性が顔をのぞき込む。
莉央ははっと顔を上げた。
これ以上、ここにいてはいけない。
何度も頭を下げ、そのまま階段を上り始める。
「気をつけてね! 無理しちゃだめよ!」
背後から女性の声が追いかけてきた。
莉央は振り返らなかった。
八階。
莉央は階段の途中で足を止めた。
肩で大きく息をする。
胸が激しく上下し、額から汗が流れ落ちた。
手すりをつかめないため、壁に肩を押し当てて身体を支える。
膝も、少し気を抜けばカクッと折れてしまいそうだった。
――あと二階。
そう自分に言い聞かせ、再び足を上げる。
一段。
また一段。
途中で何度も立ち止まった。
息を吸っても吸っても、足りない。
マスクが口元に張りつき、呼吸をするたびに苦しさが増した。
九階。
莉央は踊り場にたどり着くなり、壁にもたれかかった。
しばらく動けなかった。
――もう少し。
十階まで、あと一階だけ。
けれど、その一階が途方もなく遠く感じられた。
莉央は壁に肩を擦りつけるようにして身体を起こした。
重い足を持ち上げる。
一段上がるたびに息が乱れ、何度も膝が折れそうになる。
ようやく十階の表示が見えた。
最後の数段は、ほとんど気力だけで上がった。
廊下へ出る。
肩で息をしながら、壁づたいに、ようやくドアの前までたどり着いた。
――帰ってきた。
あと少し。
部屋に入れば、全部終わる。
そう思っていた。
ドアの前で足を止めた。
――あれ?
閉まっている。
確かに、少し開けておいたはずなのに。
莉央は慌ててドアノブに背を向けた。
後ろ手に固定された両手を必死に持ち上げようとする。
けれど、届かない。
身体をひねり、もう一度試す。
――だめ。高すぎる。
下に押し下げるだけで開くはずなのに。
――そうだ、肩なら。
莉央は膝を曲げ、肩をドアノブに押し当てた。
カタッ。
レバーがわずかに動いた。
けれど、すぐ元に戻ってしまった。
ガタンッ!
また駄目だった。
――嘘、嘘でしょ!
どうして。どうして開かないの。
――やばい。どうしよう。
誰かが来る。
こんな姿を見られたら。
会社も、仕事も、今までの生活も。
全部、終わってしまう。
「んんっ……!」
助けを呼びたい。大声で叫びたい。
けれど、口枷に塞がれた口から漏れるのは、くぐもった声だけだった。
――嫌、嫌、嫌!
誰かが心配してコートを脱がせようとしたら。
装具まで見られたら。
どう説明すればいいの。
莉央は必死に身体をひねった。
ドアノブは動かない。
――お願い、開いて!
――誰も来ないで!
――でも、誰か助けて!
そのとき、装具が再び作動した。
莉央の身体がびくりと震えた。
――だめ……もう……。
膝から力が抜ける。
ドアに肩を押し当て、何とか踏みとどまろうとした。
けれど、もう限界だった。
ずるずると、ドアに背中を預けたまま沈んでいく。
――立たなきゃ……。
廊下に座り込んだところで、頭ががくりと前に落ちた。
遠くで何かが動く音がした。エレベーターだろうか。
誰かが来る。逃げなきゃ。
そう思ったはずなのに、もう身体は動かなかった。
――誰も……来ないで……。
その思いを最後に、莉央の意識はふっと途切れた。
どれくらい経ったのだろう。
莉央はゆっくりと目を開けた。
冷たい床。背中には硬いドア。
いつの間にか、装具の振動は止まっていた。
乱れていた呼吸も、少しずつ落ち着いていく。
ぼんやりと横を向いた。
隣のドアが、少し開いている。
――えっ……?
莉央は目を見開いた。
――嘘……こっちだったの?
しばらく呆然とした。
あんなに必死になっていたのに。
――もう……。
泣きたいのか、笑いたいのかも分からなかった。
莉央は壁に肩を押し当て、震える脚で立ち上がった。
よろめきながら隣のドアへ進む。
肩でそっと押すと、あっさり開いた。
――帰れた……。
部屋に入り、背中でドアを閉める。
ようやく誰にも見られない場所に戻れた。
莉央はよろめきながらテーブルへ向かった。
置いておいた鍵を使い、ようやく両手の拘束を解いた。
まずコートを脱ぎ、マスクと口枷を外す。
それから、身体につけていた装具を一つずつ外していった。
――終わった……。
莉央は両手で顔を覆い、そのまま床にへたり込んだ。




