高瀬課長――いつもの上司に、いつもの私では話せないこと
名刺を見つけた翌日の夜、莉央はスマートフォンを手にしたまま、しばらく画面を見つめていた。
神谷 蓮。
Freelance Writer / Editor。
そして、メールアドレスだけ。
公園で別れたあと、いつコートのポケットへ入れられたのかは、今でも分からない。あれほど無防備になっていた間に入れられたのだと思うと、公園での光景がまた頭に浮かんだ。
メールの入力欄を開く。
何か書いては消し、また書いては消した。
楽しかった、と書くのも違う気がした。もう一度会いたい、と自分から書くのは、もっと抵抗があった。
結局、送ったのは驚くほど短い文章だった。
神谷さん
先日はありがとうございました。
桐生莉央です。
送信したあとになって、もっと何か書けばよかったのではないかと思った。
けれど、十分も経たないうちに返信が届いた。
無事帰れたみたいでよかった。
また連絡する。
それだけだった。
公園でのことを聞かれると思っていた。楽しかったか、またやりたいか、自分がしたことをどう思っているのか。
けれど蓮は、何一つ聞かなかった。
莉央はほっとした。
同時に、ほんの少しだけ物足りなかった。
翌日、昼休みを終えたころ、机の上のスマートフォンが短く震えた。
蓮だった。
《会社の中から三人選んで》
その直後、もう一通届く。
《自分の趣味を絶対に知られたくない相手》
《知られたら、その人の見る目が変わると思う相手》
莉央は思わず画面を伏せた。
会社の中から、三人。
考えるまでもなかった。
高瀬課長。
直属の上司で、四十代の男性。面倒見がよく、人を悪く疑わない。莉央が仕事で困っていれば、事情を細かく聞くより先に、まず手を差し伸べるような人だった。
そんな高瀬にだけは、失望されたくなかった。
森田。
同じチームの男性社員で、莉央とは年齢も近い。仕事の合間に軽口を叩き合える程度には距離が近く、会社の中では気を張らずに話せる相手の一人だった。
恋愛感情があるわけではない。
それでも、自分の趣味を知られれば、今までとは違う目で見られる気がした。
そして、白石。
三つ下の女性の後輩。真面目で、少し潔癖なくらいきちんとしている。仕事にも熱心で、分からないことがあればよく莉央のところへ聞きに来た。
以前、二人で残業をしていたとき、白石が何気なく言ったことがある。
「桐生さんみたいになりたいです」
仕事ができて、いつも落ち着いていて、ちゃんとしている。
白石の中には、そんな桐生莉央がいる。
その白石にだけは、絶対に知られたくなかった。
綺麗で、仕事ができて、ちゃんとしている先輩。
その像が崩れて、白石の目の中で自分が別の人間に変わってしまうことを想像すると、三人の中で一番強く胸がざわついた。
莉央は三人の名前と、それぞれとの関係や性格を簡単にまとめて蓮へ送った。
しばらくして返信が届いた。
《最初は高瀬課長》
続いて、理由が一行だけ表示された。
《一番壊れにくいから》
高瀬なら、まず心配する。
蓮の言葉の意味は、莉央にもすぐ分かった。
その日の夕方、蓮から次のメッセージが届いた。
《MISSION》
《合格ライン 80点》
《次の三か所に何らかの痕を残し、高瀬課長に見せること》
《内腿 30点》
《臀部 40点》
《胸 30点》
《三点すべてを視認させること》
《会話はすべて録音》
《終了後、音声を送信》
莉央は、最後まで読んでからもしばらく画面を閉じることができなかった。
内腿。
お尻。
胸。
明日の会社で、それを高瀬課長に見せる。
しかも偶然見えるのではない。自分から相談を持ちかけ、自分から見せるのだ。
その夜、莉央は翌日まで消えない程度に、三か所へ痕を残した。
内腿には細い圧痕がいくつか残り、お尻には赤みが広がっている。胸にも、服を開けばすぐ分かる位置に細い痕が残った。
鏡の前で一つずつ確認する。
明日の昼になっても、おそらく残っている。
――これを、高瀬課長に見せる。
そう思った瞬間、身体のどこかがざわついた。
明日、自分は会社の会議室でブラウスのボタンを外し、スカートを上げ、ストッキングを下ろす。
普段なら絶対に見せないところを、高瀬課長の前に自分から晒す。
高瀬がどんな顔をするのか。どこへ視線を落とすのか。
想像するだけで、恥ずかしいのに落ち着かなくなる。
――私、明日、課長の前でこんなことするんだ。
その姿を頭の中でなぞっているうちに、莉央の意識は自然と下着へ移った。
胸は、手持ちの普段使いのブラジャーで十分だろう。わざわざ新しいものを用意する必要はない。派手すぎず、可愛すぎず、高瀬の目に入ってもまだ耐えられるものを選べばいい。
問題は、お尻だった。
いつものショーツでは、跡をきちんと見せようとすれば、ショーツそのものをかなり下げることになる。
さすがに、それは嫌だった。
会社の帰り、莉央はランジェリーショップへ寄った。
店内を見回していると、女性店員が声をかけてくる。
「何かお探しですか?」
「あの……Tバックのショーツ、置いてます?」
口にすると、少しだけ恥ずかしかった。
「はい、ございますよ。こちらです」
店員は特に気にする様子もなく、いくつかの商品を見せてくれた。
「お洋服に響かないものをお探しですか?」
「はい。パンツに下着のライン出したくなくて」
「でしたら、こちらが使いやすいと思いますよ」
莉央は勧められた一枚を手に取った。
「……初めてでも大丈夫ですか?」
「もちろんです。最初は少し違和感があるかもしれませんけど、慣れる方多いですよ」
莉央は小さく頷き、そのまま一枚選んだ。
店員は何も知らない。
明日、高瀬課長にお尻の痕を見せるために、自分がこれを買っていることも。
そう考えると少しだけ恥ずかしかったが、それ以上は考えず、会計を済ませた。
翌朝、莉央はいつもより少し早く支度を始めた。
ブラジャーは、昨夜決めたとおり、普段仕事で使っているものを選んだ。
そのあと、昨夜買ったTバックを履いた。
初めてなので少し違和感はあったが、気にするほどではない。
その上からストッキングを履き、スカートを下ろす。ブラウスを整えて鏡の前に立てば、見た目はいつもと何も変わらなかった。
けれど、服の下には今日のために残した三か所の痕がある。
今日、その全部を高瀬課長に見せる。
会社へ着くと、朝はいつもどおりに過ぎていった。
メールを確認し、資料を直し、森田と仕事の合間に少し話す。
白石も、いつものように莉央の席へやってきた。
「桐生さん、これ、このまま出して大丈夫ですか?」
莉央は差し出された資料に目を通した。
「うん。ここだけ直せば大丈夫」
「ありがとうございます」
白石は素直に頷き、自分の席へ戻っていく。
その背中を見送りながら、莉央は昨日、自分が白石のことまで蓮に伝えたことを思い出した。
今日は高瀬課長だけだ。
森田にも、白石にも、まだ何も起きない。
それでも、昨日まで何も意識せず接していた二人が、今はどこか違って見えた。
午後、高瀬課長、森田、それに数人の社員を交えた打ち合わせが始まった。
莉央はいつものように資料を説明し、質問に答えた。高瀬課長が途中で補足を入れ、森田が軽い冗談を挟む。何人かが笑った。
何も変わらない。
いつもの仕事の時間だった。
けれど、莉央だけはその先を知っていた。
打ち合わせが終われば、自分だけ残る。
そして、高瀬課長に声をかける。
「課長、すみません。ちょっとだけ……相談いいですか?」
打ち合わせ終了予定まで、あと十五分。
普段ならあっという間に過ぎるはずの十五分が、その日だけは妙に長く感じられた。
打ち合わせは、予定より数分早く終わった。
高瀬課長が資料を閉じる。
「じゃあ、この方向で進めよう。森田、修正版だけ今日中に共有しておいて」
「了解です」
椅子を引く音が重なり、森田たちが立ち上がった。
一人、また一人と会議室を出ていく。
最後に森田が、
「お疲れさまでした」
とドアを閉めた。
静かになった。
さっきまで何人もの声があった会議室に、高瀬と二人だけが残っている。
莉央は資料を片づけるふりをしながら、スマートフォンの録音を開始した。
それから顔を上げる。
「課長、すみません。ちょっとだけ……相談いいですか?」
高瀬が莉央を見る。
「ん? ああ、いいよ」
その何気ない返事が、逆に莉央を緊張させた。
「実は……交際している相手のことで、少し相談があって」
高瀬が椅子へ座り直した。
「うん。どうした?」
莉央は一度、言葉を切った。
「SMとか、その……縛ったり、少し痛くしたりとか」
高瀬が一瞬だけ黙った。
「そういうことをする相手なの?」
「はい」
莉央は小さく頷いた。
高瀬の表情が少し曇った。
「桐生さん、それ大丈夫なのか?」
「嫌なことを無理にやらされてるんじゃないの?」
あまりにも高瀬らしい反応だった。
莉央は少し俯いた。
「違うんです」
その言葉は、思っていたよりすんなり出た。
「もっと痛いのも、もっと恥ずかしいのも……求めちゃうんです」
言い終えた瞬間、顔が熱くなり、高瀬の顔をまともに見られない。
高瀬はすぐには何も言わなかった。
その沈黙が、急に怖くなった。
やっぱり引かれた。
そう思いかけたところで、高瀬が口を開いた。
「まあ……そういうのは、人それぞれだからね」
莉央は顔を上げた。
「え……」
「だからって、桐生さんを変だとか、そういうふうには思わないよ」
少しだけ肩の力が抜けた。
「課長……嬉しいです」
目に少し涙が滲んだ。
「変態って言われるかもって、すごく不安で……」
高瀬は困ったように笑った。
「いや、そこまで言うつもりはないよ」
莉央は小さく頷いた。
少し間を置いてから、もう一度口を開く。
「だったら……課長には、こういうこと、知っておいてほしいです」
高瀬が少し意外そうに莉央を見る。
「その……実際に跡が残ることもあるので」
莉央は一度、言葉を切った。
「もしお嫌でなければ……見ておいてもらえますか?」
少し間があった。
「……僕が見てもいいの?」
「はい。あとで見つけて、変に心配されるより……最初から知っておいてもらった方がいいかなって」
高瀬はすぐには答えなかった。
「桐生さんが、それで安心できるなら」
「ありがとうございます」
莉央は小さく頭を下げた。
「その……まず、ここなんですけど」
椅子に浅く座り直し、スカートの裾へ手をかける。
高瀬の視線も、自然とその手元へ落ちた。
莉央はスカートの片側だけを持ち上げ、その下のストッキングを太腿まで下ろした。膝を少し外へ向けると、内腿に残った細い跡が見える。
「ここです」
指先で場所を示した。
「まだ、結構残ってますか?」
高瀬は一瞬だけ視線の置き場所に迷ったようだった。それでも、莉央が見てほしいと言った場所へ目を向ける。
「……うん。まだ残ってるね」
莉央は、その視線を確認した。
自分が頼んだから、高瀬課長が自分の内腿を見ている。
「痛くない?」
「今は、そんなに」
莉央は答えながら、高瀬の表情をそっと見た。
興味本位で見ているわけではない。本当に、自分が大丈夫なのかを確認している顔だった。
そのことが、余計に恥ずかしかった。
ふと、今の自分の姿が頭に浮かんだ。
平日の午後。会社の会議室。
いつもの仕事着のまま、椅子に浅く腰掛け、片側のスカートを持ち上げている。ストッキングは太腿まで下がり、開いた脚の内側を、直属の男性上司に見せている。
相談している内容を知らない人が、今このドアを開けたらどう思うだろう。
自分でスカートを上げ、自分でストッキングを下ろし、自分で脚の角度まで変えている。
――私、何してるんだろう。
顔がさらに熱くなった。
それでも、莉央はすぐには膝を戻さなかった。
「……ありがとうございます」
ようやく膝を戻し、スカートを下ろした。
ストッキングを元に戻そうとして、手を止める。
「実は……もう一か所あって」
高瀬が少し心配そうな顔をした。
「まだあるの?」
「はい。お尻も、叩かれたりしてて……」
「大丈夫なの、それ」
「今は、そんなに痛くないです。でも、みみず腫れみたいになってるところがあると思うので……」
莉央は立ち上がった。
そのまま机の端へ移動し、ストッキングを膝の上まで下ろす。
スカートを持ち上げ、片手で落ちないよう押さえたまま、もう片方の手を机につく。
上半身を低く保ち、お尻を後ろへ突き出した。
「……こんな感じなんですけど」
高瀬から返事がない。
莉央は、ふと高瀬の位置から見た自分を想像する。
机に手をつき、上半身を低くしている自分。もう片方の手では、スカートが落ちないように押さえている。
後ろを見ると、高瀬は思っていたより近い位置にいた。
持ち上げたスカートの下には、左右に赤く残った痕。その間には、昨夜買ったTバックの細い紐が走っている。
布があまりに細いせいで、お尻の穴も完全には隠れず、その奥にはあそこの盛り上がりまで下着越しに分かってしまう。
――課長に、全部見られちゃってる。
そう思った瞬間、顔が熱くなった。
「……まだ、腫れてますか?」
高瀬は少し間を置いてから答えた。
「うん。まだ赤いね。少し盛り上がってるところもある」
「みみず腫れみたいになってます?」
「そうだね。何か所か」
莉央は、スカートを押さえている手に少し力を入れた。
「あの……少し触ってもらってもいいですか?」
口にしたあと、自分でも少し驚いた。
見せるだけでよかったはずなのに。
高瀬の返事が止まった。
莉央は顔だけを少し横へ向けた。
「自分だと見えないし……どのくらい腫れてるのか、分からなくて」
「……触ってもいいの?」
「はい。お願いします」
それでも莉央は、お尻を突き出したまま、身体を起こさなかった。
少しして、高瀬の両手のひらが、赤く盛り上がった莉央のお尻にそっと触れた。
左右から包むように触れられた瞬間、莉央の身体がわずかに強張った。
「ここ、まだ腫れてるね」
高瀬の手のひらが、痕を確かめるように少し動く。
「反対側は?」
「そっちは……そこまでじゃないかな」
高瀬の声には、やはり変な含みはなかった。本当に、心配して確認しているだけだった。
その善意が、かえって恥ずかしかった。
――触ってもらっちゃった。
高瀬の手が離れる。
莉央は一度だけ息を整えた。
「ありがとう、ございます」
ようやく身体を起こした。スカートを下ろし、膝上まで下げていたストッキングを元に戻す。
服を整えると、見た目はもう、いつもの桐生莉央だった。
高瀬はまだ少し心配そうだった。
「本当に無理はしない方がいいよ。桐生さんが自分でいいと思ってやってるなら、僕が口出すことじゃないけど」
「はい」
莉央は小さく頷いた。
「でも……課長に話せて、少し楽になりました」
それは、半分くらい本当だった。
高瀬は、あんな姿まで見たのに、最後までいつもの高瀬課長のままだった。
そのことに、莉央は少し安心していた。
「また何かあったら、話くらいは聞くから」
「ありがとうございます」
莉央は頭を下げた。
二人で会議室を出ると、少し離れたところに森田がいた。
「あ、結構長かったっすね、課長」
森田が軽い調子で笑う。
「なんか、やばい案件とか?」
高瀬は苦笑した。
「いや、大した話じゃないよ」
「あ、そうなんすね」
森田はそれ以上気にする様子もなく、自分の席へ戻っていった。
莉央も何も言わず、自分の席へ向かった。
森田は何も知らない。
ついさっきまで、同じ会議室で莉央が何をしていたのかも。高瀬が何を見て、何に触れたのかも。
それを知っているのは、高瀬だけだった。
席に戻ると、莉央はパソコンを開いた。
その前に、スマートフォンを手に取る。
まだ録音中だった。
停止。
莉央は、そのまま音声ファイルを蓮へ送った。
数分後、画面が震えた。
《音声確認した》
《内腿 30点》
《臀部 40点》
次の一文を見た瞬間、指が止まった。
《胸 未達 0点》
「……あ」
完全に忘れていた。
胸にも、ちゃんと痕を残していたのに。
さらにメッセージが届いた。
《でも》
《お尻、触ってもらうところまでは指示してない》
《自発行動 +10点》
そして、
《合計80点》
《ギリギリ合格》




