九話
白塔は、塔ではない。
地図にも載っていないし、場所も決まっていない。
王都のどこを探しても、その名の建物は見つからない。
けれど、ある。
人の都合が集まってできた、見えない塔だ。
王族、貴族、軍、教会、商人。
立場も思想も違う者たちが、表では言えないことを裏で流す。
その流れが積み重なって、塔になる。
誰も全体を知らない。
けれど、誰もが一部を使っている。
そして一度関われば――
簡単には離れられない。
⸻
翌朝。
王都ギルドは、いつも通り賑わっていた。
扉を開けると、酒と汗と革の匂いが混ざった空気が流れ込んでくる。奥の酒場では、朝から飲んでいる冒険者が笑っている。受付前では依頼票を見ながら口論している者もいる。
普段と変わらない。
だが、どこか違う。
声のトーンが低い。
笑いが短い。
誰もが、無意識に周囲を気にしている。
昨夜、拘束していた依頼主が死んだ。
その話が、すでに広がっていた。
レインはその空気の中へ入る。
「おはようございます」
軽い声。
いつも通り。
受付のミアが顔を上げた。
「おはようございます……レインさん」
少しだけ間がある。
レインはそれに気づく。
「大変そうですね」
「……はい」
ミアは書類をまとめながら答える。
「昨日の件で」
「人が死んだと聞きました」
「……ええ」
ミアは視線を落とす。
昨日まで、依頼主は生きていた。
話もできた。
問い詰めることもできた。
それが一晩で、終わった。
何も残さずに。
「草は……今日はやめておきます」
レインが言う。
ミアは少し驚いた顔をする。
「珍しいですね」
「空気が狭いので」
「狭い?」
「はい。なんとなく」
ミアはそれ以上聞かなかった。
レインの“なんとなく”は、たまに当たる。
その時、奥の扉が開いた。
ギルド長。
その後ろに衛兵。
さらに白衣の男――検死官。
ざわめきが止まる。
ガレスが酒場側から立ち上がる。
「来たか」
エリシアもすでに壁際にいた。
「関係者、奥だ」
短い指示。
レインたちは会議室へ入る。
⸻
小さな部屋だった。
窓はあるが、厚い布で半分塞がれている。机の上には書類が並び、インクの匂いがわずかに漂っていた。
検死官が口を開く。
「昨夜拘束していた依頼主ですが――死亡しました」
ガレスが腕を組む。
「自害か」
「不明です」
「外傷は」
エリシアが聞く。
「首に小さな痕が一つ」
検死官は淡々と答える。
「針のようなものです。出血はほとんどありません」
「毒か?」
「検査中です。ただ……妙です」
その言葉で、空気が止まる。
「何がだ」
ガレスが低く言う。
「死に方が、綺麗すぎる」
ミアが息を呑む。
検死官は続ける。
「苦しんだ跡がない。毒なら、もっと荒れるはずです。呼吸が乱れ、爪で掻きむしり、身体が暴れる」
机に置かれた書類を指で叩く。
「だが、それがない」
「……眠ったみたいにか」
ガレスが言う。
「その通りです」
検死官は頷いた。
「まるで、眠っている途中で止まったような状態でした」
沈黙。
その静けさが、逆に不気味だった。
衛兵が口を開く。
「見張りは二人つけていました」
「何してた」
ガレスの声が荒くなる。
「持ち場にいました。ですが……」
「ですが?」
「気づいた時には、終わっていたと」
エリシアの目が細くなる。
「何も気づかなかったのか」
「はい。違和感はあったそうです」
「違和感?」
「静かすぎた、と」
その言葉が、妙に残る。
静かすぎる。
それだけで、人は異常に気づく。
だが、その時にはもう遅い。
「白塔か」
エリシアが言う。
誰も否定しない。
その時――
「処理が上手いですね」
レインが言った。
全員が振り向く。
「何だと?」
ガレスが聞く。
「殺してるのに、ただ死んだみたいに見せてます」
軽い口調。
だが、その内容は重い。
検死官が眉をひそめる。
「分かるのですか」
「何となくです」
レインは頷く。
「怖がらせる気がない感じです」
「どういう意味だ」
エリシアが問う。
「片付けてるだけです」
レインは言う。
「邪魔だから」
ミアの手が震える。
ガレスが低く呟く。
「人を、か」
「はい」
レインはあっさり答えた。
「物みたいに」
その時だった。
扉がノックされる。
「ミアさん宛に手紙が」
空気が凍る。
エリシアが制する。
「触るな」
布越しに受け取る。
白い封筒。
やけに綺麗だった。
開く。
中には一文。
――記録は、正しく扱いましょう。
それだけ。
ガレスが吐き捨てる。
「舐めてやがる」
ミアの顔が青ざめる。
エリシアが言う。
「見られているな」
レインが紙を見る。
「同じですね」
「何がだ」
「昨日と」
レインは言う。
「やり方が」
短い沈黙。
「丁寧です」
「丁寧?」
「はい」
レインは続ける。
「目立たせない。でも意味は分かる」
エリシアが静かに言う。
「恐怖を日常に落としているだけだ。食事や移動と同じように」
ガレスが顔をしかめる。
「つまり?」
「脅しすぎない」
エリシアは答える。
「逃げない程度に、怖がらせる」
ミアが震える声で言う。
「私……ですか?」
「近いからだ」
エリシアが言う。
「日常に」
レインが小さく頷いた。
⸻
夕方。
四人は大通りを歩いていた。
人は多い。
馬車が通り、商人が声を上げ、子供が走る。
普通の光景。
だが、安心はできない。
ガレスが周囲を見る。
「静かすぎるな」
「普通です」
レインが言う。
「普通が怖いんだよ」
ミアが少し笑う。
その時――
白い紙が舞った。
足元に落ちる。
「触るな」
エリシアが言う。
次の瞬間、紙が黒く変わる。
浮かぶ文字。
――見。
それだけ。
ガレスが唸る。
「来てやがる」
レインは紙を見たまま言った。
「まだですね」
「何がだ」
「本気じゃないです」
「なぜ分かる」
レインは少し考えてから言った。
「静かすぎないので」
沈黙。
本気なら、もっと何も起きない。
それが一番怖い。
レインは続けた。
「今は、見てるだけです」
ミアが小さく言う。
「怖いです」
「はい」
レインは頷く。
「でも、帰れます」
「……はい」
「今日は」
ガレスが言う。
「明日はどうすんだ」
「明日は明日考えます」
「お前な……」
エリシアが前に出る。
「行くぞ」
四人は歩き出す。
黒い紙は風に消えた。
誰も気づかない。
だからこそ怖い。
レインは空を見上げる。
「もう見られてますね」
その一言だけが、静かに残った。




