十話
王都の夕方は、昼よりも人が多い。
仕事を終えた人間が一斉に動き出す時間帯。露店は店じまいの準備を始め、商人は売れ残りを値切り、子供は親に手を引かれて帰っていく。石畳には長い影が伸び、昼とは違うざわめきが通りを満たしていた。
人が多いということは、安全に見える。
同時に、紛れやすいということでもある。
その中を、四人が歩いていた。
ミア、ガレス、エリシア、そしてレイン。
昨日の一件以来、ミアは一人で帰らないことになった。ギルド長の命令。エリシアの判断。ガレスの半ば強引な同行。そしてレインは、当然のようにそこにいる。
「今日は白パンですね」
ミアが言った。
レインは手元の包みを少し持ち上げる。
「はい。柔らかいです」
「昨日の黒パンは?」
「朝に食べました」
「相変わらずですね」
「パンは大事なので」
ガレスが横から口を挟む。
「その白パン、俺が買ったやつだからな」
「ありがとうございます」
「感謝が軽いな」
「ちゃんと噛んでます」
「そういう問題じゃねえ」
ミアが小さく笑った。
ほんの少しだけ、自然に。
昨日よりは、確実に。
怖さが消えたわけじゃない。ただ、抱えたままでも歩けるくらいにはなっていた。
エリシアは前を見たまま言う。
「今日は大通りだけを使う」
「遠回りですね」
ミアが答える。
「遠回りでいい」
ガレスが言った。
「近道は、待ち伏せに向いてる」
「なるほど」
レインが頷く。
「道は難しいですね」
「お前が言うと意味深なんだよ」
「普通に言ってます」
「それが困る」
人の流れは一定だった。
多すぎず、少なすぎず。
誰かが混ざるにはちょうどいい。
誰かが消えるにも、ちょうどいい。
エリシアはそれを理解していた。
だから足を止めない。
視線も泳がせない。
周囲を見すぎること自体が、隙になる。
「ミア」
「はい」
「視線を固定するな。周りを見ようとしすぎるな」
「……はい」
「怯えているのが分かると狙われる」
ミアは小さく頷いた。
レインが言う。
「怖いのは普通です」
ガレスがため息をつく。
「お前、こういう時だけまともだな」
「こういう時だけ?」
「他はだいたい変だ」
「なるほど」
その時だった。
レインの歩幅が、ほんのわずかにズレた。
止まったわけではない。
だが、エリシアは見逃さなかった。
「どうした」
「来てます」
軽い声。
ガレスが周囲を睨む。
「どこだ」
「まだ遠いです」
レインは白パンを見る。
「味が変わりました」
「またそれかよ」
「硬い感じです」
エリシアの手が剣の柄に触れる。
次の瞬間――
ガラッ!!
大きな音が通りに響いた。
荷車が横転する。
木箱が崩れ、果物が散乱する。
「うわっ!?」
「何だよ!」
人の流れが乱れる。
視線が一箇所に集まる。
その逆側。
影が動いた。
帽子を深く被った男。
どこにでもいる商人風の服。
特徴がない。
だから印象に残らない。
だが――
エリシアの背筋に冷たいものが走る。
あれは普通じゃない。
「ガレス」
「分かってる」
ガレスが前に出る。
男は自然に近づいてくる。
歩幅も、呼吸も、周囲の流れと同じ。
違和感がない。
それが一番の違和感だった。
ミアの背後へ。
手が伸びる。
細い指。
その先に――白い針。
昨日の検死。
首の小さな痕。
同じもの。
その瞬間。
「そこ、違います」
レインが言った。
軽い声。
男の動きが、ほんのわずかにズレる。
針は空を切った。
ミアが反射的に一歩横へ動く。
エリシアが間に入る。
ガレスが腕を掴みにいく。
だが。
「遅い」
別の声。
別の位置。
もう一人。
ガレスの死角から、別の男が出る。
同じように目立たない。
同じように普通。
「チッ!」
ガレスが振り向く。
だがレインが言う。
「左です」
ガレスは反射的に動いた。
拳を叩き込む。
ゴッ!!
男が吹き飛び、木箱に叩きつけられる。
周囲が騒ぐ。
だが最初の男は止まらない。
ミアへ。
今度こそ。
その瞬間――
空気が止まった。
音が遠のく。
人の声が薄くなる。
世界が、一瞬だけ軽くなる。
レインが一歩前に出ていた。
ただ、それだけ。
男の動きが完全に止まる。
止められたのではない。
進めなくなった。
目だけが動く。
レインを見る。
レインも見る。
数秒。
静止。
その奥。
人混みのさらに奥。
白い布で顔を覆った男がいた。
目だけが見える。
その目が、レインを見ている。
口が動く。
声は聞こえない。
だが意味は分かる。
――観測対象。
レインは首を傾げた。
「人違いでは?」
白い布の男の目が細くなる。
次の瞬間。
空気が戻る。
音が戻る。
人が動く。
男は一歩引き、人混みに溶ける。
「逃がすか!」
ガレスが追おうとする。
「追わない方がいいです」
レインが言う。
「なぜだ」
「見せたい道です」
エリシアの足が止まる。
「罠か」
「たぶん」
その時。
倒れた男が笑った。
「……もう遅い」
「何だと!」
ガレスが掴む。
次の瞬間。
男の体が震える。
首筋に黒い線。
呼吸が止まる。
目が死ぬ。
「またかよ……!」
ガレスが吐き捨てる。
エリシアが確認する。
「死んでいる」
ミアが震える。
「どうして……」
「口封じです」
レインが静かに言った。
その一言で、全員が理解する。
白塔は残さない。
証拠も、人も。
エリシアが低く言う。
「最初からそのつもりか」
「はい」
レインは頷く。
「たぶん、ミアさんを殺すつもりもなかったです」
「は?」
ガレスが振り向く。
「何言ってんだ」
「ミアさん一人の時は、来ません」
レインは言った。
「狙いが違うので」
「違う?」
エリシアが問う。
「はい」
レインは少しだけ考える。
「ミアさんを消すだけなら、もっと簡単です」
ミアが息を呑む。
「でも、やってません」
「……じゃあ何が目的だ」
レインはあっさり答えた。
「僕です」
沈黙。
「一緒にいる時を狙ってます」
「だったら、なぜお前一人の時に来ない」
ガレスが低く言った。
レインは少しだけ考える。
「僕一人を狙っても、あまり分からないからだと思います」
「分からない?」
「はい」
レインはミアを見る。
それから、ガレスとエリシアを見る。
「白塔が知りたいのは、僕が何を大事にしているか。何を怖がるか。何ができて、何ができないか」
軽い声だった。
だが、内容は軽くない。
「一人の時に襲えば、ただ逃げるか、戦うかです」
レインは続ける。
「でも、誰かがいる時なら分かります」
「何がだ」
エリシアが問う。
「僕が、どこまで動くか」
短い沈黙。
「誰を守るか」
ミアの指が、わずかに震えた。
「何を捨てられないか」
ガレスが舌打ちする。
「つまり……俺らを使って、お前の弱点を探ってるってことか」
「たぶん」
レインは頷いた。
「嫌なやり方ですね」
ガレスが舌打ちする。
「試されてるってわけか」
「たぶん」
レインは頷く。
ミアがレインを見る。
レインは変わらない顔をしていた。
何も変わっていないように見える。
だが確実に、何かが変わっていた。
「……帰るぞ」
エリシアが言う。
短く、強く。
四人は歩き出す。
人の流れに戻る。
何もなかったように。
けれど確かに。
何かは、始まっていた。
ミアの肩に、まだ力が入っている。
ガレスは周囲を睨む。
エリシアは警戒を解かない。
レインは空を見た。
「……もう来ません」
ぽつりと言う。
「本当か?」
ガレスが聞く。
「はい」
レインは頷いた。
「今日は、ここまでです」
「“今日は”かよ」
「はい」
軽い声。
でも、意味は重い。
ミアが小さく言う。
「……また来るんですか」
レインは少しだけ考える。
そして答えた。
「来ます」
即答だった。
「僕がいる時に」
その一言で、空気が止まる。
「……どういう意味だ」
エリシアが問う。
レインはあっさり言う。
「ミアさんじゃないので」
ミアが息を呑む。
「狙いは、僕です」
沈黙。
ガレスが舌打ちする。
「試されてるってわけか」
「たぶん」
レインは頷く。
「どこまで動くか」
少しだけ間を置く。
「どこまで守るか」
夕日が沈む。
影が伸びる。
人の流れは続く。
何も変わらないように見える。
だが、確実に。
何かが始まっていた。




