八話
その夜、王都の外れにある食堂は、いつも通り騒がしかった。
店の扉は古く、開け閉めのたびに軋んだ音を立てる。看板の文字は雨風で削れていて、初めて訪れた者なら店名を読み取るのに少し時間がかかるだろう。
だが、冒険者たちにはそれで十分だった。
安い。
量が多い。
多少騒いでも怒られない。
それだけで、彼らにとっては良い店だった。
店内には油と肉の匂いが満ちている。奥の大鍋では豆と芋と肉が煮込まれ、湯気が白く立ち上っていた。壁には古びた盾や欠けた剣が飾られている。持ち主が死んだのか、酔って置いていったのか、誰も知らない。
木の卓は油を吸い込み、何度拭いても薄く光っていた。床板はところどころ黒く染まり、歩くたびにかすかに軋む。
そんな店の一角に、三人が座っていた。
ガレス。
レイン。
そして、エリシア。
その組み合わせは、やはり少し浮いていた。
ガレスは冒険者らしく、椅子に深く腰を落とし、腕を組んでいる。粗野で、声も大きい。だが、この数日で、周囲を見る目が少し変わっていた。
レインはいつも通りだった。
くたびれた外套。
覇気のない表情。
目の前の煮込みに真剣な視線を向けている。
そしてエリシア。
彼女は鎧こそ着ていないが、背筋は崩れない。酒場のざわめきの中に座っていても、まるで訓練場の静けさをまとっているようだった。食事の席についているのに、視線は自然に入口、窓、奥の厨房、酔客の動きを拾っている。
レインはそれを見て、首を傾げた。
「……エリシアさんも、こういう場所に来るんですね」
「来る」
「少し意外でした」
「私は何だと思われている」
「壁際に立っている人です」
「人ではあるな」
ガレスが吹き出した。
「お前、本当に失礼だな」
「褒めたつもりだったんですが」
「どこがだよ」
レインは目の前の器へ視線を戻した。
煮込み。
肉が少し。
芋。
豆。
豆が多い。
それは重要だった。
具が多い料理は、食べた気になる。特に豆は腹にたまる。肉ほど派手ではないが、実用的で、よく噛めば甘みもある。
「今日は具が多いですね」
「また数えてんのか」
ガレスが呆れたように言う。
「重要なので」
「飯の評価基準が具と硬さしかねえのか、お前は」
「温度も大事です」
「そこじゃねえ」
レインは匙で煮込みをすくい、ひと口食べた。
少し塩が強い。
だが温かい。
昨日の黒パンだけの食事より、ずっといい。
「豪華ですね」
「今日は黙って食え」
ガレスがパンをちぎりながら言った。
「昨日も今日も、胸糞悪い話ばっかだったからな。こういう日は食うんだよ」
「そういう日は食べるんですね」
「そういう日は食う」
「学びました」
レインは真面目に頷いた。
しばらく、三人は黙って食べた。
食堂の奥では冒険者たちが酒を飲み、声を張り上げている。今日仕留めた魔物の話をしている者。報酬の分け前でもめている者。隣の卓に絡んで、逆に笑われている者。
いつもの夜だった。
だが、この卓だけは違っていた。
同じ煮込みを食べ、同じ湯気の中にいるのに、空気が重い。
白塔。
その名が、まだ誰の口にも出ていないのに、すでに卓の中央に置かれているようだった。
エリシアが器を置いた。
木の卓に、小さな音が落ちる。
「レイン」
「はい」
「なぜ私がここにいるか、分かるか」
レインは少し考えた。
「薬草採取のためではないですよね」
「違う」
即答だった。
「私は元々、別の任務で王都に来ている」
ガレスが顔をしかめる。
「やっぱりか」
「連合国同盟からの依頼だ」
その言葉で、卓の空気が変わった。
周囲の笑い声は続いている。
酒を注ぐ音も、厨房から響く怒鳴り声も変わらない。
だが、三人の周りだけ、音が一段遠のいたように感じられた。
「観察対象がいる」
エリシアはレインを見る。
「危険度不明。能力不明。影響範囲不明」
淡々とした声。
感情はない。
けれど、ひとつひとつの言葉が重い。
「だが、結果だけが異常に整う」
短い沈黙。
「それが、お前だ」
レインは匙を止めた。
それから、煮込みをひと口飲み込む。
「整っているなら、良いことでは?」
「普通はな」
ガレスが低く言う。
「普通じゃねえから問題なんだよ」
エリシアは続けた。
「ヴァルドは知っているな」
「黒い外套の人ですね」
「連合国同盟の監察官だ」
「監察官」
「お前を見ているのは、私だけではない」
レインは少し首を傾げた。
「ヴァルドさんと、エリシアさんは何が違うんですか」
ガレスがパンをちぎる手を止めた。
その問いは、軽く聞こえる。
だが、必要な問いだった。
エリシアとヴァルド。
二人ともレインを見ている。
二人とも連合国同盟に関わっている。
それなら、役割は何が違うのか。
エリシアは少し考えた。
そして、静かに答える。
「役割が違う」
「役割」
「ヴァルドは“判断する側”だ」
彼女は器ではなく、レインを見ている。
「報告を受け、分類し、危険度を決める。必要なら、上へ通す。処理すべきか、観測を続けるべきかを判断する」
「では、エリシアさんは?」
「私は“触れる側”だ」
短い言葉だった。
「現場で見る。近くに立つ。距離を測る。戦えるなら戦う。守る必要があるなら守る」
そこで、ほんの少しだけ間が空いた。
「そして、間違える」
レインは瞬きをした。
「間違えるんですか」
「人間だからな」
ガレスが横から言う。
エリシアは否定しなかった。
「ヴァルドは、お前を理解しようとしている」
「はい」
「私は違う」
エリシアの目が細くなる。
「お前に近づいた者が、どうなるかを見ている」
その言葉は、説明であると同時に警告でもあった。
ガレスが眉を寄せる。
「俺らも含めて、か」
「含めてだ」
「はっきり言うな」
「曖昧にする意味がない」
レインは器の中の豆を見つめた。
豆が湯気に揺れている。
「巻き込みたいわけではないんですが」
「分かっている」
エリシアが答える。
「だから見ている」
「観察されるのは、あまり得意ではないです」
「だろうな」
「でも、隠れて見られるよりはいいです」
「そう判断した」
「親切ですね」
「合理だ」
「親切と合理は、両立しますよ」
エリシアは一瞬だけ黙った。
ガレスが小さく笑いそうになったが、すぐにやめた。
エリシアが、次の言葉を口にしたからだ。
「白塔」
その一言で、空気が凍った。
ガレスの手が止まる。
レインも、動きを止める。
「昨日の件で、その名が出た」
エリシアの声は低い。
「塔ですね」
レインが言う。
「場所はない」
「塔なのに」
「そう呼ばれているだけだ」
ガレスが吐き捨てるように言った。
「白塔ってのはな、国の外にある悪の組織、なんて分かりやすいもんじゃねえ」
「違うんですか」
「違う」
エリシアが答える。
「国の中にある。複数の国の内側に、同時に存在している」
レインは静かに聞いている。
「王族、軍、貴族、教会、研究機関。表では別々の立場にある者たちが、裏で同じ場所に依頼を出す」
「何を依頼するんですか」
短い沈黙。
エリシアは言った。
「表でできないことだ」
それだけで、十分だった。
人を消す。
証拠を消す。
禁忌の研究を回す。
人体を使った実験の素材を集める。
強い兵を作る。
壊れにくい人間を探す。
それらの言葉は、全て口にしなくても伝わった。
だが、ガレスはあえて言った。
「人を壊すんだよ」
その声には怒りが混じっていた。
「昨日の連中がやってたみたいにな」
レインは黙っている。
「白塔の怖さは、単純な強さではない」
エリシアが続ける。
「姿を見せないことだ」
「姿を」
「ああ。命じた者、金を出した者、実行した者、記録を消す者。それぞれが別の顔をしている。誰が中心か分からない。だから斬れない」
「斬れない敵は面倒ですね」
「面倒で済むならいい」
エリシアの声は低かった。
「白塔に目をつけられた者は、消える」
「殺されるんですか」
「それだけではない」
エリシアはゆっくり言った。
「罪人になる。記録が変わる。味方が敵になる。証人が消える。昨日まで存在した事実が、最初からなかったことにされる」
ガレスが拳を握る。
「胸糞悪い話だ」
「だが、厄介なのはそこだけではない」
エリシアは続ける。
「白塔に救われたと言う者もいる」
レインが顔を上げた。
「救われた?」
「ああ。病を治された者。魔物に襲われた村を助けられた者。身寄りのない子供を引き取られた者。食えない者に仕事を与えられた者」
「いいこともしているんですか」
「表面上はな」
ガレスが苦々しく言う。
「だから厄介なんだよ」
エリシアは頷いた。
「白塔はただの悪ではない。少なくとも、彼ら自身はそう思っていない。彼らは必要悪を名乗る。未来のためだと言う。弱い者を救うために、別の弱い者を壊す」
食堂の奥で笑い声が上がった。
この卓の沈黙とはまるで別の世界の音だった。
レインは器を見つめる。
湯気はもう弱くなっていた。
「強くするために、壊すんですね」
「そうだ」
「それで、本当に強くなるんですか」
誰も答えなかった。
ガレスも。
エリシアも。
答えられなかった。
レインはゆっくり匙を置いた。
「僕は、あまりそういうのは好きじゃないです」
軽い声だった。
だが、その場の誰も、それを軽くは受け取らなかった。
ガレスが問う。
「じゃあ、どうする」
「どうしましょう」
「お前な……」
「白塔が来るなら、困りますね」
「困るで済ませるな」
「でも、来ていないものは止められません」
レインは黒パンを手に取る。
「来たら、その時考えます」
「遅いだろ」
「早く考えると疲れるので」
ガレスは額に手を当てた。
「本当に調子狂うな、お前」
「よく言われます」
エリシアは小さく息を吐いた。
「だから、一人で動くな」
「なぜですか」
「白塔が絡んでいる可能性があるからだ」
ガレスも続ける。
「もう街のゴタゴタじゃねえ。お前一人の話でもねえ」
「皆さんも危なくなるのでは?」
「もうなってる」
即答だった。
レインは黙る。
ガレスはまっすぐ言った。
「昨日の時点で、俺もエリシアも関わってる。ミアも報告を通してる。今さらお前一人が離れたところで、危険が消えるわけじゃねえ」
「でも」
「でもじゃねえ」
ガレスの声が少しだけ強くなる。
「お前が一人で動くと、こっちは何が起きたか分からねえんだよ。終わった後に“道を少し教えました”とか言われても困る」
「道は大事です」
「そこじゃねえ」
エリシアが静かに言う。
「見える範囲にいろ」
「見える範囲」
「お前は、何が起きたかを説明しない」
「苦手なので」
「だからだ」
エリシアの声は静かだった。
「見えないものは対処できない」
レインは二人を見る。
ガレス。
エリシア。
二人とも本気だった。
命令ではない。
拘束でもない。
囲おうとしているわけでもない。
ただ、近くにいろと言っている。
レインはこれまで、何度も囲われそうになった。
使われそうになった。
祈られた。
恐れられた。
殺されそうにもなった。
だが、今のこれは、そのどれとも違っていた。
「迷惑では?」
レインが言う。
ガレスは大きくため息を吐いた。
「お前な」
「はい」
「飯に誘ってる時点で、もう迷惑とかそういう段階じゃねえんだよ」
「そうなんですか」
「そうだよ」
エリシアも言った。
「私は任務としてお前を見ている」
少し間を置く。
「だが、それだけではない」
レインが顔を上げる。
「昨日、助かった者たちがいる」
短く言う。
「それは事実だ」
ガレスが鼻を鳴らす。
「つまり、あれだ」
「何ですか」
「勝手に消えんな」
レインは少しだけ目を細めた。
「消えませんよ」
「本当か?」
「たぶん」
「そこは断言しろ」
「努力します」
「一番信用ならねえ返事だな」
少しだけ空気が緩んだ。
レインは煮込みをもう一口食べる。
冷め始めている。
それでも、まだ温かい。
「では、しばらくご一緒します」
レインはあっさり言った。
ガレスが呆れる。
「軽いな」
「重く考えると疲れるので」
「そればっかだな」
「重要なので」
エリシアが言う。
「薬草採取にも同行する」
「エリシアさんが薬草採取に?」
「必要なら」
「贅沢ですね」
「そういう話ではない」
ガレスが苦笑する。
「Bランクが薬草採取か。見ものだな」
「ガレスも来る」
「は?」
「あなたも巻き込まれている」
「俺は飯だけで十分なんだが」
「もう遅い」
ガレスは顔をしかめた。
「……マジかよ」
レインは少しだけ嬉しそうに言った。
「賑やかになりますね」
「遠足じゃねえんだぞ」
「草採取は遠足に近い気がします」
「違う」
そのやり取りで、卓の空気が少しだけ戻った。
だが。
その瞬間だった。
レインの視線が、ふと上がった。
天井の梁。
薄暗い影。
油煙で黒ずんだ木材。
誰もいない。
何もない。
そう見える場所。
レインは、そこを見ていた。
「……見られてますね」
空気が止まった。
ガレスの手が止まる。
エリシアの指が、わずかに動く。
「は?」
ガレスが低く言った。
レインは笑う。
いつも通りに。
だが、その目だけが違っていた。
笑っていない。
どこか遠くを見ている。
「気のせいかもしれません」
「何が見える」
エリシアが問う。
「見えません」
「なら、なぜ分かる」
レインは少しだけ黙った。
食堂の喧騒が戻ってくる。
誰かが笑っている。
誰かが机を叩いている。
誰も気づいていない。
この卓だけが、別の場所に切り取られたようだった。
「食事の味が」
レインは言う。
「少し、変わりました」
ガレスが眉を寄せる。
「味?」
「はい」
レインは器を見る。
「見られている時の味です」
意味が分からない。
だが、笑えなかった。
エリシアは静かに立ち上がった。
「出るぞ」
ガレスも椅子を引く。
「どこからだ」
「分からない」
エリシアは短く答える。
「だから外へ出る」
レインは器を見た。
煮込みが少し残っている。
「……もったいないですね」
「今はそれどころじゃねえ」
「後で食べます」
黒パンを布に包む。
煮込みは持っていけない。
それが少し残念だった。
三人は食堂を出た。
扉が軋む。
外の夜気が冷たい。
店の中の光は温かく、そこだけが別の世界のように見える。
王都の夜は静かだった。
遠くで馬車の音がする。
屋根の上を猫が走る。
路地の奥で、酔った男が歌っている。
普通の夜。
平和な夜。
だが、もうそうは見えなかった。
白塔。
その名は、まだ輪郭を持たない。
どこにあるのかも分からない。
誰が属しているのかも分からない。
けれど、確かにこちらを見ている。
レインは空を見上げた。
「塔なのに、見えないんですね」
エリシアが答える。
「だから白塔だ」
ガレスが剣の柄に手を置く。
「見えねえなら、見えるところまで引きずり出すだけだ」
レインは少しだけ笑う。
「力強いですね」
「お前も少しは力強くしろ」
「努力します」
三人は歩き出した。
食堂の灯りが背後で小さくなる。
その灯りの中では、まだ誰かが笑っている。
誰かが酒を飲み、誰かが飯を食べている。
世界は変わらない。
誰かが消されても。
記録が書き換えられても。
人が壊されても。
王都の夜は、いつも通り続いていく。
だからこそ、恐ろしい。
レインは布に包んだ黒パンを軽く持ち直した。
捨てるには惜しい。
食べるには少し硬い。
けれど、後で食べると決めた。
その程度の小さな予定を、彼は大切にしていた。
その時、レインが足を止めた。
エリシアも止まる。
ガレスが振り返る。
「どうした」
レインは夜の通りを見ていた。
人影はない。
風だけが、路地を抜けていく。
「……気のせいかもしれません」
「またか」
ガレスの声が低くなる。
レインは笑った。
今度は少しだけ、困ったように。
「でも、たぶん」
ほんのわずかに間を置く。
その間が、やけに長く感じられた。
「もう、遅いです」
ガレスが息を呑む。
エリシアの目が鋭くなる。
「何が遅い」
レインは少しだけ空を見た。
黒い屋根。
細い月。
その向こうに、見えない何か。
「見つかりました」
軽い声だった。
あまりにも軽い。
けれど、その言葉は夜の空気を凍らせた。
誰に。
何に。
どうやって。
それはまだ分からない。
ただ、ひとつだけ分かる。
白塔は、もうこちらを見ている。
そしてレインもまた、それに気づいている。
エリシアは剣の柄に手をかけた。
ガレスも周囲を見る。
だが、敵はいない。
影もない。
気配もない。
見えない。
だからこそ、怖い。
レインは再び歩き出した。
「行きましょう」
「お前な……」
ガレスが歯を食いしばる。
「そういうことを言った後に普通に歩くな」
「立ち止まると寒いので」
「そこかよ」
「重要なので」
エリシアは何も言わなかった。
ただ、レインの隣を歩く。
さっきよりも、半歩近く。
ガレスも反対側に並ぶ。
三人の距離は、昨日よりも明らかに近かった。
それは仲間になったからではない。
まだ、そこまで単純なものではない。
観察。
警戒。
危機感。
それから、ほんの少しの信頼。
それらが絡まり合って、同じ方向へ歩かせている。
夜の王都を、三つの影が進む。
その上で、見えない塔が、静かに目を開けた。




