七話
北東街道を外れた森は、夜になると別の顔を見せる。
昼間はただの木々に見えたものが、夜には壁になる。枝は空を塞ぎ、葉擦れの音は人の囁きに似て、遠くで獣が踏んだ小枝の音すら、すぐ背後で鳴ったように聞こえる。
三台の馬車は、その森の奥へ進んでいた。
昼間の整った隊列は崩れている。
護衛たちは、誰も口数が多くない。予定が狂った時の沈黙だった。
襲撃は起きるはずだった。
北東街道の狭路、石橋、急な曲がり道。どこも盗賊が好む場所だ。斥候も出ていた。盗賊団が配置についていることも確認済みだった。
なのに、何も起きなかった。
「……気味が悪いな」
護衛のひとりが呟く。
「黙って進め」
先頭の男が短く返した。
だが、その男自身も理解している。
今回の輸送は、ただの運搬ではない。
“選別”だった。
中央の馬車が揺れる。
中から鎖の擦れる音がした。
押し殺された呼吸。小さな嗚咽。誰かが恐怖を飲み込む音。
護衛たちは聞こえないふりをする。
人ではない。
荷だ。
そう思わなければ、この仕事はできない。
森の奥に、古い製材小屋が見えた。
屋根は歪み、壁板は割れ、外から見れば放棄された廃屋にしか見えない。だが、地面には新しい馬車の跡があり、扉の金具だけは最近取り替えられていた。
使われている。
表に出せないものを、一時的に隠す場所として。
「降ろせ」
依頼主の男が命じた。
昼間、商人のような柔らかい笑みを浮かべていた男だ。
だが今、その笑みはない。
馬車の扉が開く。
中にいた者たちが引きずり出された。
十人。
男、女、少年、少女。
手足には枷。
首輪はない。
高価な奴隷ではないからだ。
正規の市場に出す商品ではない。
記録に残せない者たち。
戸籍を失った流民。戦災孤児。亜人の血を引く者。捕まっても探す者がいない者。
そういう人間だけが、選ばれていた。
「傷はつけるな」
依頼主が言う。
「値が落ちる」
その言葉に、護衛の一人が小さく笑った。
「値、ですか」
「当然だ」
依頼主は冷たく答える。
「人は、状態によって価値が変わる」
そこに悪意はなかった。
もっと悪い。
常識として言っていた。
少し離れた木の上で、レインはその様子を見ていた。
黒パンを齧りかけたまま、止まっている。
「……雑貨ではないですね」
昼間の答え合わせのように、小さく呟いた。
下では、少年が転びかけた。
護衛が足で押す。
少年は声を出さない。
声を出せば殴られると知っているからだ。
レインは黒パンを布に包み直した。
「これは、後で食べよう」
そう言って、枝から静かに降りた。
⸻
製材小屋の中では、依頼主が帳簿を開いていた。
護衛の長が問う。
「旦那、予定はどうするんです」
「変更する」
「盗賊団は?」
「捨てる」
依頼主は即答した。
「そもそも、あれは下位選別だ。街道襲撃程度で死ぬ個体なら、どのみち価値はない」
護衛の長が眉をひそめる。
「つまり、盗賊に襲わせたのは……」
「奪わせるためだけではない」
依頼主は帳簿に目を落としたまま言う。
「恐怖。拘束。逃走。暴力。混乱。その中で、どの個体が生き残るかを見るためだ」
淡々としていた。
まるで作物の出来を語るように。
「逃げようとする者。仲間を庇う者。反撃する者。諦めない者。そういう個体は高く売れる」
「どこに?」
「知る必要はない」
護衛の長は黙った。
依頼主は帳簿を閉じる。
「だが、今回は予定が崩れた。明朝、別ルートで搬送する。選別は第二段階へ回す」
「第二段階……」
「実験場だ」
その言葉で、小屋の中の空気が少しだけ冷えた。
護衛たちは荒事に慣れている。
人を運ぶことにも、見て見ぬふりにも慣れている。
だが、“実験場”という言葉だけは、別だった。
「公には存在しない場所だ」
依頼主は言った。
「国境の向こう。地図に載らない施設。そこでは、人間の限界を調べている」
「……人間の限界?」
「恐怖で壊れるか。飢えで壊れるか。痛みで壊れるか。魔力を流せば耐えるか。耐えた者に、何が残るか」
護衛の一人が、思わず顔をしかめた。
「それ、誰が買うんです」
依頼主は初めて笑った。
「買う、ではない」
静かな笑み。
「求めている」
「誰が」
「王だ」
護衛たちは黙った。
「王だけではない。将軍、祭司、研究者、貴族。国の表側で綺麗な言葉を吐く者たちが、裏側でこういうものを必要とする」
依頼主は小屋の奥に視線を向けた。
鎖につながれた者たちが、息を殺している。
「戦争は兵を消費する。魔物災害は人を減らす。なら、壊れにくい兵を作りたいと思うのは自然だろう?」
誰も答えない。
「これは商売ではない」
依頼主は言った。
「事業だ」
その声には誇りすらあった。
「複数の国が関わっている。表では互いを罵り、裏では同じ机に金を置く。連合国同盟ですら全貌を掴めていない」
護衛の長が喉を鳴らす。
「旦那、その話は俺たちが聞いていいんですか」
「聞いたところで何もできん」
依頼主は笑う。
「この計画の背後には、“白塔”がいる」
白塔。
その名を聞いた瞬間、護衛の数人が顔色を変えた。
白塔とは、国の名前ではない。
組織の名前でもない。
正確には、表に存在しない。
だが、裏の仕事をする者なら誰もが知っている。
王族の顧問。大貴族の資金。教会の異端研究者。軍の禁忌部門。
そうしたものが、国境を越えて繋がる場所。
誰が主かは分からない。
だが、誰も逆らわない。
逆らえば、消える。
「だから安心しろ」
依頼主は言った。
「我々はただの悪党ではない」
その時だった。
小屋の外で、見張りが声を上げた。
「誰かいる!」
依頼主の顔が変わる。
「確認しろ」
見張りが外へ出る。
数秒。
何も起きない。
戻ってこない。
別の護衛が向かう。
また、戻ってこない。
小屋の中の空気が変わった。
護衛の長が剣に手をかける。
「何だ」
外から声がした。
「すみません」
軽い声だった。
「道を聞きたいんですが」
扉が開く。
そこに立っていたのは、レインだった。
くたびれた外套。
安物の短剣。
手には、布に包んだ黒パン。
依頼主は目を細める。
「……お前」
「こんばんは」
レインは軽く会釈した。
「ここ、道に迷いやすいですね」
「なぜここにいる」
「少し気になりまして」
「何が」
レインは小屋の奥を見る。
鎖につながれた者たち。
震える少年。
立ったまま泣くのを堪えている少女。
「狭そうだったので」
その答えに、依頼主は一瞬だけ沈黙した。
それから、顔を歪める。
「殺せ」
短い命令。
護衛たちが動く。
速い。
訓練されている。
無駄も少ない。
だが――届かない。
最初の男が踏み込む。
レインは半歩横へずれる。
すると男の剣が、後ろの護衛の盾に当たる。
別の男が回り込む。
足元の板が軋み、体勢が崩れる。
弓を構えた者は、射線上に仲間が入って矢を放てない。
誰も転ばせていない。
誰も殴っていない。
誰も斬っていない。
レインはただ、そこにいる場所を少しずつ変えているだけだった。
だが、それだけで護衛たちの動線が潰れていく。
狭い小屋。
散らばった木材。
床の軋み。
仲間の位置。
武器の長さ。
恐怖による呼吸の乱れ。
それら全てが、レインに味方しているように見えた。
「何をしている!」
依頼主が叫ぶ。
「相手は一人だぞ!」
「分かってます!」
「なら殺せ!」
「届かねえんだよ!」
護衛の一人が叫んだ。
その声には、苛立ちよりも恐怖が強かった。
レインは首を傾げる。
「危ないですね」
「お前が言うな!」
護衛の剣が振るわれる。
レインは後ろに下がる。
剣は空を切り、そのまま柱に刺さった。
柱が軋む。
上から古い木屑が落ちる。
視界が一瞬だけ塞がる。
その隙に、鎖につながれていた少年の枷が外れていた。
切れていない。
壊れていない。
ただ、外れている。
少年は呆然と自分の手首を見る。
レインが言う。
「左の壁沿いに」
少年は反射的に動く。
「走らないでください。音が出ます」
少女が続く。
女が続く。
男が続く。
誰もが恐怖で足が震えている。
だが、不思議と護衛の視線はそちらへ向かない。
向かおうとした瞬間、別の護衛が邪魔になる。
足場が崩れる。
煙が舞う。
誰かの怒号が重なる。
まるで小屋そのものが、彼らの脱出を隠しているようだった。
依頼主だけが気づいた。
「おい! 商品を――」
「商品ではないと思います」
レインが言った。
軽い声。
だが、その一言で小屋の温度が変わった。
「黙れ」
依頼主の声が低くなる。
「お前に何が分かる」
「狭いのは嫌だろうなと」
「その程度の理由で、我々の事業を潰す気か」
「事業」
レインは少し考える。
「言い方が大きいですね」
「大きいとも」
依頼主は笑った。
怒りと誇りが混ざった笑み。
「これは個人の商売ではない。国境を越えた計画だ。王も、軍も、貴族も、神官も、皆が必要としている」
「そうですか」
「人は弱い。だから強くしなければならない。壊れる者は使えない。耐える者を選び、加工し、兵にする。これは未来への投資だ」
ガレスがいたら、怒鳴っていただろう。
エリシアがいたら、剣を抜いていただろう。
ミアがいたら、顔を青くしていただろう。
だが、レインは静かだった。
「強くしたいんですか」
「そうだ」
「なぜ?」
「世界は弱者を待たない」
依頼主は即答した。
「魔物は人を食う。国は国を滅ぼす。神は気まぐれに人を裁く。ならば、こちらも備えるしかない」
レインの目が、ほんの少しだけ細くなった。
神。
その言葉だけが、薄く空気に残る。
「そのために、人を壊すんですか」
「壊れるなら、そこまでの器だったということだ」
「なるほど」
レインは頷いた。
「僕は、あまり好きではないです」
「好みの話ではない」
「いえ」
レインは依頼主を見る。
「結構、好みの話だと思います」
その瞬間、依頼主は懐から黒い魔石を取り出した。
逃走用ではない。
攻撃用でもない。
通信石だった。
「白塔へ繋げ」
魔石が鈍く光る。
依頼主は叫ぶ。
「予定外の介入者だ! Fランク冒険者、名はレイン! こいつが――」
言葉が途切れた。
魔石の光が消える。
壊れてはいない。
ただ、繋がらない。
「……なぜだ」
依頼主が呟く。
「なぜ繋がらない」
レインは少しだけ首を傾げた。
「夜だからですかね」
「ふざけるな!」
「よく言われます」
護衛の長が背後から斬りかかる。
レインは避けない。
ただ、少しだけしゃがんだ。
剣はレインの頭上を通り過ぎ、依頼主の手元の魔石を弾いた。
魔石が床に落ち、砕ける。
護衛の長が青ざめた。
「あ……」
依頼主は震えた。
怒りではない。
恐怖だった。
白塔との連絡手段を失った。
その意味を、彼は理解している。
失敗した者。
証拠を残した者。
計画の一端を知られた者。
白塔は、そういう者を許さない。
依頼主は後ずさる。
「違う……私は、私は指示通りに……」
「そちらは裏口です」
レインが言う。
依頼主は反射的に走る。
裏口を開ける。
そこには、ガレスがいた。
「おう」
拳が入る。
依頼主は床に転がった。
ガレスの後ろには、エリシアもいる。
彼女は小屋の中を見て、一瞬で状況を理解した。
そして、レインを見る。
「一人で行くなと言われなかったか」
「善処しました」
「していない」
「少しだけ」
「していない」
ガレスが倒れた依頼主を縛り上げながら言う。
「お前、これを少しって言うのか」
「皆さんが来るまでの時間稼ぎです」
「時間稼ぎで組織一個潰すな」
「そうなんですか?」
ガレスは頭を抱えた。
エリシアは小屋の奥を見る。
鎖は外れている。
人々はいない。
逃げた後だ。
「どこへ逃がした」
「安全な方へ」
「どこだ」
「言わない方がいいと思います」
エリシアは黙った。
その答えは、拒絶だった。
だが、正しい拒絶でもあった。
今ここにいる全員が安全とは限らない。
ギルドも、衛兵も、国も。
白塔という名が出た以上、どこまで腐っているか分からない。
「分かった」
エリシアはそれ以上聞かなかった。
ガレスが眉をひそめる。
「いいのかよ」
「今は聞かない方がいい」
「……そういうもんか」
「そういうものだ」
レインは少しだけ嬉しそうに笑った。
「助かります」
「助けられているのは、こっちかもしれない」
エリシアはそう言いかけて、やめた。
口にすると、何かが決定的になる気がした。
昼過ぎには、王都ギルドの応援と衛兵が到着した。
依頼主と護衛たちは拘束された。
製材小屋からは偽造書類、取引記録、複数の国名が暗号化された帳簿が見つかった。
そして、白い塔の印。
それが、焼き印のように書類の端に押されていた。
エリシアはそれを見て、表情を硬くする。
「白塔……」
ガレスが聞く。
「知ってるのか」
「噂だけだ」
「噂?」
「国の外側ではなく、国の内側にいる怪物だ」
ガレスは黙った。
レインはその印を見ていた。
「塔ですか」
「心当たりがあるのか」
「高いところは、あまり得意ではないです」
「そういう意味ではない」
「ですよね」
レインは笑った。
だが、その笑みは少し薄かった。
夕方、王都ギルド。
戻った一行を見て、ミアはすぐに何かが起きたと分かった。
ガレスの服には木屑がついている。
エリシアの表情は硬い。
レインはいつも通りだが、手に持っていた黒パンが減っていない。
「……無事なんですね」
ミアが言う。
「はい」
レインが答える。
「何をしたんですか」
「道を少し教えました」
「それだけですか」
「はい」
ミアは深く息を吐いた。
「それが一番困るんです」
「そうなんですか」
「はい」
ミアは真面目に言った。
「レインさんの“少し”は、少しではないので」
レインは困ったように笑う。
「普通の加減が難しいですね」
「もう普通じゃないですよ」
「それでも、そうしたいんです」
短い沈黙。
ミアはそれ以上言わなかった。
ガレスが酒場側から声を上げる。
「おい、レイン!」
「はい」
「飯行くぞ」
「今日もですか?」
「今日もだ」
「最近、贅沢が続いています」
「今日は文句言うな。胸糞悪い日だから、うまいもん食うんだよ」
「そういうものですか」
「そういうもんだ」
レインは少し考え、頷いた。
「では、安いもので」
「まだ言うか!」
ギルド内に小さな笑いが起きる。
だが、笑っていない者もいた。
エリシアだ。
彼女はレインを見ていた。
彼は何をしたのか。
力ではない。
魔法でもない。
剣でもない。
ただ、配置を変えた。
ただ、道を示した。
ただ、立っていた。
それだけで、人身売買の一団が崩れ、白塔の一端が露出した。
普通の強者なら、敵を倒す。
レインは違う。
敵が勝手に崩れる場所に、世界を少しずらす。
そんなふうに見えた。
夜。
王都の外れに停められた黒い馬車の中で、監察官補佐は報告書を書いていた。
ヴァルドはいない。
アルゼイア王国へ向かったままだ。
だが、報告は送らなければならない。
「密輸組織の一部を拘束」
筆が進む。
「積荷とされた十名は行方不明。死亡痕跡なし」
さらに書く。
「対象レイン、戦闘行動なし。魔力反応なし」
そこで筆が止まる。
事実だけを書くなら、そうなる。
だが、それでは何も伝わらない。
補佐官は奥歯を噛んだ。
報告書というものは、現実を整えるためにある。
だが、今回の現実は整わない。
敵は崩れた。
被害者は消えた。
依頼主は捕まった。
白塔の名が出た。
そして対象は、何もしていない。
そんな報告があるか。
だが、そう書くしかない。
補佐官は一文を加えた。
――対象周辺において、敵対行動の連鎖的失敗を確認。
さらに続ける。
――対象の直接介入は確認できず。
筆が止まる。
少し悩み、最後に書く。
――ただし、結果は対象の意図に沿って収束した可能性あり。
封蝋を押す。
「アルゼイアへ送れ」
「至急ですか」
「ああ」
補佐官は短く答えた。
「至急だ」
部下が報告書を持って出ていく。
馬車の中には、ランプの揺れる音だけが残った。
補佐官は椅子に沈み込む。
白塔。
レイン。
ヴァルドの不在。
王都の中で、何かが動き始めている。
彼は窓の外を見る。
遠くに、ギルドの灯りが見えた。
そこでは今頃、あのFランク冒険者が安い飯を食べているのだろう。
世界の裏側を少し壊しておきながら。
何もしていないような顔で。
補佐官は、初めて小さく呟いた。
「……本当に、何者なんだ」
答える者はいなかった。




