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六話

 街道で何も起きないことは、普通ではない。


 もちろん、王都近郊の大通りなら話は別だ。衛兵の巡回があり、商人の往来が多く、盗賊も魔物も手を出しにくい。昼間なら、荷車一台でも問題なく進める。


 だが、王都から北東に伸びる旧街道は違う。


 森が深い。


 道幅が狭い。


 見通しが悪い。


 途中には古い石橋と、荷車が速度を落とさざるを得ない急な曲がり道がある。


 盗賊にとっては、理想的な場所だった。


 逃げ道がある。


 隠れる場所がある。


 襲う側が先に準備できる。


 しかも、その日は条件が揃いすぎていた。


 昼過ぎ。


 人通りが減る時間。


 輸送馬車。


 護衛はそれなりにいるが、軍ではない。


 荷は重く、馬車の速度は遅い。


 狙う側にとって、これ以上ない獲物だった。


 そして実際に、襲撃は起こるはずだった。



 王都ギルドの昼は、朝とは違う騒がしさがある。


 朝は依頼を取り合う声が多い。昼は、戻ってきた者たちの報告と、これから動く者たちの準備でざわつく。


 その掲示板に、一枚の依頼票が貼られた。


 護衛依頼。


 北東街道。


 輸送馬車三台。


 危険度は低。


 報酬は標準。


 文字だけなら、どこにでもある依頼だった。


「……妙だな」


 ガレスが腕を組んで言った。


 レインはその横で依頼票を見る。


「何がですか?」


「簡単すぎる」


「良いことでは?」


「良すぎるんだよ」


 ガレスは眉を寄せる。


「この時間から北東街道を通る輸送だぞ。しかも途中合流。普通なら、もっと報酬を積む」


 エリシアが依頼票を覗き込む。


「依頼主は?」


「商会名義ですね」


 ミアが台帳を見ながら答えた。


「ただ、実際の荷主は別にいるようです。代理提出です」


「怪しいですね」


 レインが言う。


 ガレスが少し驚いた顔をする。


「お前でも分かるのか」


「代理とか、別とか、だいたい面倒そうなので」


「判断基準が雑だな」


「でも当たってそうです」


 エリシアは短く言った。


「途中合流というのも気になる」


「何か隠してるってことか?」


 ガレスが問う。


「少なくとも、全ては出していない」


 エリシアは依頼票から目を離さない。


「それでも受けるのですか?」


 ミアが確認する。


 エリシアは頷いた。


「受ける。怪しい依頼ほど、放置すると面倒になる」


「僕は草の予定が」


 レインが言う。


 エリシアは視線だけ向ける。


「護衛依頼だ。草より人が関わる」


「人が関わると面倒ですね」


「だから行く」


「なるほど」


「納得するのかよ」


 ガレスが呆れる。


 レインは少し考えた。


「何も起きないなら楽そうなので」


「だから怪しいんだよ」


「難しいですね」


 ミアは手続きを進めながら、レインを見た。


 この数日、彼の周囲では“何か”が起きている。


 いや、正確には、起きているようで起きていない。


 助かるはずのないものが助かる。


 見つからないはずのものが見つかる。


 危険なはずの場所が、なぜか最後には収まる。


 その中心に、いつもレインがいる。


 けれど彼は、いつも何もしていないような顔をしている。


「お気をつけて」


 ミアはそう言うしかなかった。


「はい。できれば平和に戻ります」


「それが一番です」


「草も忘れずに」


「今は忘れてください」



 合流地点は、北東街道の分岐だった。


 王都の石畳が途切れ、土の道に変わる場所。


 そこには既に、三台の馬車が待っていた。


 先頭と最後尾に護衛。


 中央の馬車には布が掛けられている。


 荷車ではなく、箱馬車に近い造りだ。外から中身は見えない。


 馬はよく手入れされている。


 車輪も丈夫。


 護衛の装備も悪くない。


 だが、どこか整いすぎている。


 旅慣れた商隊というより、見られることを想定した隊列だった。


「追加護衛だ」


 ガレスが声をかける。


 依頼主らしき男が近づいてきた。


 柔らかい笑顔。


 丁寧な物腰。


 だが、目が笑っていない。


「助かります。少々急いでおりまして」


「荷は何だ?」


 ガレスが聞く。


「雑貨です」


「雑貨にしては重そうですね」


 レインが中央の馬車を見ながら言った。


 男の笑顔が、ほんのわずかに止まる。


「商売道具は色々ありますので」


「そうですか」


 レインはそれ以上聞かなかった。


 聞かない。


 だが、見ていた。


 布の奥から、かすかな音がした。


 木箱が揺れる音ではない。


 鎖が触れるような、小さな金属音。


 それから、押し殺した息。


 ガレスも気づいたのか、目を細める。


 エリシアは表情を変えない。


 ここで問い詰めるべきか。


 それとも、まず護衛として同行すべきか。


 判断は難しい。


 この場で強引に荷を改めれば、依頼主は抵抗する。


 証拠もない。


 それに――もし中に人がいるなら、下手に騒げば危険が増える。


 エリシアは短く言った。


「出発を」


 依頼主は笑顔で頷いた。


「ええ。日暮れまでに抜けたいので」



 街道に入ると、空気が変わった。


 王都の周辺では感じなかった森の匂いが濃くなる。


 湿った土。


 古い葉。


 木の幹に生えた苔。


 道は細くなり、馬車の車輪が石を踏むたびに鈍い音を立てる。


 護衛たちは無言だった。


 誰も中央の馬車を見ない。


 見るべきなのに、見ない。


 それが余計に不自然だった。


 ガレスが小声で言う。


「中、何だと思う」


「雑貨ではないですね」


 レインが答える。


「珍しくまともな返事だな」


「雑貨は呼吸しないので」


 ガレスの目が鋭くなる。


「やっぱりか」


 エリシアが静かに言う。


「今は動くな」


「分かってる」


「襲撃の可能性が高い」


「それも分かってる」


 北東街道には、有名な危険地点が三つある。


 一つ目は、倒木の多い狭路。


 二つ目は、古い石橋。


 三つ目は、森がせり出した急な曲がり道。


 盗賊が狙うなら、この三つのどこかだ。


 特に石橋は危険だった。


 馬車は必ず速度を落とす。


 橋の左右は低い谷になっている。


 前後を塞がれれば逃げ場がない。


 護衛が多くても、弓で馬を狙われれば終わる。


 しかも今回は馬車三台。


 動きが遅い。


 荷が重い。


 狙われる条件は、揃っていた。


 だからこそ、誰もが警戒していた。


 エリシアは森の上を見る。


 鳥の動き。


 枝の揺れ。


 風の流れ。


 小さな変化を拾う。


 ガレスは馬車の横につき、剣の柄に手を置いている。


 依頼主の護衛たちも、さすがにこのあたりから表情を硬くした。


 来る。


 誰もがそう思った。


 しかし、一つ目の狭路では何も起きなかった。


 ただ風が吹き、枯れ葉が道を転がっただけだった。


「……妙だな」


 ガレスが呟く。


「まだ早い」


 エリシアが答える。


 二つ目。


 古い石橋。


 馬車が速度を落とす。


 車輪が石を踏み、硬い音が鳴る。


 弓を構えるなら、ここだ。


 馬を狙うなら、ここだ。


 橋の中央で、隊列は一瞬伸びる。


 襲撃には最高の瞬間だった。


 だが――何も起きない。


 鳥すら飛ばない。


 ただ水の音だけが、谷底から聞こえる。


「おかしい」


 今度はエリシアが言った。


「そうなんですか?」


 レインが聞く。


「ここで来ない理由がない」


「来ない方が良いのでは?」


「それはそうだ」


 エリシアの声は低い。


「だが、来るはずのものが来ない時は、別の理由がある」


 ガレスが周囲を睨む。


「待ち伏せ場所を変えたか?」


「その可能性もある」


 だが、三つ目の急な曲がり道でも、何も起きなかった。


 そこは、さらに条件が良かった。


 前が見えない。


 馬車が曲がるために速度を落とす。


 側面が森に近づく。


 盗賊が飛び出せば、護衛の反応は遅れる。


 普通なら、ここで襲う。


 襲わないなら、最初から襲撃計画などない。


 だが、エリシアは確信していた。


 ある。


 この道には襲撃の気配があった。


 直前まで、確かにあった。


 それなのに、消えた。


 まるで誰かが、予定だけを抜き取ったように。


「……気持ち悪いな」


 ガレスが言った。


「平和ですね」


 レインが言う。


「平和すぎるんだよ」


 ガレスは苛立つ。


 だが、その苛立ちは誰に向けていいのか分からない。


 無事なのは良い。


 襲撃がないのも良い。


 だが、警戒している者ほど分かる。


 これは“何もなかった”のではない。


 “何かが起きるはずだった場所で、何も起きなかった”のだ。


 その違いは大きい。


 目的地に着いた時、依頼主は心底安堵した顔をした。


「助かりました」


 彼はそう言い、報酬を渡す。


 護衛たちも、表面上は緊張を解く。


 だが、誰も本当に安心してはいなかった。


 特に、依頼主側の護衛の一人は青ざめていた。


 彼は知っていたのだろう。


 この街道で、何かが起きる予定だったことを。


 それが起きなかったことの異常さを。


 レインは中央の馬車を一度だけ見る。


 中から、また金属音がした。


 小さく、かすかに。


 レインは何も言わない。


 ただ、視線を外す前に、一言だけ呟いた。


「……狭そうですね」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 だが、中央の馬車の奥で、息を呑む気配がした。



 帰り道は、三人だけだった。


 エリシア、ガレス、レイン。


 依頼主の一団は別の道へ向かった。


 そのこともまた、不自然だった。


「やっぱりおかしい」


 ガレスが言う。


「何がですか?」


 レインが問う。


「あいつら、絶対に何か隠してた」


「でしょうね」


「お前、さらっと言うな」


「見れば分かるので」


 エリシアがレインを見る。


「中に人がいたな」


「たぶん」


 ガレスが低く唸る。


「奴隷か?」


「可能性は高い」


 エリシアの声は冷たい。


「だが証拠がない。あの場で開けさせれば、依頼主側が抵抗した可能性がある。襲撃の可能性もあった」


「結局、何も起きなかった」


 ガレスが吐き捨てる。


「そうですね」


 レインは歩きながら言う。


「誰も怪我しませんでした」


「それでいいのかよ」


 ガレスが立ち止まる。


 レインも止まる。


「中に人がいたなら、助けるべきだったんじゃねえのか」


 エリシアは黙る。


 ガレスの問いは乱暴だが、間違ってはいない。


 レインは少しだけ考えた。


「今開けたら、たぶん死人が出ました」


「……」


「護衛も、依頼主も、中にいた人も」


 レインはいつもの調子で言う。


 軽い。


 だが、内容は軽くない。


「だから、今じゃない方がいいと思いました」


「じゃあ、いつだよ」


「さあ」


「お前な……!」


 ガレスが声を荒げかける。


 その時、レインは森の奥を見た。


「でも、たぶん」


 短い間。


「誰かが行きますよ」


 エリシアの目が細くなる。


「誰か?」


「はい」


「根拠は?」


「ありません」


「ないのかよ」


 ガレスが呆れる。


 レインは笑った。


「でも、そういう流れに見えました」


 エリシアは言葉を返せなかった。


 流れ。


 それは曖昧すぎる言葉だった。


 だが、今日の出来事を考えると、馬鹿にできなかった。


 襲撃は起こらなかった。


 起こるはずだったのに。


 何かがズレた。


 そしてレインは、そのズレを当然のように受け入れている。



 その夜。


 黒い馬車の中で、ヴァルドは報告書を開いていた。


 今日の護衛任務について、すでに別系統の情報が届いていた。


 北東街道。


 盗賊団。


 襲撃予定。


 密輸馬車。


 これらは全て、連合国同盟の監視網に引っかかっていた。


 だからヴァルドは、あの護衛依頼を見逃さなかった。


 正確には、利用した。


 対象レインが同行すれば、何が起きるか観測できる。


 そう判断した。


 だが、結果は想定と違った。


 襲撃は起きなかった。


 それ自体は、良いことだ。


 だが、情報上はありえない。


 盗賊団はすでに配置についていた。


 弓兵は石橋の上流側に伏せていた。


 斥候は狭路にいた。


 急な曲がり道には、馬を止めるための縄も準備されていた。


 全て、事前に確認されている。


 だが、襲撃直前になって盗賊団は撤退した。


 理由は不明。


 仲間割れではない。


 衛兵に見つかったわけでもない。


 より大きな戦力を察知したわけでもない。


 彼らはただ、何かを避けるように撤退した。


 そしてその後、別地点で捕縛されている。


 捕縛された盗賊の供述は、さらに奇妙だった。


 ――嫌な感じがした。


 ――あの馬車を襲うと、終わる気がした。


 ――何が、とは言えない。


 理由になっていない。


 だが、全員が同じようなことを言っている。


 ヴァルドは筆を取る。


「対象:レイン」


 書く。


「護衛任務に同行。戦闘行動なし。魔力反応なし。直接介入なし」


 ここまでは事実。


 続ける。


「襲撃予測地点三か所において、事象発生せず」


 筆が止まる。


「盗賊団、接触前に撤退。理由不明」


 部下が向かいで言う。


「偶然……ではないのですか」


「偶然で片づけるには、準備が整いすぎていた」


 ヴァルドは答える。


「襲撃側は配置済みだった。実行条件も満たしている。あの状況で退く理由がない」


「対象が何かを?」


「観測された行動はない」


「では」


「分からない」


 即答だった。


 分からないことを、ヴァルドは分かるふりをしない。


 それが彼の強さだった。


「ただし、対象周辺で“起こるはずだった事象が起きない”傾向が見られる」


 部下は沈黙した。


 ヴァルドは続けて書く。


「事象収束ではなく、事象回避の可能性」


 その時だった。


 馬車の外で足音が止まる。


「監察官」


「入れ」


 別の部下が入ってきた。


 封蝋付きの文書を差し出す。


「本国より緊急伝達です」


 ヴァルドは封を切る。


 短い文面。


 だが、その内容を見た瞬間、彼の目が細くなった。


「……アルゼイア王国」


 部下が顔を上げる。


「隣国ですか」


「同様の事象が報告されている」


「同様?」


「大規模盗賊団の襲撃予定地点において、接触なし。盗賊団は直前で撤退」


 部下の表情が変わる。


「こちらと同じ……」


「さらに別件。山岳地帯で発生予定だった崩落事故が、発生していない」


「予測されていたのに?」


「事前調査では、崩落は確実とされていた」


 沈黙。


 偶然。


 そう言うには、あまりに形が似ている。


「本国は、同種事象として調査を命じている」


「では、対象レインは」


「一時保留だ」


 ヴァルドは報告書を閉じた。


「私はアルゼイアへ向かう」


 部下が頷く。


「同行者は?」


「最小限でいい」


 ヴァルドは窓の外を見る。


 王都の灯りが揺れている。


 対象レイン。


 王都周辺の事象回避。


 アルゼイア王国での同種事象。


 繋がっているのか。


 それとも、別の何かか。


 結論はまだ出ない。


 だからこそ、調べる。


 ヴァルドは静かに言った。


「監視対象を増やす」


 その言葉だけが、馬車の中に残った。

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