五話
王都ギルドという場所は、朝から騒がしい。
依頼票を奪い合う若い冒険者。昨日の稼ぎを酒代に溶かしている男。鎧の留め具を直す者。剣の刃こぼれを見て顔をしかめる者。受付の前で報酬額に文句を言い、後ろに並んだ者から怒鳴られる者。
命を賭ける場所でありながら、そこには妙な日常があった。
だが、その日の空気はいつもより重かった。
原因は、昨日ギルドを訪れた黒い外套の三人である。
連合国同盟。
名だけなら誰もが知っている。
王国、帝国、聖国、自由都市連合。互いに牽制し、腹の底では信用していない国々が、それでも手を組まなければならない時のために作った組織。
表向きは、世界の安定。
実際は違う。
国ひとつでは処理できない災害。国家間の火種になりかねない禁忌。封じたはずの古代遺物。人の手に余る魔物。
そして、人の枠から外れた存在。
そうしたものを観測し、分類し、必要なら消す。
普通の冒険者が関わることはない。
関わらない方がいい。
それは、ギルドにいる者たちの本能に近い理解だった。
だから昨日の気配は、床板の隙間に染み込んだように残っている。
笑い声はある。酒の匂いもある。依頼票をめくる紙の音もある。
それでも、どこか声が低い。
誰かが扉を見る回数が、普段より少し多い。
その扉が、開いた。
「おはようございます」
レインだった。
くたびれた外套。
安物の短剣。
気の抜けた声。
緊張の理由をまるで知らないような顔で、彼はいつも通りギルドへ入ってきた。
不思議なことに、それだけで空気が少しだけ緩む。
理由は分からない。
だが、彼がいると“いつもの朝”が戻ってきたように見える。
レインは受付へ向かった。
「おはようございます、レインさん」
ミアが顔を上げる。
「おはようございます。今日こそ草でお願いします」
「“こそ”に強い願いを感じますね」
「ここ数日、草への道が遠いので」
「草への道……?」
「精神的な距離です」
「余計に分かりません」
ミアは苦笑しながら依頼票の束に手を伸ばした。
その少し離れた壁際に、エリシアが立っている。
腕を組み、周囲を見ている。
ギルドの常連ではない彼女が、連日この場にいることは本来なら不自然だった。
だが理由はある。
彼女は、レインを観察している。
それを隠してもいない。
レインはちらりと彼女を見た。
「今日も観察ですか」
「そうだ」
「堂々としてますね」
「隠れて見る必要がない」
「見られる側としては、分かりやすくて助かります」
「不意打ちはしない」
「それは安心です」
短い会話。
それだけで終わる。
エリシアは余計なことを言わない。レインも必要以上に踏み込まない。
その距離が、妙に成立していた。
酒場側から声が飛ぶ。
「おい、レイン」
ガレスだった。
「はい」
「昨日、何食った」
「黒パンです」
「それだけか」
「硬かったので、満足度は高かったです」
「硬さで飯を評価すんな」
「噛み応えは大事です」
「そこじゃねえよ」
近くの冒険者たちが笑う。
ガレスは顔をしかめながらも、どこか安堵したように見えた。
この数日で、彼も変わっていた。
乱暴なところは変わらない。
口も悪い。
だが、レインを見る目に、以前のような軽蔑はない。
警戒と戸惑い。
それから、本人が認めたがらない信頼。
その時、ギルド奥の扉が開いた。
出てきたのはギルド長だった。
片目に古傷を持つ年配の男。普段は奥の執務室にこもっているが、緊急時には表に出てくる。
その後ろに、黒い外套の男がいた。
ヴァルド。
連合国同盟第七監察官。
空気が再び沈む。
昨日の残滓ではない。
今、この場にいる者の重さだ。
ギルド長が低い声で告げた。
「緊急依頼だ」
ざわめきが起きる。
「王都北側、旧礼拝堂跡で子供が一人行方不明になった。周辺に小型魔物の痕跡あり。時間がない」
冒険者たちの顔つきが変わった。
報酬の話ではない。
子供。
行方不明。
魔物。
この三つが揃った時、迷っている時間はない。
旧礼拝堂跡は、王都北側の外れにある。
かつて小さな信仰の場だったが、数十年前の火災で焼け落ち、その後は放置された。人通りは少なく、背の高い草と崩れた石壁、古い墓標だけが残っている。
子供が遊びで近づくことはある。
だが、長く留まる場所ではない。
「推奨ランクはC以上。ただし、現在動ける者が少ない。近場の者で捜索隊を組む」
ギルド長が視線を動かす。
「エリシア」
「行きます」
即答だった。
「ガレス」
「行く」
ガレスも立ち上がる。
腕の傷はまだ完治していない。
だが、迷いはなかった。
その時、ヴァルドが口を開いた。
「レイン」
ギルド内の視線が一斉に集まる。
レインは自分を指差した。
「僕ですか?」
「同行してもらいたい」
「草の予定が」
「子供が消えている」
ヴァルドの声は淡々としていた。
責めるでもない。煽るでもない。
ただ、事実を置く。
レインは一瞬だけ沈黙した。
「……行きます」
返事は軽い。
だが、迷いはなかった。
ミアはその横顔を見て、胸の奥がわずかに締めつけられるのを感じた。
レインは逃げる。
目立つことから。期待されることから。自分を説明することから。
だが、こういう時だけは逃げない。
子供が危ないと聞いた瞬間、彼はもう逃げ道を捨てていた。
捜索隊はすぐに編成された。
エリシア、ガレス、ガレスの仲間二人。
そしてレイン。
さらに、ヴァルドと部下二人が同行する。
表向きは連合国同盟としての現地確認。
実際には、観察。
誰もが分かっている。
だが誰も口には出さなかった。
旧礼拝堂跡へ向かう道は、王都の外れへ続いている。
石畳が土道に変わり、家々の間隔が広がる。畑の向こうに黒ずんだ石壁が見えてくるころには、街の音は遠くなっていた。
風が強い。
草が擦れる音が、耳に残る。
旧礼拝堂跡は、思っていたよりも荒れていた。
崩れた壁。
焼け焦げた柱。
半分土に埋もれた墓標。
かつて人が祈っていた場所は、今では鳥も長く留まらない。
空は晴れているのに、そこだけ薄暗く感じる。
「足跡がある」
エリシアが膝をついた。
湿った土に、小さな靴跡が残っている。
それから、細い爪のような痕。
ガレスが顔をしかめた。
「グレイブインプか」
「可能性が高い」
「趣味の悪い小鬼どもだな」
グレイブインプ。
墓地や廃墟に棲みつく小型魔物。
単体なら大した脅威ではない。
だが、狡猾で、弱い者を狙う。
特に子供や老人、負傷者を弄ぶように襲うことで知られていた。
「子供をすぐには殺していない可能性がある」
エリシアが言う。
「遊ぶからか」
ガレスの声が低くなる。
「そうだ」
「胸糞悪いな」
レインは黙って足跡を見ていた。
小さな靴跡。
途中で乱れている。
走った跡。
だが、引きずられた跡はない。
つまり、少なくとも途中までは自分の足で動いている。
生きている可能性がある。
それだけで十分だった。
「二手に分かれる」
エリシアが指示を出す。
「外周はガレスたち。私は内部へ入る。レイン、来い」
「はい」
レインは素直に頷いた。
ヴァルドは少し離れた場所で、それを見ていた。
力は見えない。
威圧もない。
だが、子供の足跡を見てから、レインの空気が変わった。
焦りではない。
怒りでもない。
もっと静かなもの。
目的が決まった者の、無駄のない静けさ。
ヴァルドはそれを記憶する。
礼拝堂の奥には、地下へ続く階段があった。
石段は苔で湿り、踏めば水気が靴底にまとわりつく。
下から冷たい空気が流れてきた。
かり、かり。
何かが石を引っ掻く音が聞こえる。
エリシアが剣を抜く。
「下がっていろ」
「はい」
レインは素直に従った。
素直すぎるほどに。
地下は狭かった。
崩れた壁の隙間から光がわずかに差し込み、埃が浮かんでいる。古い祭壇の残骸。割れた石像。水の染みた床。
奥から、すすり泣く声が聞こえた。
「……いた」
祭壇の裏。
少年がいた。
壁際に座り込み、膝を抱えて震えている。
その周囲を、三体の小鬼が囲んでいた。
灰色の肌。
尖った耳。
細い爪。
グレイブインプ。
そのうち一体が、少年の髪を掴もうとしていた。
エリシアが踏み込む。
一体目の首が飛ぶ。
動きに迷いはない。
二体目が天井近くへ跳ねる。
エリシアは体を回し、返す刃で斬り落とした。
残る一体が、少年へ向かう。
少年が悲鳴を上げる。
レインは、動かなかった。
避けたわけではない。
迷ったわけでもない。
ただ、動かない。
その瞬間、横の崩れた通路からガレスが飛び込んできた。
「伏せろ!」
体ごと少年と小鬼の間に入る。
小鬼の爪が、ガレスの腕を裂いた。
血が飛ぶ。
だが、ガレスは退かない。
「このガキに触んな!」
剣を振り下ろす。
骨を断つ音。
小鬼が床に崩れた。
静寂。
少年の泣き声だけが残る。
レインはゆっくり近づいた。
「大丈夫ですか」
少年は震えながら、レインにしがみついた。
レインは少し困った顔をする。
抱きしめ方が分からない。
だから、背中を軽く叩いた。
ぎこちなく。
けれど、優しく。
「もう大丈夫です」
その声は、いつものように軽かった。
だが、少年は泣きながら何度も頷いた。
ガレスが腕を押さえながら言う。
「おい」
「はい」
「見てただろ」
「見てました」
「なんで動かなかった」
レインは少し考えた。
「間に合うと思ったので」
「俺がか?」
「はい」
ガレスは言葉を失った。
「……買いかぶりすぎだろ」
「そうですか?」
「そうだろ」
「でも、間に合いました」
レインは笑った。
「すごいですね」
ガレスは怒りたいような、照れたいような、複雑な顔をした。
「……調子狂うな、お前」
「よく言われます」
エリシアはそのやり取りを見ていた。
レインは動かなかった。
だが、結果は最善だった。
ガレスが間に合うことを読んでいたのか。
自分が動けば何かが露見すると考えたのか。
それとも、もっと別の何かか。
分からない。
分からないが、ひとつだけ確かなことがある。
レインは子供を見捨てるつもりではなかった。
必要なら動いただろう。
だが、動かずに済むなら動かない。
その線引きが、異常なほど正確だった。
地上へ戻ると、母親が泣きながら少年を抱きしめた。
礼を言われたのは、エリシアとガレスだった。
レインは少し離れた草むらの端で、黒パンを齧っていた。
「今食うな」
ガレスが言う。
「お腹が空いたので」
「タイミングってもんがあるだろ」
「救出後なので安全かと」
「そういう意味じゃねえ」
周囲に笑いが戻る。
張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。
レインは黒パンを見つめる。
「硬いですね」
「知るか」
「昨日の煮込みは柔らかかったです」
「だからまた行くかって言っただろ」
「連日は贅沢では?」
「飯くらい慣れろ」
「難しいですね」
ガレスは呆れたように息を吐いた。
エリシアが近づく。
「ガレス」
「何だよ」
「今の動きは良かった」
「……褒めてんのか?」
「褒めている」
「ならもう少し分かりやすく言え」
「よくやった」
ガレスは一瞬黙った。
「……おう」
耳が少し赤い。
レインはその様子を見て、少しだけ嬉しそうに笑った。
ヴァルドは離れた場所から、その全てを見ていた。
今回も、レインは何もしていない。
少なくとも、観測上は。
魔力反応なし。
戦闘行動なし。
直接介入なし。
だが、結果だけが奇妙だった。
子供は助かった。
ガレスは必要な瞬間、必要な位置に現れた。
エリシアは最短で二体を処理した。
レインは、何もしていない。
それなのに、すべてが“その形に収まるべく収まった”ように見える。
ヴァルドは目を細めた。
偶然。
そう片づけることはできる。
だが、偶然が続きすぎている。
夕方、王都ギルドへ戻ると、少年救出の話で大きな騒ぎになった。
「ガレス、また子供助けたのかよ!」
「英雄だな!」
「うるせえ!」
ガレスが怒鳴る。
だが、本気で嫌がっているようには見えない。
ミアは報告書を書きながら、レインを見る。
「レインさんは、何を?」
「黒パンを食べてました」
「それは救出後ですよね」
「はい」
「救出中は?」
レインは少し考えた。
「見てました」
「……そうですか」
エリシアが横から言う。
「彼は何もしていない」
レインは頷く。
「はい」
ミアはその言葉に、わずかに眉を寄せた。
何もしていない。
最近のレインは、それが一番おかしい。
ガレスが酒場側から声を上げる。
「おい、レイン! 飯行くぞ!」
「今日もですか?」
「今日もだ」
「贅沢ですね」
「食え!」
「では、安いものを」
「もうそれはいい!」
ギルド内に笑いが広がる。
その笑いの中で、ヴァルドだけは黙っていた。
夜。
王都の外れに停められた黒い馬車の中で、ヴァルドは報告書を書いていた。
ランプの光が紙の上で揺れている。
「対象:レイン」
筆が進む。
「旧礼拝堂跡における行方不明児童救出任務に同行」
事実。
「戦闘行動なし。魔力反応なし。直接介入なし」
これも事実。
だが、それだけでは足りない。
部下が低く言う。
「なら、やはり違うのでは」
ヴァルドは筆を止めなかった。
「違うと断じるには、あまりに整いすぎている」
「整いすぎている?」
「あの場で、ガレスが間に合った」
「偶然では?」
「そうかもしれない」
ヴァルドは静かに答える。
「だが、対象は動かなかった」
「恐怖で?」
「違う」
即答だった。
「あれは、動けなかった者の静止ではない」
部下が黙る。
「動く必要がない者の静止だ」
ヴァルドは報告書に一文を加える。
「対象周辺において、事象収束の偏りを確認」
「事象収束……?」
「偶然が、都合よく並びすぎる」
筆が止まる。
「能力不明。確証なし。危険度評価――測定不能。監視継続」
封をする。
「本国へ送れ」
「はっ」
部下が報告書を受け取る。
ヴァルドは窓の外を見た。
王都の灯りが揺れている。
観測できたもの。
観測できなかったもの。
説明できるもの。
説明できないもの。
結論は出ない。
だからこそ、彼は静かに言った。
「……監視を続ける」




